福祉関係なのだ


平成4年2月22日
「一つは、たましいなのですが」
 こんな事を書くと笑われる…という事を前提に少し書いてみようと思う。
 私たち、介護を仕事とするものとしては、いつもあるのは、安全であったり、安心であったりする。いやいや、「リスクを作り出さないようにすることだ」という言い方もあるかもしれない。しかし、私は、少し違う。
 安心で安全であるということはとても大切なことだ。リスクを作り出さないという事も大切。だが、もっと大切なことはないのか。私は、「どれだけたましいがこもっているか」なのではないかと考えることがある。
 俗に言う「誠心誠意」という言葉でも少し、いいかももしれない。どれだけ真剣に…ということでもいいだろう。
 介護をするということは大変なことだ。毎日、何らかの障害を持った方たちと接する。それは、俗に言う「何かをする」という形で行われている。しかし、どうだろうか。正確はに介護をするということは、共に生きるということに近いのではないかと私には考えられる。
 介護する…とは言うか、困っているのではあるが、全てにおいて困っているわけではない。困っている部分が、ほとんど全てに及んでいたとしても、そうではない部分も多分にある。もっと言うと、本人ではなくて、外から見ているとそう感じるだけで、本人は、今までとは変らないと感じている。ただ、不自由な部分があるというだけだ。
 その時に、私たちは、単に不自由な部分があるからといって、それが、ものすごく変容させ、そして、時には「通常の人とは違う」考えさせることがあるが、それは、本人からすると、「今まで通り」でしかない。この事は、簡単に忘れてしまうことだ。
 私たちは、障害などによって、相手が身体的に変容していると考えているが、それは、相手の本質という部分の変容はない。障害という点で変容している。それは、変えられない。しかし、本質という点では、変容していない、または、変容があったとしても、全てではない…ということを忘れてはいけないのではないか。
 もっと言うと、たましいは変容してはいない。今まで通りなのだ…という事だ。介護する側が、たましいの変容があるのではないか、あって当たり前だ…と考えている場合が多いのではないか。
 こんな場面に出くわしたことがある。運動神経に障害があるのか、上手に口が回らない。または、早く話せない…という方に出会った。すると、その方は、それまでは早口だったのだという。しかし、対応している人たちを見ると、話しかけるときも、相手の話すスピードにあわせて話している。だが、実際には、相手は、話すときにゆっくりとか話せず、聞くほうには問題はないのだ。
 しかし、介護を仕事とする人たちは、ゆっくりと話してしまう。自分たちが変だという事に気がつかないのだ。それは、相手の障害を理解して…と言う事はまり前提にないのだ。その前に、基本的には、相手は、まずは特に問題がない方で、その一部に何かのトラブルを抱えているかもしれない…という感じでは接することがないのだ。
 相手のたましいは、それ以前と同じだ…とは、考えてない。まずは、それが前提であったら、その様な対応にはならないのではないか…と、考える。子供を例にとって見れば分かることだ。子供にっては、障害がある方もない方も変らない。同じように接するのだ。そして、違う部分だけ少し変えて接する。基本的には同じなのだ、違う部分だけを、その様に接するというわけだ。
 「たましいがこもっている」と書くと大げさかもしれない。しかし、たましいで接していないから、変な知識と偏見で相手に接してしまう。たましいがこもっていれば、たましいで接するだろう。そうすれば、相手の変容だけに対応し、そして、それに対してもっとも簡単で適切な方法で接することだろう。それをまず最初に出来ないことの奥の深さを感じている次第だ。
 9月23日
「根底から支える」
 「根底から、入居者の生活を支える」というのが私のテーマです。何というテーマなんだ(笑)。まぁ、どういうことか…というと、そのままですね。

 老人介護においては、また、福祉というもの自体が、きっとそういうものだと思ったりしています。まぁ、施設で言うと「入居者」なんだし、福祉全体から言うと、「福祉を必要としている人」…もっといい言い方はないんですかね。という事で、ふと思ったしまうのでした。基本的な生活を支えるというのかな、根底から支えるというか。施設内にいると、特にそういうことは忘れてしまいがちですね。誰のために、何をすればいいのかという事を、忘れてしまうというか、見失ってしまうというか。施設にいるという事自体、特殊なことなんですけど、ですが、基本的に相手も人間で、特にどうということはないはずなんですよね。だから、施設に入っていても、普通に生活しているわけですよ。でも、施設に入っているという特殊性…それはあくまでも一種の幻影だったりするんですけど…の為か、そういう大切な事実は忘れ去られがちですよね。現実的には、毎日の生活といっても、全て自分たちでやっている生活とは違って、かなりの部分、介護が入っているというのが多いんですけど…。ですが、そういう中でも生活しているんですよね。そういう、「生活している」という部分をどれだけ支えられるのかという事が大切なのではないかと思うわけです。

 生活している…という事なんですけど、具体的には何でしょうか?例えば、トイレに行く、ちょっと散歩する、移動する、寝るとかです。まぁ、着ているものを整えるとか、風呂にはいるとか、そういう事もあります。ですが、そういう事をどれだけ普通に、普通というのは、相手のスピードで出来るのかということでしょうけど、そういう事が出来るかということなんですよね。気が付けば、私達も自立しているんですけど、ですが、どうやって生活しているのかという事を考えると、やっぱり人並みというか、そういう感じで生活しています。それって、自分のペースで、自分の好みで、で、やっているという事ですね。そういう事をどれだけ実現させてあげられるか…というのが、根底から支えられているかどうかだと思います。ただ、こっちのペースだけでやっているというのは、根底から支えているという言い方は出来ないなぁという感じですね。当たり前の生活をどれだ出来るようにするのか…という事が、行事がどうのとか、レクがどうのとかというのではなくて、もっとも生活の根底なのではないかと思っています。それなくして、楽しいことは、楽しいこととして写らないのではないのかとさえ思ってしまうのでした。

 根底から支える…私達はいつでも、根底から支えられているからそこ普通の生活して、また、余暇を充実させられるのではないかと思うのです。根底の部分がなかったら…きっと、まともに自分として機能しない、生活できないのではないかと思います。私は、きっと、そういう根底から支えるような介護が実はいつでも忘れられているのではないかと思うし、必要なのではないかと思うし、そして、やっていきたいと思っているのです。
 7月3日
「現状はいつでも痛快で悲しい」
 福祉の実状というものをいちいち語っていると痛快で悲しいことが多いと思う。私の実感ではそうだ。福祉…といっても、別に、俗に言う福祉ではなくて、私の場合には、「老人福祉」だし、それも限られたところだけだ。だから、日本全体がそうだとか、福祉の世界がすべてそうだとかということはない。特別なのかもしれないが、ある意味で実状なのだ。

 福祉の世界にいて、老人の介護をしていますというと、随分とほめられてしまう。「えらいわね」という感じに。これは、皮肉にもこう変換されることがある。「そんな劣悪の状況で、よく薄給で働けるわね。どうかしているんじゃないの。そうやって、働けれるなんて偉いわね。」という感じだ。

 私の周りはそうだ。給料は当然のように安い。当然…といっていいくらい安いのだ。薄給。ベースアップという言葉があるが、そんなものは一年で一回、そして、三千円とか、千五百円とか。手取りが月に20万円でないという事も普通だ。まぁ、もっともらっているという人もいるとは思うが、私の周りではそういう人は聞かない。主任が新卒の人と同じだとか、主任手当がないとか、夜勤をやっても、たいしてお金にならないとか。普通のことだ。どこかで残業しないと給料にならないという会社の話を聞いたことがあるが、夜勤をしても給料にならないなんて普通のことだ。

 福祉の世界にいる人全てがゆがんでいるとは私は思わないが、比較的ゆがんでいる人たちが多いのは知られている事実だと思う。私もゆがんでいないことはないなぁと、反省することも多い。人としてゆがんでいる…という事である。自分が何のためにこうしているのか…ということを考えた気に、別にどういう理由もない…とかという人は多い。ただ、やっている…というだけとか。また、普通という感覚が麻痺していて、何をしても平気…という人も結構いる。「こういう事は、するとかわいそうだからしないようにね」ということを、福祉の学校で、実技などの時によく先生が話すが、それは、介護の「場」において平然とされていることが多いので、「しないように」という事をいうのだ。別に一般の人たちがしているからしないようにとか、そういう事をいっていないと思う。少なくとも私にはそう感じられる。そして、確かに一般家庭で、俗に言う「在宅介護」というのはとても大変なことで、比較的虐待に近いことは多くあるが、だがもっと大変なことは施設内での虐待まがいのことだ。それは、確かに「まがい」であって虐待そのものでないことは事実だが、数をこなせば見るに耐えないという事は事実だ。だから人読んで「虐待まがい」なのである。

 例えばこんな事だ。おむつが濡れていてかえてくれと訴えがあるのに、かえない。こんな事は日常茶飯事のことではないかと思う。実際には今はそういう事は少なくなっていると思うが、だが、見ているとそういう事は日常よくある風景であるのは事実だ。私には少なくともそういうことが見られる。まぁ、全くかえないという事ではなくて、すぐにかえない…という風景だ。すぐにかえなくてはいけないという事はなく、結局かえるからいいのではないかという感覚は理解できなくはない。私も人の子であって、そういう感覚はよく分かる。母親であったらそうだろう。今これをやってからね…ということは子供によく言っていることだと思う。しかし、そういう事が繰り返し重なっていくと…問題ではないだろうか。虐待…まがい…と、思ってしまわないだろうか。

 ナースコールが鳴る…しかし、「ちょっと待って下さいね」といったまま、対応しない…普通の風景だ。いや、そんな事はない、すぐに対応しないだけだ…という事もまた事実だ。対応しないわけではない…しかし、一休みしてからね…という風景。普通だ。別に特別なことではない。毎日の一コマである。特別なことはない。

 しかし、きっとこんな反論があるだろう。だって、それだけする給料はもらっていないじゃない…、そういわれても仕方がないだけの給料しかもらっていない私は思っている。そんなにもらっていない。そして、一人あたりの精神的肉体的比重はとても高い。私には高いと思える。長い間、ずっと平均して続けられるとはとても思えない。少ない人数で、少ない給料で、少ない介護資材で、どれだ出来るというのだ。すばらしい施設の紹介は続けられているが、どうしようもなく、最低限のことすら出来ない施設…そういうのもあるのだ。そういう施設に対していったい何がされているのかということを考えると、気が遠くなる。政府はどうしているのか…とか、また、施設運営者の技量のなさを見せつけられても仕方がないなぁとか。運営者の技量のなさは、それ自体が施設利用者、そして、施設職員に対しての虐待ではないか…とすら感じられるのだ。そういう事は感じないだろうか?知らないから分からない…、そう知らないから分からないが事実は事実なのだ。

 その中で、俗に言う「いい介護」が出来るということは、それ自体がすでに発狂の域であるかもしれない。ゆがんでいるのかもしれない。普通ではないのかもしれない。普通を望むこと自体どうかしているのではないかと私は感じている。私達は、そういう介護の「場」に接している。その中の喜怒哀楽は、痛快で悲しい。
 1月5日
「福祉…かぁ。」
 福祉…というものがどんなものであるのかという事は、きっと定義されていて、それで、ちゃんとしたものなのではないかと私は思っているのだが、結局は、どうなっているのかという事は私は知らない。残念ながらそういう事を教育される前に、私は学校と言うところから去ってしまった。別に去ったことが悪いことではないし、私は、もっと学校というところで勉強したいと思っているというのは事実だ。社会福祉士になるために、またカウンセラーになるために、もっと勉強したいと思っている。そして、自分が考えていることを出来るだけちゃんとした形でまとめたいと思っていることも間違いない。だから、勉強はしたいのだ。
 しかし、福祉というのを勉強するものだと考えるというのはちょっと違っているんだなぁと言うのが実感だ。まぁ、学校で勉強できるものであるには違いないし、また、そうすることが導入としていい事だというのには違いはないと思っている。しかし、それは学校で勉強することは、あくまでも導入でしかなくて、ただ、初めであるという事には違いないのだ。
 経験というのが全てだという事は言わないし、経験だけで全てが出来たらいいんだけど、そういう事ではないのだ…。そして、経験を積むまで現状は待ってくれないと言うのが現実だ。だから、勉強は大切。
 福祉…なんて大ざっぱに言ってしまったけど、でも、福祉全般という事で言えば間違えなくそうだろう。現実に仕事として行っている人、そういう人達にはいつでも、最新の情報が必要だし、また、勉強している学生にはより多くの経験が必要だ。この事はどの事柄でもそうだろうし、ずっとついてまわることだ。
 福祉は、何かいい人そうな感じがする。いい人そうな感じがするのはいいんだけど、福祉をすれば自分がいい人になれるのではないかと思ったりしている人はいないのかなぁと思ったりするんだけどね。そういう事を勘違いだと言って、攻める人もいるんだろうけど、私は別に攻めたりはしない。別に福祉を勉強することでいろいろと見えてくるという事が大切で、別に福祉を勉強した人が福祉の仕事に就かなくてはいけないという事は当然だが、ないのだ。大学で、経済を勉強した人が、経済に関する仕事に就いているのかと言われれば、そんな事はないし。政治学を学んだ学生が全て政治家という事はないのだ。だから、福祉を勉強した人が福祉の仕事に就くことはない。福祉という世界を見ることによって、何かを知るという事が大切なのだと私は思っている。
 自分が福祉に適しているのかという事を知ると言うだけでもいいんだと思うんだけどね。もっと、福祉のことを、そして、自分を含めた「人」のことを知って欲しいというのが私の希望なんですが…いかがですか?

 1月2日

「介護保険雑感」

 本気か?と思っているのが、私なのです。法案がとうとう通ってしまった。
 私の感覚だと、法律というのは、私たちの意識が必要として、それ以降に初めて法律が作られると言うものなんですよ。と、私は思っています。ですが、実状はどうでしょうか目介護保険が必要だと思っているのは、誰なんでしょうか?介護保険が必要なのは、官僚などのお役人なんだと思うんですよね。だって、本気で必要な人達っています?
 要は予算が立たないので、役人達がどうしようもないので作ったというのが本当なんでしょ?で、まぁ、もうそういう福祉財政がパンクしそうなので、パンクしたら増税になるし大変だからと、回避策として作ったわけでしょ?まぁ、増税にならない為にも、必要なんだ…と、いわれれば私たちにも必要な法律なんだと思うんですけどね。
 だから、介護保険って、私たちに福祉が大切なんだと教えるための意識改革のための法案ですよね。(笑)。

copyright:MASAAKI FUKUSHIMA
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