スペイン人?それともインド人?

1998年5月11日


一ヶ月ほど前、俳優の天本英世が昼のテレビ番組、「笑っていいとも」に出演していた。そのとき、72歳という高齢にもかかわらず、元気でいられる秘訣をたずねられて、「私はこの10年間、スペイン人をやっているからだ」と答えていた。

スペイン人は、自分の命は今日しかないと思っているらしい。夜寝るとき、明日があるとは思っていない。翌朝運良く目が覚めたら、また今日一日だけ精一杯生きることを決断するそうである。

これは禅の「一日一生」に通じる。そのときやっていることだけを一生懸命やる。それ以外のことは考えない。「三昧」(さんまい)の境地でもある。

「日本人」は、いつも何かをやりながら他のことを考えている。 食事をしながら仕事のことを、仕事しながらデートのことを、デートしながら明日の会議のことをという具合に、いつも、「心ここにあらず」になっている。今やっていることだけに集中していれば、見えるものは見えてくるのに、これでは目の前にあるものすら、何も見えないだろう。

スペイン語の" Que sera sera."(ケセラセラ)を直訳すれば、「存在するものは何であれ存在する」ということである。これこそ悟りの境地!じたばたしたところで、なるようにしかならない。

天本氏に対抗するわけではないが、私は「インド人」を目指そうと思っている。と言っても、この6,7年間、週一回のペースでインド料理を食べているからではない。(笑)

インド人を見ていると、興味を示す対象がおもしろい。彼らは短期間で変化するようなものは全然信用していない。変化のスパンが少なくとも千年、二千年、万年といったもの、いや、実際には変化しないものがあればよいのだろうが、それは無理なので、せめて永く変わらないものしか関心の対象としない。

彼らにとっては、毎日の株価の上下、誰と誰がくっつき、また別れたなどといったこと、とにかく、日本の新聞や週刊誌にあふれているような情報など、どうでもよい。こんなものに一喜一憂していると、ますます何も見えなくなることを知っている。所詮、この世はすべて「現象学」である。「世界」も「社会」も「国家」も「金」も、自分の思いこみ、社会全体が作り上げている共同幻想の産物である。妄想としての中にしか存在していない。客観的で普遍的価値のあるものなど、この世に存在しない。すべて「絵に描いた餅」である。

日本人、インド人、スペイン人、世界中には色々あるが、あなたに一番しっくりくるのは何人なのだろう。何だってよいのだが、先日会っ人は変わっていた。ガリガリにやせていたのでヨガで断食でもしているのか思った。だったらたぶん「インド人」だろうと思い、たずねてみた。すると、ヨガともインドとも関係なく、ただの胃下垂の人であった。じゃ、この人はきっと、キャベジンなのだろう。(チャンチャンっと)(汗)

マジェイア


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