20代目。官位は下総守。那須、大関、大田原、芦野、千本、福原と共に那須七騎と呼ばれた一人。父資宗と共に奮戦し、1万3千石の最盛期を作り出した。こ
の石高は一説には1万5千石とも1万7千石とも言われている。
室は佐久山左衛門佐信隆の娘。那須の支族。佐久山氏は永禄6年(1563年)に義隆の
代に同族の福原安芸守資孝に滅ぼされた。信隆と義隆の関係は不明だが、親子か兄弟であろう。母は塩谷伯耆守義房。
一万三千石の所領とは、伊王野、両郷、野上、藍吉、東小滝、棚橋、蒔戸、堀之内、蓑
沢、追分、山中、木戸、戦、
追田原、七曲、夕狩、砂子、神木、迯室、小島、黒田、針生、松倉、松沼、赤淵、峰岸、原方(法師畑、田中、熊久保辺りから北、高久方面)、その他(会津田
島方面の一部)。黒羽城(大関氏居城)のすぐ東側までもが伊王野領であったが、豊臣秀吉の北条攻め以前に大関氏との抗争で、黒羽城の東側の土地は掠取され
ている(1585-1586頃)。大田原資清が生きていたら、このような掠取は無かったのではと思う。資清が死んで、その長男の大関高増は義を軽んじ、時
代に即応した動きをしていたのだろう。伊王野氏も構え場館・前田弾正館を築いて、大関氏からの侵略を妨ごうとしたが、結果は前出の通りである。
家臣には鮎瀬氏の他、薄葉氏、田中氏、梁瀬氏、三野沢氏、熊久保氏など。沼野井氏や稲沢氏も伊王野家旗下の武将であった。
大関氏との抗争で敗れた(黒羽の前田以東の土地を失った)上に、豊臣秀吉の小田原攻め(1590)の際、本家那須家が秀吉のもとに参ずるのを拒んだのを説
得するがため、当家も参ずるのが遅れ、所領の大半は奪われ、わずかに、伊王野/両郷の地を安堵され、735石に減封処分。伊王野家と千本家はどちらかと言
えば、那須本家の意見に賛同していたようだ。よって、同じ那須七騎とはいえ、この二家は豊臣秀吉に印象が悪かった。一説には、これは大関家の策略とも。
伊王野家と大関家が争った年に、大関家の若き当主大関清増が亡くなっている。これは戦いの傷が原因だとも考えられる。そうと考えれば、余計に遺恨を残した
戦いであり、お互いに恨みを持っていたと考えるのが自然であろう。
秀吉の小田原攻めの直後、佐竹家の文書によると伊王野家及び千本家は宇都宮家の与力となるよう命じられて、那須の一党でありながら、宇都宮家に出向して
たらしい。
征韓の役(文禄・慶長の役<1592/1597>)では加藤清正の軍に属し、加藤清正・浅野長政両将より嘉賞。
その後は徳川家のために働き、上杉家の動きを家康に報告し、家康からの返答の書状も残っている。関ヶ原の戦いの際、関東を守り、白河関付近の関山で上杉
軍と戦い、173の首を斬獲。勝利。しかし、長男資重は、その時の怪我がもとでいずれ死ぬことになった。資重には幼い長男資直(本人にしてみれば、曹祖父
の名。)がいたが、資信の次男資友が継ぐことになる。豊後守資友という。前出の関山の戦いでは、大久保忠隣・服部半蔵・大田原晴清・福原資保・那須資景ら
と共に大田原城を守る。関山に上杉軍が侵攻してきた報が入ると、直ちに伊王野資信・資重の元へ援軍として各将は出馬したが、向かう途中で、伊王野軍の勝利
が判ったので、城に戻ったという。
資友の室は大田原綱清娘(高清娘とも)で、娘は千本大和守義等(よしとも・3875石知行)に嫁ぐ。但し、義等には子生まれず、千本氏は改易となってい
る。弟の和隆(なおたか)がかろうじて名跡を継ぐ。
伊王野家は関ヶ原の合戦後、二千石加増され、2738石で旗本となる。その後の大阪冬の陣・夏の陣においても、資友は徳川方で出陣している。本多正信に
従ったようだ。
3男資壽の子資年は鳥取池田藩に士官し、江戸後期〜明治初期には緒方洪庵の弟子となり、日本初の臨床書「察療亀鑑」表わした伊王野坦(資明)を輩出。久美
浜知事となった。
「関ヶ原の戦いの頃の伊王野家動向」
那須七騎の一人である伊王野下総守資信は、天正18年の豊臣秀吉の小田原攻めに際し、本家那須家の当主那須資晴が北条氏との義から参戦を拒むのを説得す
るため、参陣が大関・大田原氏より遅れ、その為、本領安堵の沙汰をもらったとはいえ、石高738石となってしまった。天正10年頃には1万3千石であっ
た。天正13年頃、大関氏との抗争に敗れ、黒羽の前田以東の土地(野上)を掠取された上に、秀吉に本領(先祖伝来の土地を言う)だけの安堵を沙汰されてし
まった。
伊王野家再起のため資信は努力する。文録元年の朝鮮の役(文録の役)では、加藤清正の軍に属し、高麗陣を勤め、蔚山の戦に最も奮戦し、加藤清正・浅野長
政の両将より嘉賞された。那須七騎中、征韓役に従軍したのは伊王野氏ばかりであったという。那須町誌によると、帰国事件など石田三成や秀吉に対して憎悪す
べきことがあったし、その時の徳川の恩顧などがあり・・・、と記しているのは以下を意味している。小田原の役の翌年(天正19年)、那須七騎は浅野長政の
指示のもと大阪に詰めていたが、浅野長政の「君たちは小身になったので上方に長くいるのは大義であろうから、那須七騎は交代で在国しなさい。」という配慮
によって、まず伊王野資信と芦野盛泰が所領に向かったが、浅野長政と対立する石田三成が秀吉に「那須の者どもは我がままだ。許可無く国に帰った。」と報
告、怒った秀吉が直ちに早飛脚を下野に向かわせた。資信は領内に入り、懐かしい伊王野城が見えだした時、その早飛脚が追いつき、状況を知った資信はすぐに
そのまま大阪へ引き返し登城した。恐らく芦野盛泰も同様であろう。結局は徳川家康のとりなしによって秀吉に赦され事無きを得た。それにより、自然と資信は
徳川へ傾いてゆくのである。
日本に戻った資信は、謀反の疑いある上杉景勝の動向を探り、家康に報告している。慶長5年5月3日、家康は資信に書状を出す。「追っ付け出馬し、(景勝
を)討ち果たすであろう」という内容である。同年7月、家康が景勝征討の軍を率いて、下野小山に来た時は、資信、他の那須の諸将と共に小山に謁し、人質と
して資信の妻(佐久山信隆娘)・猪右衛門(伊王野直清)娘・家来娘2人を江戸に送った。家康、那須七騎の誠意を賞して、それぞれに太刀一口・黄金十枚を
贈った。西の情勢が緊迫してきたので、家康は江戸に戻った。8月25日の御内書で、家康は「景勝が出馬したら直ぐ知らせるように。」という内容を述べてい
る。この御内書は伊王野氏の他、那須氏・大田原氏・大関氏にも出されていたようだ。家康は9月1日に江戸を出発し関ヶ原の合戦に向かう。
9月14日、景勝方の妹(芋)川縫殿頭、林蔵人などが白河城に籠り、金子美作守、柿崎右衛門、美濃、横田大学、大道寺、平林寺の加勢を得て、伊王野口に
進軍し、先峰関山にいるとの急報があった。資信、嫡子資重は伊王野城において軍議を開き、資重の意見によって、彼が手勢を率いて関山を奇襲し奪取し、後か
ら資信本隊が出陣することになった。時を移さず奥羽軍の出鼻をくじくべく実行に移った。家臣薄葉備中が資重の命を受け、夜陰に乗じ関山に登り、虚をついて
敵兵数十人を討ち取り、関山を奪取。さらに作戦を練って夜明けを待ち、明けて15日朝、関山が奪われたことを知った敵兵が殺到した。資重、備中と謀り、山
頂に到達しようとする敵兵に対して、関山観音堂及び別当満願寺修繕のため用意してあった材木・石材を、上から落とし、敵兵が慌てる間に鉄砲を撃って奮戦し
た。丁度、資信本隊が到着し、資重の上からの攻撃、資信の横からの攻撃により、奥羽軍は敗走した。黎明から午前10時まで続いたこの合戦で、敵兵173を
討ち取り、味方の兵39が死んだ。資重も重い傷を二箇所に被り、その年の11月に亡くなってしまった。手柄第一は薄葉備中、次は黒羽太左得門、小山田監
物、秋庭助右衛門、黒羽対馬、町本内匠、沢口四郎兵衛、伊王野猪右衛門直清、伊王野兵部、田中藤兵衛、小滝勘兵衛、鮎瀬豊前(弥五郎改め)、小白江玄蓄、
田代長門等である。大関・大田原・那須氏らは、急報によって驚き、直ぐに援軍を出したが、途中で伊王野軍の使者により戦勝が告げられ、引き返した。
この論功により、高根沢で2000石を加増され、合わせて2738石となる。昔日の面影は無いとはいえ、一応は安堵することになる。
資信は資重が死んだことにより、次男資友に家督を譲る。資重には嫡子資直がいたが、まだ幼いので、資友が継いだのである。資友は大阪冬の陣、夏の陣に参戦
する。
<伊
王野家臣団>
以下は関山合戦前後の主力家臣団である。
鮎瀬豊前 |
薄葉備中 |
伊王野兵部 |
田中藤兵衛 |
小滝勘兵衛 |
小白江玄蕃 |
田代長門 |
黒羽太左衛門尉 |
内山田監物 |
秋庭助右衛門 |
黒羽対馬 |
町本内匠 |
沢口四郎兵衛 |
熊久保内蔵之亟 |
稲沢右馬亟 |
佐藤八右衛門 |
斎藤七右衛門 |
小山田加兵衛 |
人見茂右衛門 |
小林源左衛門 |
遠藤太郎左衛門 |
中島喜左衛門 |
五斗蒔惣右衛門 |
松本志摩 |
稲沢佐左衛門 |
平久江弥右衛門 |
伊藤 |
鈴木 |
丸田 |
三野沢 |
久郡 |
飯村 |
印南 |
浅川 |
竹貫 |
小山 |
原方 |
相馬 |
興野 |
大谷 |
大久保 |
滝田 |
沢村 |
三野輪 |
横岡 |
阿久津 |
|
|
田中家は田中要害を居城とした。
黒羽家は言うまでもなく現在の黒羽町(当時は大関家の所領)からつけられた名字であろう。おそらく、大関家台頭以前の古くには黒羽に所領を持っていたの
だろう。但し、「くろばね」ではなく「くろう」と読む。
稲澤(沢)家は那須の一族。伊王野初代の弟の家柄。本家から分かれた支流が伊王野家に仕えていた。
三野沢家は二岐ヶ峰城の主で、新田氏または芳賀氏の子孫と言われている。
家
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