更新:2006年2月
伊王野家の歴史

 伊王野は「いおうの」と読むと 各種文献は伝えている。地名ですら「いおうの」と読むのだ。しかしながら、当家では「いおの」と読んでいる。昔から そうであったのか、いつしか、「う」の字がとれたのかはわからない。 NTTのAngelLineで全国の伊王野さんを検索すると、水戸本家のみが「いおうの」として登録している。江戸初期の分家と思われる筋でさえ「いお の」としているのに、何故であろうか?水戸本家のみが近世になって、読み方を「いおうの」に正したのであろうか?(余談になるが、ここでは30家ほどの伊 王野家が確認されました。半分は江戸後期以降からの本家と分家ですが、残りの半分は未確認です。未確認の家は江戸初期の分家の末裔だと思われます。)
 しかし、ある日、そのメカニズム(?)が分かった。ある日、スーツを買いに行った先の店で宇都宮出身の店員さん(私よりずっと年上の方である)が、「私 の地元に伊王野という地名があるんですよ。」と言うから、「ああ、そこは先祖の土地なんです。」と説明し、さらに上記の疑問を聞いてみたところ、「発音は 訛って、いおのって言うんですよ。」と教えてくれた。なるほど!ということは、正式な読み仮名は「いおうの」、発音は「いおの」。今の時代、姓の読み方は 発音と同じなのが通常では無かろうか?だから「いおの」で正しいように思える。
 そこで気になるのは、例えば先祖が豊臣秀吉や徳川家康に謁見した際に、何と自己紹介したのであろうか?正式名称と思われる「いおうの」で自己紹介したの か?今となっては分からないが。。。

 源氏と平家の戦いにおいて、功 績を残した那須与一宗隆は、源頼朝の命により、10人の 兄をさしおいて、那須家の当主となった。しかしながら、若くして亡くなった為に、子供がおらず、その後を継いだ兄(資之)もいたが、やはり、男子が誕生せ ず、宇都宮朝綱の子を養子として迎え、資之の娘を正室とし、名を那須資頼とした。資頼は後に源頼朝から諱を賜わり頼資と改名している。頼資の長男は光資と いい、那須家を継ぎ、次男は資長といい、伊王野の地(現在の栃木県那須町伊王野)を分知(1195-1205)され、伊王野次郎左衛門尉資長(那須肥前次 郎)を名乗る。これが初代となる。左衛門尉とは官位であり、当時、有力であった宇都宮家や小山家の当主でさえも左衛門尉であったという。
※那須与一宗隆については、64歳まで生き、越後那須氏の祖となったとの説もあり、実際に子孫が現在もいるところを考えると、それが史実であろう。
※那須資頼(頼資)については、与一宗隆の異母弟とする系図もある。その異母弟の母が宇都宮朝綱の娘であった。いずれ調査したい。有力なのは異母弟とする 説のようだ。
※資長の妻は八幡庄(宮城県多賀城市)を領していた平景衡の娘で、その関係からか資長には蒲生郷や鎌倉(妻から譲渡)にも所領があった。

 その後、子孫は東寺合戦、上杉 禅秀の乱、結城合戦等に参戦し、激動の戦国時代を迎えることになる。
 戦国時代、19代当主資宗(下 野守)、20代当主資信(下総守/那須七騎の一)が活躍する。宇都宮氏、芦名氏、岩城氏、佐竹氏らと抗争があり、ま た、宗家である那須家と共に戦い、時には、那須家にも反旗を翻して、佐竹氏の力を借りて戦っている。とりわけ、宇都宮氏との五月女坂(早乙女坂)の戦い (1549)では、当家家臣鮎瀬弥五郎が射った矢で、宇都宮家当主の宇都宮尚綱を討ち取っている。
 このようにして、宗家那須家八万石、伊王野家一万三千石(一説では一万五千石と も)の最盛期を迎えた。しかし、豊臣 秀吉による小田原の北条攻めにおいて、那須資晴が北条氏との義を重んじ、豊臣方に参戦するのを躊躇していたのを、説得するため、当家も小田原への参陣が遅 れ、那須家は所領没収、当家も735石まで減封されることとなる。実質的には減封であるが、本領安堵ということである。すなわち、本領とは初代資長が分地 された伊王野と両郷の土地である。
 同門である大関氏、大田原氏は沼津まで秀吉を迎えに行ったので、大田原氏は所領を全て安堵され、大関氏は加増さえあった。ただし、こ れ以前にも両氏は京都で秀吉に面会しているからでもある。
 伊王野資信は再起をかける。文禄の役への参加。ここでは、第一軍の大将である加藤清正に属し、加藤清正、浅野長政(第一軍の軍監)両 将より嘉賞されている。そして、秀吉の死後は、上杉家の動向を探り徳川家康に報告し、返答の書状も頂いている。
 また、関ヶ原の戦いでは、上杉方の侵攻に備え、下野北部を固めていた。資信と長男資重は伊王野城で、弟資友は上意により大田原城に大田原晴清・服部半 蔵・福原資保らと共に詰めていた。資友が上意により大田原城に詰めたのは何故だろうか?推測だが、伊王野城は合戦となれば最前線となり、玉砕する可能性も あったために、伊王野家の血を絶やさない配慮であったのでは無かろうか?もう一つの推測としては、後に資友は大田原晴清の娘を娶っていることから、すでに この時、
晴清の娘と資友が恋仲で、娘に頼まれた晴清が裏で手を回したと考 えられなくも無い。もちろん単なる政略結婚だった可能性もあるが。
 いずれにせよ上杉方の侵攻は大規模なものでは無かったというが、白河口から攻め入ったとの情報が入ると、関山で待ち伏せ、これを激破 したという。が、嫡子資重はその際の怪我がもとで、後に亡くなっている。この関山の合戦については別ページで詳細に書いてます。
 関ヶ原合戦後、現在の栃木県の高根沢で2000石加増され、伊王野家は2738石で旗本となった。往年の勢いは無かったものの、一応 は安堵した形になった。その後、大阪冬の陣・夏の陣にも参加している。
 しかし、悲劇はさらに続く。資信の後を継いだ次男資友(豊後守)が重病に伏し、娘に養子をとらせて、資房としたが、資房も重病とな り、二人とも順 に亡くなってしまった。しかし、嫡流である資重の子、資直がおり、資直に家督を継がせようとするが、末期養子の禁により認められず、また、宇都宮釣天井事 件に巻き込まれたりし、伊王野家は改易となってしまう。
 存命であった資信は再度にわたり伊王野家再興を願い出たが、認められず、そのうち資信も高齢で他界し、
資信の弟 の直清を中心に伊王野家は生きながらえてはいたが、いつしか再興は諦め(改易後100年!)、嫡 流である資直の子の資忠は水戸藩に仕官し、後に家老となっている。資忠の生没年(元禄11年11月の大地震にて74歳で他界)は、ほぼ、水戸光圀と同じで ある。資忠の子孫は水戸に現在も続いており、私の祖父が次男であったため家を出ている。つまり、私は傍流ということになる。他には、資友の弟の子孫は池田 藩(鳥取県)、資忠の弟は大田原藩(栃木県)に仕官している。さらに那須一門の同族である芦野家中伊王野氏(簗瀬氏が名乗る。何故?)、館林秋元家中伊王 野氏(伊王野家の家臣であった磯上兵部に伊王野姓を遣わした)もいたという。大田原伊王野氏は近年絶えたらしいが、他は続いている。
 江戸時代末期には、伊王野資清(婿養子)が天狗党(尊王攘夷派)に所属し、敗戦後、東金村に追放されている。資清の実子である資信は 天狗党には参加していない。
 現在の栃木県那須町伊王野には、伊王野城跡、伊王野館跡、他、先祖が建てた社寺(専称寺、長源寺)が残っている他、初代から改易され るまでの当主の墓も残っている。伊王野館跡は現在、伊王野小学校になっているものの、一部の土塁も残し、当時の規模が偲ばれる。
 私自身も二度ほど訪れ、伊王野城を登ったことがある。山城であり、山を切り開いた跡、つまりは本丸跡など残っている。伊王野館跡を見 学していた際 は、何故かミニパトが現われ、私と友人らを観察してた(?)ので、もしかしたら不審人物として通報されたのかもしれない(笑)。
 現在、調べていくと、婚姻関係 から、遠い近いはあるにしても、上杉禅秀などの歴史上人物や、八田知家(宇都宮家の分家で子孫は小田家や茂木家。一 説では源頼朝の庶腹の子。)、佐竹家、小山家、大田原家、那須家、宇都宮家、結城家、茂木家などの血も受け継いでいることがわかる。(直接の婚姻関係があ り、私にも受け継いでいるのは那須家はもちろん、小山家、佐竹家、茂木家、他、福原、木須、芦野、千本、牧野、金丸、佐久山、稲沢など那須の同族、そし て、塩谷家、出自ははっきりしないが伊達家や佐野家である。宇都宮家は、伊王野家初代の資長の父である頼資が宇都宮朝綱の子であった(一説では那須資隆と 朝綱の娘の子が頼資)点と、戦国時代に那須政資の娘が伊王野資直の室となったために、那須家の婚姻関係の血が入ったので、当然、宇都宮朝綱以外の宇都宮家 の血が入ったことと、上杉禅秀、結城家、大田原家などの血も入ったことになる。)
 また、近隣諸国側の資料を読むことにより、さらに詳しい事実がわかってくることと思うが、簡単には手に入らない資料もあるかと思うの で、これを読んだ方で協力頂ける方がいれば、有難いと思っています。
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