HOTコロッケ
レストラン & ライブハウス

                  


これまで橋本オーナーが書いた記事で、HOTコロッケ誕生を語った内容を集めてみたものです。


HOTコロッケ誕生物語
「すべては“そば”から始まった」



(1)050713掲載
昨日の蕎麦屋で思い出した。HOTコロッケは6年目に入っているが、今思い出せば「すべては“そば”から始まった」と言っていい。
当時私は会社勤めの普通のサラリーマンだったが、ある日新聞にはさまっていた江戸川区の広報に、「男の料理教室 そば打ち」というのがあった。
食べることが好きな、とくにそば好きな私は「これだっ!」とすぐに電話をかけたが、先方の答えは「もういっぱいになりました」だった。
それから数ヶ月が過ぎたある日、「第2回そば打ち講習会」の募集を目にした。ところがこれも「定員に達しました」だった。
「こりゃダメだ、縁がなかった」とあきらめ、そんなこともすっかり忘れていたある日、突然電話がかかってきた。
「橋本さんは2回落ちていますので、次回は優先的に入れるようにします」というもの。
それは「そば打ち」ではなかったが、「男の土曜料理教室」というものだった。
−続く−

(2)050725掲載
「男の土曜料理教室」は楽しかった。月1回「グリーンパレス」という区の施設を借りての講習会である。参加者はほとんどが中年で、リタイヤーされた方も何人かいた。
4人1組で班を作り、毎回どこかの班が担当になって食材の買出しに当たる。買い物リストは事前に班長のところへファックスされてくるので、特殊なもの以外はスーパーで調達することになる。
当日は到着すると会計係が待っていて、参加費を払いエプロンをつける。キッチンテーブルの上には食材が取り分けられて置いてある。
ほどなく講師の先生がやって来る。
私はこの「教室」に2年間通い、3人の講師についた。2人目の講師は男性でいつも包丁セットをしまってあるアタッシュケースを持って来ていた。ケースの中は真っ赤なビロードで、それは高性能ライフルが入っている“ゴルゴ13”のようだった。指導はさすがに男性的で、いい意味で“大雑把”な料理だった。味付けは「適当に調味料を入れて、味を見ながら整える」的手法をとっていた。
−続く−

(3)050808掲載
男というものは道具に凝るもので、私も包丁を何本も買ってきたり、調理道具をそろえたりした。そうすると自分の作った料理を誰かに食べさせたくなるもので、もっぱら友人を家に呼んでご馳走(?)するというイベントが何回かあった。勤めていた会社には料理好きの先輩がいて「燻製はこうするんだよ」とか、昼飯を一緒にするときによく話してくれた。
そんな最中「男の土曜料理教室」では3人目の先生が来た。今度は女性でイタリアに何年間か住んでいた人だった。イタリア料理はさすが本物だった。この先生にいずれ大変お世話になろうとは、そのときは考えもしなかった。
1年ほど過ぎただろうか、バブル崩壊の余震で勤めていた会社がつぶれた。つぶれたというより、国策でつぶしたのである。某銀行の子会社だったが、親亀こければなんとやらで、あっという間の出来事だった。残務整理要員として慰留の話があったようだが、いち早く社長に「私は残りません」と伝え、仲間と共に長年お世話になった会社を出た。部下たちに言った。「これからは楽しく生きるよ」と。
定年まで勤めて、その後は好きなゴルフと時々歌を歌って“面白おかしく暮らそう”、などという不埒な計画はもろくも崩れ、さてこれからどうしようということになった。食べることが好きで音楽が好きだったら「ライブハウス?」という考えはずっと前から持っていたし、妻も賛成してくれたから「これでいこう」ということになった。
−続く−

(4)050815掲載
毎日が日曜日となった。雇用保険を毎月もらいながら、ライブハウス巡りを始めた。
都内各所の店を見た。高い店、安い店、きれいな店、汚い店。いろんなライブハウスがあった。高い店は平均して料理もうまかったが、安いのはひどかった。というより料理なんか出ないのが多かった。当時私は西葛西に住んでいたが、葛西にライブハウスがあり2回くらい出演させてもらった。
その当時訪問した店の概要をメモした資料がある。「店名」「所在地」「TEL」「階」「面積概算」「収容人数」「内装」「PA」「ミュージックチャージ」「ドリンク」「食べ物」「特徴」という項目を記入した。ある店の特徴のところにこうメモが書いてある。「ママ、夫らしき男、+手伝いの女性 曜日により出演者が決まっていいる、セミプロに出演料を払っている。客は地元の人が多い。出演者を見つけるのは最初大変だったが口コミで集まるようになったとのこと。費用二人で4000円 」

一方物件探しをしなくてはならない。私のゴルフ仲間で、その方面の仕事をしている友人に計画を打ち明けた。そして紹介を受けた物件をたくさん見て回った。私はもともと不動産会社に勤めていたので、後輩の転職先まで押しかけて物件情報をもらったりもした。都心の物件は「保証金1200万円」などというのはザラで、とても手の出せるものではなかった。
ひとつ心が動いた店が六本木にあった。南米出身のオーナー(もちろん外国人)の店が“後釜”を探していた。体の故障から仕事を続けることができないため、誰か居抜きで買ってくれる人をさがしていたのである。通常店をやめると、その物件をスケルトンにしてオーナーに返さなくてはならない。内装の解体や設備の撤去に費用がかかる。だから安くてもいいから誰か引き取ってくれる人がいたら、御の字なのだ。ところが諸般の事情から結局その話は流れた。
−続く−

(5)050822掲載
ライブハウス巡りは続いた。これはと思ったミュージシャンには声をかけた。「ライブハウスを開けるのでその節は出演してください」と名刺を渡しお願いして回った。それから基本的なことを聞くために何人かのアドバイスを受けた。「ライブハウスはどうあるべきか」についての意見を聞いたのである。なるほどと思ったのは「お客は出演者が連れてくるのです」ということ。いまでも確かにその通りだと思う。
やたらメニューの多い店があった。あれも出せばこれも出すと一貫性がない。明らかにスーパーで買ってきて袋を温めたものを出しているのだ。
すしをメニューに載せていた所もあった。近所のすし屋から取るのだろう。
オーナーがもっぱら歌って、お客には歌わせない店があった。そうかと思うとオーナーがピアノを弾いてくれて、お客が歌える店もあった。ライブハウスという範疇には入らないかもしれないが、とてもアットホームな店で何度も通った。そして「あんな店を作りたい」と思うようになった。
歌手が歌い始めると店内の照明を落とし、私語禁止みたいなところもあった。ちょっと堅苦しい気がした。
静岡まで出かけて物件調査したことがあった。友人が静岡にいて「店は俺がつくってやるから・・」というのだ。静岡は大好きな町だが中心街の家賃が東京並みだった。もしころあいの物件があったら“移住”していたかもしれない。
−続く−

(6)050830掲載
物件が見つからないのに、メニューの検討に入った。この辺も今考えるとかなり無茶だ。一番苦労したのはピザの台である。生地を作る際の、強力粉薄力粉の比率や、交ぜるオリーブオイルの量とか、何回も繰り返して作ってみた。もちろんそのつど試食するわけで、ピザ(出来そこない)はイヤになるほど食べた。ほとんどが“いまいち”のものばかりだった。そのうちなんとかいけそうなピザ台が出来たが、問題は保存である。出来立てならおいしいのだが、冷蔵庫に保管して次の日になるともう使い物にならなかった。結局手作りのピザ台はあきらめ、当初メニューに入れるのは断念した。

一方、基本的なメニューについてお願いしたのが「男の土曜料理教室」の先生である。何回も自宅に来ていただき料理の指導を受けた。そのときのレシピは今も生きている。
その先生が今のHOTコロッケの物件を教えてくれた。さっそく物件を斡旋している不動産屋さんを訪問した。瑞江の諸状況を親切に話してくれた。「人口がどんどん増えている」とのことだった。
物件を見せてもらうことにした。工務店の資材置き場だったから、セメントの袋とかドリルとかホースとかいろんなものが棚に並んでいた。入り口が狭いのが気になるが、地下でもありライブハウスには最適だった。ゴルフ仲間の友人や設計をお願いする先生にも後日見てもらった。設計の先生はその業界では有名な人で、友人の紹介がなければとても仕事を頼めるような人ではなかった。地下に降りた先生一目見て「ウーン、面白いな・・」とボソッと言った。何が面白いのか素人の私にはわからなかったが、芸術家の頭の中ではすぐにレイアウトが出来上がっていたようだ。意思は固まった。都心はやめて瑞江でやろう!1999年10月だった。
−続く−


(7)050906掲載
事業計画策定が始まった。資金計画、収支計画、資金繰等々。こういう仕事は会社時代にさんざんやったので、“作ることそのもの”は難しいことではなかった。1日何人お客が来て、単価いくらで、月の売上がこうなって、経費がこんなもんで・・という次第。今改めて見直すと「こんなに売上ないなぁ・・・」である。
店名を決めなくてはならない。今思うと噴出したくなるようなもの(銀座のクラブみたいな)もあった。結局妻の案を採用することにした。電話帳で東京中の店を調べたが同名の店はなかった。さっそく設計の先生に連絡した。ロゴを作ってもらうためである。「ホットコロッケ」「Hot Croquette」を持ち込んだが、先生は「HOTコロッケにしましょう」と決めてくれた。

設計が始まった。この先は当方は全く門外漢であり、ほとんどおまかせになるのだが当方の希望を何点か提示した。
1)「換気をよくすること」 2)「トイレは男女分けること」 3)「階段下に収納場所を設ける」などである。
先生からは「予定しているメニューを出してください」と言われた。後から知ったことだが、メニューによってキッチンの設計が変わってくるのだそうだ。出したメニューは今見るとすごい数だった。温麺(ソーメンの温かいもの)なんかもあった。
まだ物件の賃貸借契約はしていない。契約は2000年の1月中旬と決まった。
−続く−

(8)050913掲載
PA設備については自分でやらなければならない。幸いYAMAHAの役員に、親しくしている高校の先輩がいた。今は関係会社の社長だが、その人に「ライブハウスをやるのでその節はお願いします」とお願いした。その人から担当者を紹介してもらい高輪にあるYAMAHAの事務所を訪問した。親切に応対してくれた。PAのリストが出来上がったが、YAMAHAでは直接売れないので、業者を紹介してもらった。
ピアノについては、結構大変だった。あのピアノは自動演奏が出来るタイプなのだ。BGMにピアノ自動演奏させようと考えたのである。銀座の山野楽器へ行ったが、たまたま現物がなかった。中古を扱う店には自動演奏タイプがなかった。いろいろ手を尽くして結局千葉の白井店で買えることになった。新品だった。このピアノが後で難しい問題を生じさせるのである。
ギターアンプとベースアンプは小岩のM7さんにお願いして分けてもらった。ドラムは友人の友人から譲ってもらった。

食器や厨房で使う道具も揃えなくてはならない。合羽橋は数え切れないほど通ったし、また都内のデパートへも行きお皿などを注文した。備品については今思うと必要ないものをずいぶん買ってしまって、反対に必要なものを買い忘れていた。我が家のマンションの1室は倉庫と化した。料理は水が命である。浄水器は世界一とされるメーカーのものを買った。高かった。
−続く−

(9)050926掲載

「そうだホームページを作ろう」と思い立った。とはいえどうやって作るのかわからない。本屋に行きパソコンコーナーでその種の本探した。私のPCにインストールされているソフトを使うことにして、そのソフトの解説書を購入した。あとは解説書と首っ引きである。プロバイダーも決めなくてはならない。PCについていたソフトで、あるプロバイダーに登録しようとしたが、メールアドレスが入らない。何を入れても「そのアドレスは既に登録済みです」と出る。たとえば「unanochetibia」もダメである。これは私の歌っているラテンの曲の冒頭歌詞である。頭に来て次々とプロバイダーを換えてトライしたが、結局引っかかったのが現在のものである。
初めてアップしてHPを確認したときは感激ものだった。工事の状況等写真を撮ってアップしてみた。そのころのホームページは保存していなかったので、残念ながら今は見ることが出来ない。
一番最初のHPは1ページのみだった。上に「HOTコロッケ」「何月何日開店予定」(当初4月開店だった)とか書いて、真ん中に「記事」下のほうに住所とか電話番号(これはまだ決まっていなかった)を書いた。
今でこそ更新を頻繁にしているが、当時は何か新しいことが出たときだけ更新していた。はっきりとは覚えていないが、1号の記事を載せたのは1999年12月か2000年1月だったようだ。
写真が思うような場所に貼り付けられないのには参った。文字を入れると写真がどっかへ行ってしまうのだ。写真が複数になると、ひよこのかごをひっくり返したようで、あちこちへ逃げ回るひよこ(写真)を捕まえるのに苦労した(笑)
−続く−

(10)051004掲載

当然のことであるが、賃貸借契約を結ばなくては工事は始められない。だが設計の方はどんどん進められた。
設計者の先生と施工を担当する業者の間で、様々な打ち合わせが続いた。大家さんはいろんな便宜を図ってくれることになり、とても助かった。
我々が参加するときはいつも近くの「ジョナサン」で打ち合わせた。
キッチン備品(ガス台、調理テーブル、冷凍冷蔵庫、洗い場等)の配置については、仕事の流れを考え「効率の良いレイアウト」にすべく議論が交わされた。
設計最終案に基づき備品発注するのだが、現場の寸法取りはきわめて正確にしないと、備品がピッタリ収まらなくなる。今見てもきれいに収まっているから、「さすがプロ」と感心した。
賃貸借契約は1月中旬だった。斡旋してくれた不動産会社で契約したが、その事務所に勤務していたのが、恵美ちゃんのお母さんだった。
後日「アルバイトしてくれる人を探しているんですが・・」と相談してみると「ウチの娘が今○○でバイトしているんで聞いてみます」ということになった。
恵美ちゃんは物件と一緒に斡旋してもらったと言うわけ(笑)
−続く−


(11)051018掲載

赤羽にある友人(ゴルフ)の会社で、「仕入先選定と協賛」について打ち合わせがあった。まずはお酒やソフトドリンクのメーカーを選んだ。
各メーカーの営業担当者が呼ばれ、打ち合わせが続いた。

この話はメーカー決定後のことである。
営業担当が「商品の選定をしますので、一度本社の方へお出でください」と言ってきた。さっそく約束の日に訪問した。
応接室に通され、(この時点でこんな対応を受けていいのだろうか?)という疑問が沸いたが、話はどんどん進んだ。
ワインが何本も持ち込まれ、惜しげもなくポンポンと開けられた。グラスに注がれたワインをソファーに座って次々に試飲するのである。
「コルクを引き抜く時は、向こう側に倒すとコルクが割れてしまいます。手前に引っ張り上げるようにしてください」とワインの開け方や注ぎ方を教えてくれた。
昼間っからこんなことをするなんて、酒のメーカーだから許される行為なのだろう。
私は車を運転しなくてはならないし、もともと酒は強くないので、主に妻が飲む役になった。
「このドリンクを扱っている店が新宿にあるので、今度ご案内します」と言われ、お言葉に甘え日を改めて営業担当の“接待”を受けた。
開店当初のドリンクメニュー作成もお願いした。先方にしてみれば、売りたい商品をメニューに載せることができるのだから、「仕事」なのだろう。

それから開店時に必要なドリンク用の冷蔵庫とかグラスの類とか、メーカーからいただけることになった。「このグラスを4ダースください。ワイングラスはこれだけ・・・」という具合だ。
いまは各メーカーともこんなに優遇することはしていないと思うが、当時はずいぶん良くしてくれた。
あとの話だが、開店時には酒屋さんからもドリンクの協賛が受けられた。すごい量だった。これもいまは厳しくなっているかもしれない。
−続く−


(12)051101掲載

工事が始まった。まずはコンクリートの床をはつって(削って)配管用の溝を作る作業だった。もうもうたる粉塵でとても中には入れなかった。
階段が出来た。もともとの階段はまっすぐなもので取り付け位置も少し違っていたが、大家さんのご好意で現在のようならせん状の階段が新たに取り付けられた。
電気設備工事、給排水衛生設備工事、給排気ダクト設備工事、空調設備工事、ガス設備工事、内装工事、木工事等さまざまな工事が工程表に基づいて進められた。
設計時点で床材の説明があった。「床は杉を使います。コンクリート打ちっぱなしなので、床を木材にしないと音の吸収が出来ず、音が内部で複雑に反響し合い不快な音になっててしまいます。また杉は時間が経つと木と木のつなぎ目に隙間が出来てくるので、音の吸収という点で最適なのです」
工事担当の業者が言った。「1年くらいすると杉材は反ってきますよ。そのときはアフターケアーとして直します」
床の反りは結局なかったが、最初はぴったりとしていた杉材に隙間が出来た。ずいぶん広がってしまった箇所もある。

ある日工事現場を訪れると、壁に原色で十文字にの塗装がなされたボードが取り付けられていた。「これは最終的に何になるんだろう?」と訝しく思った。現在イラストが描かれている壁画のことである。絵を描いたのは、設計の先生とタイアップして仕事をしている若いきれいな女性だった。キャンバスになるボードの下地塗装の上に、彼女が自由に描いていった。入口の階段エリアの絵は足場が不安定で、見ていても危険な作業であった。
−続く−


(13)051107掲載

前に書いたピアノだが問題が生じた。設計変更で階段の横に壁を作ることになったが、そのため階段スペースが狭くなり、搬入出来なくなるかも知れないというのである。
YAMAHAが現場に来て設計図をチェックし、搬入が可能かどうか計算した。結論は不可であった。
工事中にピアノを持ってくることなどもってのほかだし、かといって持ち込めないのでは困る。
結論が出た。壁を作るのを最後にして、その前に床を貼りピアノを持って来るのだ。YAMAHAに連絡して、工事の進捗を見ながら何日に搬入と決めた。
ピアノが来た。打ち合わせ通り厳重に厳重を重ねたように、ぐるぐる巻きにされていた。ピアノは現在の位置に近い壁際に置かれ、何日も工事を見守ってくれた。
工事完了、店内清掃したあとピアノは身ぐるみはがされ、ピカピカの本体が現れた。調律士が来た。
壁が出来てしまった現在、ピアノを持ち出すことは不可能である。

−続く−

(14)051128掲載

開店の案内状を作らなくてはならない。パソコンでチラシを作った。まだ慣れていなかったので写真の配置などで相当苦労した。案内状を作りチラシをプリンターで印刷した。
総数650枚である。切手代だけでもかなりの金額だった。
一方メニューを作るのだが、ドリンクメニューは前に書いたメーカーの営業担当の方が作ってくれた。食事の方はいろいろ考えた末、当面出せるものといずれ出すものとを併記して、「いずれ」の方は小さなマークをつけわかるようにした。今から考えると必要ないことをしたと思う。
チラシにはこのように書かれていた。「定休日は火曜日、営業時間は17:00から24:00、ライブは毎日20:00から23:00まで3ステージ入れ替えなし、20:00以降はライブ料金がかかります」
17:00オープンにしたのは、食事だけのお客さんも取り込もうと想定していたからである。食事のお客さんと、その後のライブのお客さん、「二兎を追おう」としていた。実際はそんな早い時間に来るお客さんは皆無で、結局後日現在の18:00オープンに変わるのである。
わかったことは「二兎を追う」ことは難しいということ。店の性格付けはお客さんがするのであって、店がしたとしてもうまくいかないということがあるである。
開店チラシを見る
−続く−


(15)051219掲載
開店の案内状を出したが、それとは別に開店披露パーティの案内状も作った。この店を作るに当たってお世話になった方や、元の勤め先、親しい友人を招待してのレセプションである。招待状は88人に出した。開店日つまり営業開始日は3月19日だが、パーティはその2日前の17日とした。

内装が完了し厨房設備が持ち込まれた。椅子とテーブルも出来きてきた。当初予定していた椅子が間に合わず、別のものが届いた。1脚2万いくらするもので当初のものよりはるかに良いものだった。差額は工事業者が持ってくれたのでこちらの負担はなかった。
いざ開店してみると、キッチンがもう少し広かったらと思うが、少しでも客席をたくさんにという設計者の配慮の結果だと思う。
「店は3軒作らないと満足出来るものができない」と言われるそうだ。最初の経験から2店目は改善するが、多分行き過ぎがあるのだろう。HOTコロッケの2店目はないから、これでガマンしてやらなくてはならない。

パーティの日が来た。やることがあり過ぎてパニック状態だった。山のように花束や電報が届けられたが花を置く場所がない。現在美容院となっている場所に一部置かせてもらった。ここに入っていたお花屋さんが退出し、しばらく空いていたからである。たくさんの花束はどなたからいただいたものか、メモも取らずに後々不義理をしてしまった。
テーブルと椅子は上の空き店舗に置かせてもらい、必要最小限のものだけ店に残した。つまり立食パーティである。

パーティはおかげさまで大盛況だった。信じられないけど、私のそのときのいでたちはスーツにネクタイ、そして革靴である。サラリーマンがなかなか断ち切れないのが「名刺とスーツ」ではないかと思う。名刺の肩書きに執着し、当初は「○○会社代表取締役」などという名刺を持っていたが、いまは「HOTコロッケ 橋本吉彦」としか書いていない。
たくさんのお客様が来てくれた。立食パーティをして、私の学生時代からのラテントリオが歌った。あいさつを最後にした。覚えているのは「出演者とお客様と店のスタッフ、この三者がみんなで楽しめるような店にしたい」というコンセプトを語ったことだった。
−続く−


(16)051226掲載
営業開始の3月19日が来た。ライブはブラジル音楽の“XACARA”が出演した。情けないことだが、当日のことは今では思い出せないことばかり。HPも残っていないし、したがって写真もない。

毎日のゴミはどこに捨てればいいのか。家庭用でないから業務用のゴミは区のゴミ収集車は持っていかない。しかたなく(当時住んでいた)西葛西のマンションに持ち帰り、本当はいけないことだが、ゴミ置き場に置いた。1ヶ月位はその状態が続いたかもしれない。そのうち業務用ゴミ処理業者がどこからともなくやってきて、契約することになったので問題は解決した。素人が店を始めるなんてこんなものである。何はどこで買ったらいいのか、どこに頼めばこれをしてくれるのか・・・わからないことが多いまま始めたのである。
店をやっていると、いろいろ業者が営業に来る。必要なものとそうでないものの見分けをつけなくてはならないが、最初はわからないものである。

瑞江は東京のはずれである。そんな所に「新しい文化を持ち込んだんだ」と自負していたが、開店当初はHOTコロッケがどういう店なのか理解していない人が来た。「あの〜ライブってなんですか・・・?」と恐る恐る小さな声で私に質問する客がいたり、「コロッケ屋さんが出来たって聞いたんですけど・・コロッケ4つください」と買いに来た中年女性が2人いた。もちろんお分けした。
そうかと思うと、閉店間際に酔っ払ってやってきて「ビール!」、キョロキョロ見回して「なんだオンナのコいねぇのか・・」と勘違いしている猛者もいた。

ライブハウスが出来たと聞きつけて、さっそく出演を申し込んでくれるミュージシャンがいた。出演者不足で困っているときだから、とてもうれしかった。毎月出演している“ザ・クルエルシー”も開店後すぐに応募してきたバンドのひとつだ。お客とお話しているうちに、「(歌を)やるんですか・・・じゃあ今度出てください」とか「いまから歌いませんか、どうですか?」と、今はすっかり常連さんになった方にお願いしたことがあった。そのうちに少しずつ出演候補ミュージシャンが増えてきた。
−続く−


(17)051230掲載
半年間続いたこの「HOTコロッケ誕生物語」も今回で最終回となる。
細切れに書いてきたので、今読み返してみれば書き残したことがいくつかあったし、また忘れてしまったこともずいぶんあった。

思うのは「人間1人で出来ることは本当に限られている」ということ。
HOTコロッケは、たくさんの方の協力を得てようやく完成し、そして今まで続けて来られた。
数え切れないほどのライブ出演者と、その応援に来たお客様。
また裏方で頑張ってくれたスタッフの仲間たち、そしてなによりも妻の理解と協力のおかげと深く感謝している。

せっかく皆さんにかわいがっていただいている店なのだから、長く続けたいと思う。
今は私達夫婦2人とも元気なのでまだ大丈夫だが、年齢や健康のこと、またその他の事情から“働くことがかなわない日”がいつか必ず来る。
もしそうなったらどうするだろうか。
現在のスタッフが後を引き継いでくれるだろうか。
あるいは、どなたか事業継承してくれる人が現れるかもしれない。
そうであればいずれにしてもありがたいことだ。
今まで開店準備段階でも、そして開店後も、ピンチの際には必ず助けてくれる人がいた。
だからHOTコロッケにはいつも「幸運の女神」がついていると、今でも信じている。
しかしこれからはどうなのであろうか。
「女神さま見放さないで!」とひたすら祈る毎日なのである。
−おわり−