伊王野資友

21代目。豊後守。旗本。
関ヶ原の戦いにおいては、大久保忠隣・服部半蔵・大田原晴清・福原資保・那須資景らと共に下野を守り、大田原城に詰めていた。娘は千本大和守義等(よしと も・3875石知行)に嫁ぐ。但し、義等には子生まれず、千本氏は末期養子の禁により改易となっている。義等弟の和隆(なおたか)がかろうじて名跡を継 ぐ。
伊王野家は関ヶ原の合戦後、高根沢で二千石加増され、2738石で旗本となる。その後の大阪冬の陣・夏の陣においても、資友は徳川方で出陣している。本多 正信に従った。
室は大田原綱清の娘。
大阪両陣の後は、移封・改易される大名の城の明け渡しのため、城番を何度か務めてい る。他の下野の武将も同様であった。

資友の室は大田原家からということは前出したが、当時の大田原家及び一族の勢力は那須地方では強力なものであった。伊王野家としても、今後のことを考え て、嫡流であった亡き資重の子である資直がいるにも関わらず、政治的に大田原家と血縁になった資友に後を継がせようと考えたのかも知れない。もっとも資直 はまだ幼少ゆえに無理だった。

豊後守資友は病に倒れ、井上新左衛門より養子(数馬)を迎え、資友の娘を室とし、名を資房(22代目)とした。資友死去後、家督を継ぐが、続いて死去。そ の間、跡継ぎを資重の嫡男資直にしようとするが、末期養子の禁により、認められず、所領没収され、高根沢は他家の所領、本領(伊王野/両郷)は天領とな り、伊王野家断絶となる(1633年頃)。しかし、本家の嫡流の血は絶えておらず、伊王野家再興を願い出た。
改易については、宇都宮釣天井事件の責任を本多正純と共にとらされたとの説もある。本多氏は宇都宮城主であったが、改易・配流となっている。

※宇都宮釣天井事件とは、宇都宮城主本多上野介正純が元和8年(1622)に、徳川2代将軍徳川秀忠の日光東照宮参拝後の宿泊予定地であった宇都宮城の整 備改築を善意で行ったことが、後々大問題になり、本多氏は改易、配流になったという事件である。たまたま、この工事に参加したのが千本・伊王野の大工で あった。千本・伊王野の大工は、技術が優秀であったので選ばれたようである。<那須町誌より>
悪く言えば、将軍暗殺計画に荷担したということである。しかしながら、実際は、幕府内部の権力抗争があり、本多正純はハメられただけであり、伊王野家も巻 添えをくったのである。
但し、この時期に千本氏は改易にはなっていないので、伊王野家も、この事件で改易にはなっていないことが推測される。
では、やはり、末期養子の禁に触れての改易であろう。
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