城北シーン(17)

東京の城北地区(板橋・北・豊島・文京ほか)の風景をご紹介します。

 

下頭橋 〜先人の功労に頭が下がる〜  板橋区弥生町52

大山から常盤台に向かって旧川越街道を行くと、環七通りの手前に、石神井川に架かる下頭橋がある。 「下頭」は「げとう」と読むが、この橋のいわれには諸説がある。

1. 旅僧が地面に突き刺した榎の杖が、やがて芽をふいて大木に成長したという逆榎が、この地にあった。
2. 川越城主が江戸に出府の際、江戸屋敷の家臣がここまで来て頭を下げて出迎えた。
3. 橋のたもとで旅人から喜捨(きしゃ)を受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられた。
下頭橋
3番目の説は、TVの「まんが日本昔話」でも紹介された。

それによると... ここには木橋が架かっていたが、大雨のたびに流失していた。 それを憂えた乞食の六蔵が、旅人に頭を下げながら一生懸命で金を貯めた。 六蔵の死後にその金が見つけた住民達が、六蔵の意志を継いで立派な石橋に架け替えた。
六蔵祠 橋のたもとには、六蔵の道徳を讃えて、六蔵祠がこの建てられた。 橋のたもとにある六蔵祠

(2002/03/31)


 

火薬製造の地 〜造兵廠(ぞうへいしょう)跡〜  板橋区加賀1・2丁目一帯

板橋東体育館(加賀1-10)の脇にある小さな公園には、ちょっと変わったモニュメントがある。 その説明には...
 これは、板橋火薬製造所(加賀下屋敷跡)の創設者というべき澤太郎左衛門の遺徳を称え建てられた記念碑であるが、実際に火薬製造に用いた圧輪を使用している。
 この圧輪は、幕府の命により太郎左衛門が慶応3年(1867)ベルギーで求めたもので、明治9年(1876)より同年39年(1906)まで黒色火薬を製造していた時に使用されていた。
 黒色火薬(現在、花火などに使われている)は、硫黄と木炭を混ぜ圧磨機の盤上に敷いて水を注ぎながら圧輪を回転させ圧磨作業を行う。 この圧輪を稼働させるため鉄製の縦軸水車(ベルギー製、現存せず)が用いられたが、その動力源に石神井川の水が利用された。
...と書かれている。 石で作られた圧輪は、直径が3メートルくらいだろうか。
圧磨機圧輪記念碑

石神井川にかかる緑橋(加賀1-14)のたもとにも、これまた変わったモニュメント(下の写真)がある。 その説明には...
 このモニュメントは、明治から大正時代に建てられたレンガ建造物の一部を利用しています。
 明治時代から太平洋戦争の敗戦まで、加賀1・2丁目には、日本陸軍の火薬製造所(東京第二陸軍造兵廠板橋製造所、通称「二造」)がありました。製造所は、江戸時代の旧加賀藩下屋敷の広大な敷地を利用して作られました。内部には、火薬の事故に備えて土塁で囲まれた建物やレンガ造りの建物などが建ち並んでおり、その一部は、戦後の払い下げ後も学校や工場、研究所の建物として利用されていました。
 ここの敷地にも、当時の建物が工場として残されいましたが、日本の近代建築史を伝える貴重なレンガ造築物を保存・活用するため、その一部をモニュメントとして利用することになりました。
...と書かれている。
レンガのモニュメント(2)   レンガのモニュメント(1)
右の白黒写真(終戦直後の撮影?)は、このモニュメント脇の説明板に載っているもので、ここにマンションが建てられる前までは、工場として使われていた。

昭和30年代(1960年前半)までは、この辺り一帯には土塁(高さ3m程の土手)が迷路状に残り、それに囲まれるようにレンガやコンクリート造りの建物が点在していた。
レンガの建物
今でも工場として使われているコンクリートの建物(加賀2-11)は、頑丈な壁面と簡単な屋根の、典型的な火薬工場の造りになっている。 爆発事故が起きても、爆風は(屋根を飛ばして)上に抜け、周りの建物には影響しない。

コンクリート造りの工場
理化学研究所

理化学研究所・板橋分所(加賀1-3)の建物には、昔を偲ばせるレンガ造りの名残りがある。
分水路跡の遊歩道
かつて、圧輪を廻す水車があったと思われる分水路の跡(加賀2-12)は、埋め立てられて遊歩道(写真の右方向)になっている。 写真の左側を、現在の石神井川が流れている。

今では単なる排水路、大きな下水道となってしまった石神井川も、明治時代には産業の原動力として近代日本の発展に貢献していた。 下流の王子近辺は、日本の製紙産業の発祥地と言われるが、やはり石神井川の水が使われていた。

(2002/04/13)  



戻る 「城北スケッチ」の表紙に戻る
戻る 「Jの雑記帳」の表紙へ
戻る 「Y-ファイル」のトップページへ戻る