伊王野資直

18代目。長源寺開基。晩年は出家し長元(ちょうげん)と名乗る。
宇都宮・佐竹と合戦し勝利する。大田原資清が一時追放され永平寺で僧となり、朝倉孝景(福井城主/後に織田信長により、朝倉家は討ち滅ぼされる)とも交流 を重ね、朝倉家の250兵を借りて下野に復帰する(追放の謀略をしかけた大関宗増と福原資安を討つ)際に、資直は手勢およそ50にて資清を助ける。小山勢 300と宇都宮勢300も加わり、総勢1000ほどの兵であったと思われる(1542年)。
室は那須壱岐守政資の娘。
父は伊王野資真(稲沢弾正の子を養子とする。稲沢弾正については不明だが、同じ那須一族の稲沢家の末裔。稲沢家の嫡流か、または伊王野家の家臣である傍流 の稲沢家であろう。しかしながら、伊王野家の家臣に稲沢氏がいたと思われるのも、関ヶ原の戦いの時の関山の合戦の時の記録からであり、家臣ではなく助っ人 として参じたという可能性もある。)、母は伊王野資広の娘。
当初、兄資勝が家督を継ぐが、子が生まれず、次男であった資直が継ぐことになる。
那須壱岐守政資は宇都宮氏と結ぼうとしたが、長男高資は対立。政資の娘の母の出自は不明。政資は前妻には岩城常隆の娘、後妻には大田原山城守資清の娘がい た。しかし、資直の子の資宗が誕生した頃は、いまだ岩城常隆の娘は政資に嫁いでいない。よって不明である。側室の娘であろう。一説では 那須政資の妹といい、 政資の法要の際には「伊王野上」として法要銭を納めている。
当時の伊王野家は大田原家よりも強大であった。那須本家に次ぐ勢力であったが、豊臣秀吉の小田原攻め以降、領地を減らされ、衰えた。
但し、大田原家は大田原一門(大田原資清は大関家と福原家を自分の子に継がせたので、以後、同族となった。)を合わせれば伊王野家よりも強大であった。
那須政資の長男は高資(母は岩城常隆娘)、次男は資胤(母は大田原資清娘。胤の字は資 清の父胤清からか。)三男資 郡<すけくに>は福原家を継ぐ。よって、いずれも資直とは義兄弟。よって、資直は資胤の長男である資晴(室は結城晴朝娘)の叔父に当たる。那須政資は那須 家棟梁であるが、それ以前に分裂していた上那須・下那須は、その父資房の代で統一された。資房の父は資実(下那須)で母は明資(上那須)の娘である。明資 の祖父は資之であり、上那須の祖である。また、資之の室は上杉氏憲(禅秀)であるからして、その血も当然、当家にも流れることになったわけである。当家は 上那須の所属であった。いずれ、このへんの難しい系図も記したい。
一説では那須政資は実は資房の弟の木須頼実の子であるという。
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