大山から常盤台に向かって旧川越街道を行くと、環七通りの手前に、石神井川に架かる下頭橋がある。 「下頭」は「げとう」と読むが、この橋のいわれには諸説がある。
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3番目の説は、TVの「まんが日本昔話」でも紹介された。 それによると... ここには木橋が架かっていたが、大雨のたびに流失していた。 それを憂えた乞食の六蔵が、旅人に頭を下げながら一生懸命で金を貯めた。 六蔵の死後にその金が見つけた住民達が、六蔵の意志を継いで立派な石橋に架け替えた。 | |||||||
橋のたもとには、六蔵の道徳を讃えて、六蔵祠がこの建てられた。 |
(2002/03/31)
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板橋東体育館(加賀1-10)の脇にある小さな公園には、ちょっと変わったモニュメントがある。 その説明には...
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石神井川にかかる緑橋(加賀1-14)のたもとにも、これまた変わったモニュメント(下の写真)がある。 その説明には...
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右の白黒写真(終戦直後の撮影?)は、このモニュメント脇の説明板に載っているもので、ここにマンションが建てられる前までは、工場として使われていた。 昭和30年代(1960年前半)までは、この辺り一帯には土塁(高さ3m程の土手)が迷路状に残り、それに囲まれるようにレンガやコンクリート造りの建物が点在していた。 | ||
今でも工場として使われているコンクリートの建物(加賀2-11)は、頑丈な壁面と簡単な屋根の、典型的な火薬工場の造りになっている。 爆発事故が起きても、爆風は(屋根を飛ばして)上に抜け、周りの建物には影響しない。 |
理化学研究所・板橋分所(加賀1-3)の建物には、昔を偲ばせるレンガ造りの名残りがある。 | |
かつて、圧輪を廻す水車があったと思われる分水路の跡(加賀2-12)は、埋め立てられて遊歩道(写真の右方向)になっている。 写真の左側を、現在の石神井川が流れている。 今では単なる排水路、大きな下水道となってしまった石神井川も、明治時代には産業の原動力として近代日本の発展に貢献していた。 下流の王子近辺は、日本の製紙産業の発祥地と言われるが、やはり石神井川の水が使われていた。 (2002/04/13)
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