1.我がマックの大いなる歴史

導入初期

 思えば95年、ウィンドウズ95に世間が沸き返っていた年でもある。当然「パソコン」なる機械に私の目を向けさせてくれたのは、ある意味ウィンドウズかもしれない。しかし、私はマックを選択した。当時私の勤める会社ではまだまだパソコンユーザーは少なかった。「エキスパート」的な存在の人は前からマック(LC575)を使っていた。きっかけはそれだろう。そして「買う前に少しは勉強しなければ」と書店で手に取ったのが「マックファンビギナーズ」。それを貪るように読む。もう私の頭の中は「ウィンドウズかマックか」ではなく、「どのマックを買うか」しかなかったと言える。

 当時マックはビギナー、ファミリー向けに「パフォーマ」シリーズを出していた。今で言えば「iMac」に該当するが、当然デザインは普通のパソコンだった。それでも当時のウィンドウズマシンに比べたらマシなデザインだったことは確かだ。価格と機能のバランスを考えると、一体型の「パフォーマ5210」か、本体・ディスプレイ別の「同6210」が候補に上がっていた。「テレビデオ」にしても何にしても片方が壊れたら全部オシャカだ。一体型はセッティングは楽だが後々不便なことになる…そう考えて6210に決定する

 かくして12月30日は来た。前日会社帰りにチェックしておいた店に、開店と同時に赴く。混雑を避けてのことだ。目指すは6210。時期的にプリンタとのセットで売られていた。アップル純正「ColourStyleWriter 2200」というポータブル型で、実はキヤノンのOEMである。それで20万を少し切る価格だった(はず)。もっとも、当然のことながら年賀状には遅すぎる時期ではあったのでもう在庫はかなり少なかったそうで、ギリギリセーフ、と言った感じだった。

 喜び勇んででかい箱を車に乗せ、家に帰る。しかし折しも家の中は大掃除中。手伝わざるを得ない。何せ年末まっただ中だ。結局車から降ろしたのは次の日(大晦日)、セッティングしたのは何とさらに次の日(つまり元日)、という何だか随分のんびりしたものだったのだ。まあ、自分の部屋も片づけなければ乗せられなかったのだから当然といえば当然だ。

 最初に起動させたことは今でも鮮明な記憶だ。天皇杯で我がグランパスエイトが優勝した喜びの余韻を引きずり、起動スイッチを押したのだ。

 「うぉ〜ん」

 マック独特の起動音(当時は当然知らなかったので驚いたが)を鳴らして、わが6210は立ち上がった。

 当時、「At Ease」という言ってみればランチャーソフトが起動していた。ボタン一発でソフトを起動できる、初心者向けのインターフェースなわけだ。まず私が何をしようとしたかというと、「CDエクストラ」を使おうとしたのだ。ローリングストーンズの新作(輸入盤)は、そう言った仕様になっており、是非パソコンを買ったら見てみたい、と思っていたのだ。「『At Ease』を起動している間はCD-ROMを入れないで下さい」などというマニュアルの記述を気の短い私が読んでいるわけもなかった。

 CDを挿入した途端、見事にアラートのダイアログがでた。しかも、左端に爆弾のマークを付けて。 「ほー、これが例の爆弾か」

 などと感心している場合でもなかったが、あまりにも早く爆弾を出したことによる、ある意味感動とも言える感情は沸き出していた。誇らしげと言うか。

 とは言え、画面はウンともスンとも言わないのでどうしようもなく、雑誌に載っていた強制再起動のキーボード・ショートカットを試した。しかし、それでも何も起こらなかった。ではどうするか。さすがにマニュアルを見ると、リセットスイッチが背面に付いていた。回り込んだ手でその小さいスイッチを押すと、画面はブラックアウトした。そしてとりあえず10秒くらい待ってから再び起動。無事に起動が始まり、ホッとした。「普通と違う終了をしましたね。駄目ですよ」といったようなアラートが起動後に表われたことは言うまでもない。



 導入後の大暴れ

 それからしばらく、「楽しく楽しく」マックに金を注ぎ込む日々が続いた。

 ソニー製の外付けスピーカーを買った。

 「やっぱりマックならグラフィックでしょ」とばかりに「Art School Doubler」タブレットがセットになったものを買った。

 キャンペーン価格になっていた3Dソフト「Shade」も買った。

 買ってから後悔したCD-ROMも当然何枚かある。

 そんな風にソフトなど買ったりしてはいたが、プリンタを初めて試したのは3ヶ月くらい経ってからだったように思う。それまではとにかくいじくり回していたのである。

 とっくに「At Ease」は捨て去り、「Finder」の素晴らしい操作性に心奪われていた私は、出張中でもマックに触れていたい、と考えた。ある意味当然のことである。

 そうすると、PowerBookが欲しくなる。当時、まだそいつはかなり高価だった。液晶の価格が随分高かった頃のことだ。今はすっかり当たり前になったTFTなどは、超贅沢品だったのだ。当時のラインナップはPowerPCの5300シリーズ、一世代前のプロセッサ68Kの190シリーズがあった。190で十分だが、それでもデスクトップを買ったばかりの身にはきつい。しばらく待とうか…と思っていたら、いわゆる「型落ち」520cが出回ったのである。

 そいつは5300や190の様な武骨なデザインと違い、見ていて飽きの来ない、いかにもマック、と言った感じのフォルムを持っていた。値段もさることながら、その「見た目」が私を大きく惹き付けたのだ。これは買わずにはおれない。

 と、言うわけで買った。これで出張でもマックを触れる。こんな幸福なことはなかったのだ。そして68kともはや当時ですら世代が古くなっていたCPUではあったが、仕様に当たってはデスクトップの6210と比べてそれ程大きな差は感じなかった。考えてみると、6210のCPU、「603/75」はパワーPCの中では最も速度の遅いものであったのだ。まだまだパワーPCもこれから、と言う時代だったのである。

 520c用のソフトとして、「クラリス・オーガナイザー」を購入した。PIMソフト、と言う奴でスケジュール管理には力を発揮するものだった。これで「モバイル野郎」になれる?と思ったかどうか分からないが、最初は仕事の計画などはこれを使ってやっていた。しかし、こうしたことはやはりシステム手帳には敵わない、というのが結論だ。やはりいつも持っていなくては意味がないし、持っていたって起動に時間がかかる。ささっと書き込めない。見たい項目にアクセスしづらい。今は「パーム」が流行しているが、あれくらい小さくならないと駄目だろう。



 そしてインターネットの海原へ

 今では考えられないかもしれないが、最初のマックはメモリが16Mbであり、しかもしばらくは増設もせずに使っていた。まだOS自体がさほどメモリを喰わなかったこともあるし、高価だったということもある。最初のメモリ増設は購入後半年以上経ってからのことであった。まだ自分で中身を開けて増設、ということは恐かった時期である。当然のように愛機を小脇に抱えてショップへと向った。

 しかし、ちょっと見ているともの凄く簡単なことだったことに驚き、その作業にかなりの金額を取られたことにさらに驚いた。

 「これなら自分でやったって良いではないか」

 まあ、そんなものである。何せマックの場合、「開けるのは勝手だけど、保証はなくなっちゃいますよ〜」というのが前提なのだ。

 とにかく、プラス16Mbで合計32Mbとなった(何とせせこましい増設なのか。まあ時代を感じさせますな)愛機6210は、意外なほど作業効率がアップした。ちょっとした感動ものだ。後にその両方のメモリを捨てて32Mb2枚差して64Mbにするのだが。
 

 さて、インターネットに接続したのが97年のことだから1年半の間繋いでいかなったことになるが、これは当時としては大して珍しいことではない。今でこそネット接続は当然のようなものだが、まだまだ「インターネット」も単なる流行り、つまり一部の人のものに過ぎなかったのだ。

 と、いうわけでISDNも導入して一気にネット接続!となったのだが当時は接続ソフトとメールソフト、そしてネスケ3.0をパッケージングした「Internet スタータキット」が発売されており、それを購入した。こいつを使わない場合は設定の難しいフリーソフトに頼るしかないのが現状だったのだ。

 しかし、それでも現在のように「20分でインターネット!」という訳には行かなかったのだ。一体繋がるまでにどれくらいの時間、いや日数を要しただろうか。エラーの連発、ようやく繋がったと思ったら「認証されませんでした」とのつれない返事。もう少しでブチ切れてパソコンをたたき壊してしまわんばかりだった。スタータキットの接続ソフトはそれ自体はそれ程難しいものではなかったのだが、繋がらなくてあれこれいじっているうちに結局小難しいコマンドを打ち込むことになってしまい、間違えずに入力したつもりが一文字間違っていたりしたのだ。

 そうしてようやく繋がったときの感動といったら!これは得難いものだった。それほど紆余曲折、試行錯誤、七転八倒の連続だったのだ。本当に今はうらやましい。呆気ないほど素早く接続できてしまうのだから。しかし、私はこれで忍耐を学んだ。短気だった私が我慢強く(?)なったのはこのお陰と言っても言い過ぎではあるまい。



 二代目の登場

 ネット接続を果たし、色々なサイト、このときは特にワールドカップ予選が盛り上がっていたのでサッカー関連を中心にネットサーフィン(死語)していた。しかし、問題はいくらISDNを導入しても、画像関係の表示速度は正直かなりキツかったことだ。何度ブラウザの「中止」ボタンを押したことか。2年とは言え、6210では限界に来ていたのだ。パソコンの2年は途方もなく長いことを思い知らされた。

 そこで、遂に買い替えを決意する。しかし、ディスプレイも17インチを考えていたため、あまり多くを欲張ってはならない。出来れば込みで25万くらいで手を打ちたいものだ…と思いつつ、ショップでチェックする。ディスプレイはナナオ(EIZO)に決めていた。ただ、価格が他より高いのでちょっと二の足を踏んだが、実際に画面を見るとやはり高いだけのことはあるのだ。もう惚れ込んでしまって「E55D」に決定。

 問題の本体は、「7300/180」にほぼ決まっていた。かなり安くなっていたのだ。「まだ安くなるな…」と思って様子を窺っていたのだが、そこで予想通り新製品が登場。しめしめ、さらに安くなるぞ。しかし、そいつは大きく私を揺さぶったのだ。

 G3の登場である。

 これには参った。外見こそ7300など従来のデスクトップと何ら変わりはなかったものの、当時登場した「OS 8」の遅さに辟易していたのだが、そいつがスイスイ動くのを目の当たりにして、驚きとともに、これまでの計画が狂いを生じつつあることを自覚せざるを得なかったのだ。

 しかし、「これだけ凄い性能でこの価格か!」というG3ではあったが、単体ならともかくディスプレイも買わなければならなかった身としては少々予算オーヴァーではあったのだ。一旦その場は家に帰ってじっくり考えた。考えた結果、結局7300に決めた。様々な理由はある。登場したばかりのG3は(パワーPCが出たときと同じで)当然まだ不安定に違いない。ハードディスクがSCSIではない、これもきっと不安定に違いない。筐体が同じで、新しいマシンとしてはインパクトに欠けるではないか。当然このときに「ポリタンク」こと青白G3が登場していたら、どうなっていたことやら。

 …はっきり言ってかなり後ろ向きな理由である。つまり、半ば自分に言い聞かせるように予算に合わせたわけだ。本体は買い替えることはあっても、ディスプレイはもっと長い間使うことになるだろう、という予測もあった。だから良いものを買おうということなのだ。ナナオはどうしても譲れなかった。

 そうしてショップに走り、迷う前に7300とディスプレイを購入。でかい買い物をするときは緊張するものである。現金を出すときのハラハラとワクワク。最高のスリルだ。ところで、私の愛車エクシヴは天井がもの凄く低い。昨今の車高の高い車に囲まれると何も見えなくなってしまうほどだ。後部座席も当然低く、載せようとしたディスプレイが引っ掛かって入らなかったのだ。思いきり「エイ!」と突っ込もうとしたら「ばき」などと言って車体の何処かが泣き声をあげた。内心冷や汗が何リットルも流れたが、店員が「大丈夫ですか?」と言ったので余裕を見せて「いや大丈夫、入らないから箱から出して入れるよ」などと落ち着き払った声でそうしたのだった。後で見たらドア枠のモール(みたいな部分)が外れていた。やれやれ。(続く)


 アップグレードの功罪

 (続き)愛車を壊しながらも(大げさな)搬入した7300。さすがに6210と比べるとその性能の高さには満足の行くものであった。G3ではないにしても、速い速い。インターネットでその力は存分に発揮された。それまで遅くて遅くて見るのをあきらめていたサイトも見事、表示されたときのうれしさと言ったら。さらにはディスプレイ。こいつの画像の美しさ、これは当時としては抜群のものだった。いや、現在(2001年)でもその美しさは他を圧倒することだろう。

 ノートの方もさすがに68Kでは苦しくなってきた。まあ、ちょっとした表計算をする程度なのでさほど不自由はなかったのだが、新しく出るソフトはやはりパワーPCを当然のごとく対象にしている。この段階ではまだ良いものの、この先あまりにも不安だ、ということでアップグレードを考えたのは自然な流れだろう。

 当時はまだ520c用のアップグレードカードが売られていた。「クイックガレージ」という、アップル製品を対面修理する会社(日本NCR)があり、そこで改造費込みで販売していたのだ。これはパワーPCの603e/166というタイプで、まあ遅くはない、というものだ。このスペックならパワーブックにしては必要十分なスペックであった。

 しかし、実際取り付けて動かしてみても、思ったほどのグレードアップを感じられなかったのが残念だった。つまり他の部分、ハードディスクやビデオ、メモリ周りの性能が足を引っ張る形になってしまっていたのだ。
 特に前後して交換したハードディスク。こいつがなかなかの性悪だったのだ。とにかく遅い。一体いつの製品なんだ、フロッピーかお前は、とツッコミどころ満載のものだったため、場合によってはアップグレード前よりも性能ダウン、という結果となってしまった。悔しいが仕方がない。

 それでも2年以上使ったのはさほど重要な用途で使うことが無かったからでもある。それに、独特の形状をした520cに愛着があったことも事実で、時々イライラしながらも「まあしょうがないか」と笑って(ちょっと引きつりながら)許す日々は続いた。


 

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