25代目。伊王野家再興かなわず、1652〜1654年に水戸藩へ士官。歩行目付、江戸普請奉行、江戸奥方番等経て、元禄九年(1696)頃家老となる。
その後、現在に至るまで、本家は茨城県水戸市千波町に在住。
74歳で死去(1629-1703)。
水戸藩家老と出世したが、子孫は家老を輩出しなかった。
室は堀田某娘。
当時、水戸藩藩主はあの徳川光圀(水戸黄門。1628-1700。)であった。生存期
間を比べると、同世代である。
■水府系纂 第五十四より(資忠以降〜幕末の当主)
伊王野孫八資忠。曽祖を下総守資信と云う。姓は藤原那須の一族にて世々下野国伊王野に住す。
那須七騎の一員也。天正18年庚寅、小田原の一戦に秀吉公に属し武功あるを以て直参となり本領に安堵す。文禄年中、朝鮮の戦に加藤主計頭清正の手に属して
敵兵数多討取、慶長5年庚子関ヶ原の役に神君に従い軍功あるを以て、本領元の如く賜う。祖父を又十郎資重と云う。早世するを以て、その弟豊後守資友、父の
家督を継ぎて伊王野1万石を領す。寛永年中故ありて配流せらる。
此に於て領地を失う。父を又六資直と云う。幼稚にして父資重を喪し叔父資友に養育せらる。資友配流の後、流落して終わる。資忠承応年中、威公に奉仕す。切
符を賜って歩行士となり、明暦元年乙未10月、歩行目付(明暦3年大帳)、延宝7年巳未4月15日、江戸普請奉行、元禄4年辛未8月18日、吟味役となり
金奉行を兼す。元禄7年甲戌2月11日、江戸奥方番、8月16日英勝寺方丈附属の用人※となる。元禄9年丙子12月朔同く家老となり、元禄16年癸未11
月23日死す。七十四歳。堀田何衛門某(他家士)の娘を娶って1男を生む。孫八資節と云う。
孫八資節。初め資有、又、資生。初名、市之進。元禄12年巳卯9月15日、切符を賜って歩行士となり、元禄15年壬午4月18日、小十人組、正徳5年乙未
6月28日、同組頭、享保6年辛丑6月9日、馬廻組、享保10年乙巳7月14日、進物番、享保12年丁未4月18日、大納戸奉行、元文元年丙辰5月22
日、大番組、元文5年庚申2月17日、故ありて小普請組、寛延元年戊辰11月13日、馬廻組に還り、宝暦2年壬申正月13日、再び大番組となる。4月23
日死す。六十二歳。妾2男を生む。長は又六郎資英、次を近藤郷衛門忠行(初名孫次郎)と云い、寛保2年壬戌7月23日、郷衛門忠久養子となる。
又六郎資英。初め資邦。初名、右衛門吉。寛延2年乙巳12月24日、切符を賜って歩行士となり、宝暦元年辛未9月3日鳥見役を兼す。父(資節)死して、宝
暦2年壬申6月15日、その切符を賜う役如(加?)元、宝暦10年庚辰12月25日、小十人組となり鳥見役如(加?)元,明和7年庚寅3月7日、馬廻組、
安永4年乙未5月9日、進物番、安永6年丁酉12月25日、馬廻組頭、安永9年庚子9月29日、大番組となる。天明5年乙巳7月5日、死す。七十一歳。遅
塚傅左衛門利房(淡路守頼多朝臣家士)の娘を娶って、2男を生む。長は又六郎資明、次を大内多古種全(初め資全)と云い、安永8年乙亥10月17日、大内
弥市種之の養子となる。
又六郎資明。初名、恒衛門。父(資英)死して、天明5年乙巳8月26日、その切符(金十五両五人月俸)を賜って小普請組、寛政6年甲寅4月9日、馬廻組、
文化元年甲子6月29日、大番組、文化9年壬申3月3日、書院番組となる。病身たるを以て願い奉り、文政元年戊寅8月24日、男信成(後の資生)を以て番
代とす。文政5年壬午7月5日死す。七十八歳。阿久津茂介常珍の娘を娶る。妾、1男を生む。大八郎資敬と云う。寛政2年庚戌12月24日初めて文公に謁し
奉る。寛政12年庚申10月8日死す。二十一歳。島村木工左衛門行冨の娘を娶る。資明妻(阿久津氏の娘)死す。再び、古川吉郎衛門教忠の娘を娶るが男子無
し。享和3年癸亥6月9日、小野瀬孫蔵修敬の三男、又六郎資生を養子とす。
又六郎資生。初め信成。初名、萬吉、又、又八郎。養父(資明)の番代として書院番組。養父死して、文政元年壬午8月26日、扶持を賜って小普請組、文政6
年癸未3月14日、切符を賜って小十人組、天保2年辛卯10月19日、土蔵番、天保9年戊戌11月4日、奥方番、天保13年壬寅4月14日、新番組、嘉永
2年己酉8月14日、馬廻組となる。嘉永6年癸丑10月11日死す。七十歳。養父(資明)の娘を娶り、再び、徳田五左衛門篤義伯母を娶る。共に死す。後、
鈴木伴衛門道善の娘を娶る。男子なし故に、文政11年戊子6月9日、永田惣左衛門清嗣次男、秀次郎清愼を養子とす。天保4年癸巳4月27日、初めて上公に
謁し奉る。天保10年己未7月19日不束の事あるを以て江戸水戸を構い暇を賜う。天保14年癸卯12月23日、當夏、烈公(徳川斎昭)日光御陵(?)参並
びに、幕府より御国政を褒章せらるる慶賀に依って、構いを免せらる。養父の娘を以て妻とす。2男を生む。長は又太郎資信と云う。嘉永4年辛亥3月9日、格
別の思し召しを以て祖父資生の養子となる。次を平吉某と云う。
又六郎資生、嘉永4年辛亥6月16日、武芸出精に依って白銀3枚を附せらる。嘉永6年癸丑6月15日、御床机廻を命ぜらる。祖父資生死して、この年12月
3日、扶持を賜って小普請組。安政元年甲寅8月14日、切符を賜って歩行士となる。萬延元年庚申9月、烈公の霊枢に扈従し奉り瑞龍山に至る。10月、上公
御参府に扈従し奉る。文久3年癸亥2月、上公御上京に扈従し奉る。7月、餘九麻呂君※の駕に扈従し江戸に至る。8月、土蔵番となる。元治元年甲子6月、願
なり江戸邸に到り、後、吉田薬王院に来り、退いて、那珂湊へ楯籠り、官軍先に諸家の兵、主家の人数へ敵封じ追って、幕府御目代田沼玄蕃頭意尊の諭に依って
官軍に下る。戸祭水之介勝強の妹を娶って、2男を生む。長は又一郎資秀、次を又次郎資利と云う。
(以上 水府系纂 第五十四より)
資信の代に明治へと突入する。
資秀以降は以下の通り(略系図)
資秀—+&
mdash;勇——
+—ー—&
mdash;+—穣
| | いち |
| | └=恵之————洋一
| |
| └—力&
mdash;—+—孝紀&
mdash;—+—孝一
| りき | |
| | └—正史(私)
└—秀吉———正之 └—春雄
※資秀の弟の系統は見川伊王野家や友部伊王野家となる。
力の系統は水戸〜甲府〜東京へと移ったので何と呼ぶべきか考え中である。
水戸系東京伊王野家とも言うべきか。
『解説』
□英勝寺・・・徳川頼房養母であった英勝院(太
田康資の娘で徳川家康の側室お勝の局)
が祖先の地に尼寺を開いたもの。先祖の太田道灌が江戸城を築く
まで、鎌倉のこの地に道灌の屋敷がありました。浄土宗の寺院で
鎌倉唯一の尼寺。
英勝院が、1636年(寛永13年)に完成させた。代々水戸家の
息女が住職をつとめていたので、水戸御殿とも呼ばれた。
伊王野資忠は一時期この寺の用人であった。
□餘九麻呂・・余九麿。会津藩主松平容保の養子、喜徳という。
家
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