伊王野資宗

19代目。官位は下野守。本家那須家、長男資信と共に、1万3千石の領土を所有した。(資料によっては1万5千石、1万7千石とも称す。)

室は塩谷伯耆守義房の娘。母は那須壱岐守政資の娘。父は資直。
塩谷伯耆守義房については詳細は不明。私はこれを由綱(義孝)の名が誤って伝わったと推測している。伯耆守という官位自体が塩谷家当主につけられているか らである。
「塩谷伯耆守なんて言ったっけなー。義なんとか.....、義房とか、そんな名前だったかな?」という感じで。しかし、由綱は宇都宮寄りなので、ありえな いように思える。今後、調査の対象としたい。

那須資晴とは従兄弟に当たる。
長男は資信であり、後に、関ヶ原の戦い時に徳川方の証人(人質)となっている猪右衛門の娘とは直清の娘のこと。資信には直久と直清の弟がいた。また、関ヶ 原の戦い時に徳川方の証人(人質)となったのは資信妻及び家臣某女2人も同様。
五月女坂(さおとめざか)の戦い(1549)では家臣鮎瀬弥五郎実光に射させた矢で、敵将宇都宮尚綱を討ち取った。

■下野守資宗(1517頃-1594)

左衛門尉資直の嫡子で、始め直晨、のち資辰(晨)と称し、さらに資宗と称した。19代当主。当初、父である資直は次男であるが故に、家督は資直の兄である 資勝が継いでいたと思われる。しかしながら、資勝には子供が生まれず、資直が家督を継ぐこととなったと思われる。故に、直晨と名乗っていた資直の嫡子は、 予想外にも家督を継ぐ系統となり、名に「資」の字を用い、資晨、資宗と改名したのであろう。
天文18(1549)年9月27日、那須修理大夫高資が喜連川五月女坂において、宇都宮俊綱(後に尚綱という)と戦う。那須勢は300余騎。宇都宮勢は大 軍2000余騎。俊綱(尚綱)が五月女坂の南の小山に陣を張って、軍兵を指揮しているところへ、資宗は手勢を率いて、小山を越えて俊綱(尚綱)の陣営に肉 薄した。俊綱(尚綱)は守りを固めたが、伊王野勢の鮎瀬(あゆがせ)弥五郎実光を始めとして、黒羽(くろう)筑後、同太左衛門、薄葉備中父子、小白井玄 蕃、秋庭助右衛門、小滝勘兵衛などが奮闘し、宇都宮勢が劣勢となった。この機に鮎瀬弥五郎は宇都宮俊綱(尚綱)を弓矢で射殺し(馬上に組んで落ち、俊綱の 首を討ち取るとの説もあり)、大音声に名乗ったから、宇都宮勢は退却した。資宗は、弥五郎の殊勲を賞して、名を豊前と給い、感状に太刀一口を添えて授け、 かつ秩禄を増した。後、弥五郎は俊綱討ち死にの場所に永楽十貫文を充てて五輪塔を建立し、その霊を弔った。その場所は現在も弥五郎坂として地名に名を留め ている。
永禄3(1560)年、奥州小田倉の戦いにも参加した。芦名盛氏父子は白河結城晴綱父子を誘い、3000騎で那須に向かい、小田倉原に出陣した。那須勢は 1000騎内外で対抗。劣勢であったが、千本氏らの軍の到着で優勢になり、奥羽軍を追い返した。
天正13(1585)年3月25日、宇都宮国綱は、那須資晴を討って祖父俊綱(尚綱)の仇としようと、菷川を渡って薄葉原に進軍した。那須資晴は家臣及び 那須七騎を催促して、これに応戦した。この戦でも再び、資宗は家臣の鮎瀬豊前(弥五郎実光改め)、小滝勘兵衛、田代長門、小山田監物、同佐渡、人見茂右衛 門、町本内匠、小白井玄蕃、沢口四郎兵衛、秋庭助左(右?)衛門を率いて、宇都宮国綱の本陣に突撃した。国綱は退却したが、鮎瀬豊前がこれを追い、今まさ に国綱を討ち取ろうとしたのを、資宗が見て、薄葉備中(始め惣三郎)を遣わし、鮎瀬豊前を制して止めさせた。国綱は幸いにも危機を免れ、兵を退却させるこ とが出来た。後日、論功行賞の場で那須資晴が資宗の勇を賞し、また、鮎瀬豊前が国綱を討とうとしたのを止めた理由を「下野守殿。何故だ?よもや心変わりで は?。」と聞くと、資宗は「以前に家臣弥五郎は、 大将俊綱の首を取り、再び大将国綱を同人の手にかけるのは、武士の情けにおいて忍び難いものがある。のみならず、宇都宮氏は下野南方の豪族であって、相州 北条氏直の侵略を阻止すべき土(堡)塁である。助けて、これを存在せしめることが、却って那須氏の利益ではないか。それゆえ、制止したのである。」と答え た。資晴は、その遠謀を諒とした
ちなみに、基本的に那須勢は那須本家とその家臣、那須本家と同盟を結んでる那須衆らで構成される。中には那須衆ではない同盟者もいる。いずれにせよ那須本 家は同盟の中の盟主というわけだ。よって、那須本家の家臣ではなく同盟者である資宗に対し、「伊王野」でもなく「資宗」でもなく「下野守殿」と一目置いて 呼んでるわけである。
天正13、4(1586)年の交、資宗は大関清増と領地を争って、野上村(黒羽町)で戦うが、敗れて、その結果、東郷(野上、両郷、須佐木地方)大半の領 地を清増に奪われた。前田町中の東側までが伊王野領であったが、この戦により黒羽領に移った。但し、大関清増は、その年中に若くして亡くなっている。戦に より手傷を負ったのであろうか?
しかしながら、この伊王野と大関の抗争も解せない。何故戦った?その少し前に那須資晴の命令で大関高増を中心とした大田原3兄弟が千本資俊を謀殺した。こ れは千本資俊が恐らく「我ら那須衆は北条と手を組むよりも佐竹・宇都宮と手を組むべきだ。」と考えており、それが那須資晴や大田原3兄弟の考えと逆で あったため、千本家が宇都宮方に走る恐れがあり(既にそうだったのかも知れない)成敗したという理由が建前であろう。那須高資を殺した男を成敗すべきだと いうのも少しはあったかも知れない。しかし、高増の本音は、資俊に嫁いでいた高増の娘が離縁されたことによる私怨と領土拡大の意図によって、資晴をまるめ こみ許可を得て成敗したという理由だろう。
では、伊王野と大関の抗争は?大関が独断で攻めたとは考えにくい。つまり、資晴も承知だったはずだ。しかし、資晴としては千本家のように謀殺する意図はな く、少し痛い目に会わせてキチンと従わせてやろうという意図ではなかろうか?高増は資晴に「伊王野は佐竹と組むつもりだ!」とか「薄葉原の戦いの時に宇都 宮国綱を討ち取らせなかったのも、そのせいだ!」とか讒言したのであろう。薄葉原の戦いの後の論功行賞の場で那須資晴が「何故だ?よもや心変わりでは?」 と資宗に言った時、高増は伊王野領を奪う策を思いついたわけだ。


文禄3(1594)年2月4日没。77歳。嫡子資信が文禄の役で朝鮮に出兵し、和平交渉となり、一時帰国し、慶長の役で再び出兵するまでの間に亡くなった のであろう。
那須資晴とは従兄弟に当たる。本家那須家、長男資信と共に、一万三千石の領地を持った。(一説には一万五千石、一万七千石とも。)
一万三千石の所領とは、伊王野、両郷、野上、藍吉、東小滝、棚橋、蒔戸、堀之内、蓑沢、追分、山中、木戸、戦、追田原、七曲、夕狩、砂子、神木、迯室、小 島、黒田、針生、松倉、松沼、赤淵、峰岸、原方(法師畑、田中、熊久保辺りから北、高久方面)、その他(会津田島方面の一部)。

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