彼のデビューが決まった。その時には必ず競馬場へ見に行こうと決めていた。 それなのに私は行かなかった。その日は以前から予定していた京都旅行だったのだ。 彼のデビューは東京だった。淀の競馬場にいた私に友人から電話が入る。
「勝ったよ。強かったよ。」
次走は必ず見に行こうと決めていた。 が、私は行かなかった。土曜日の朝。ただ眠り続けていた。 ぱっと目が覚めてスポーツ新聞を買いにコンビニエンスストアへ走りながらも 嫌な予感はしていた。4R、しかもダートの500万下の欄に彼の名前があった。 発走まであと30分。ウインズ横浜にも間に合わない。 ダートのレースに出てくることも予想外だったし、午前中のレースとも思わなかった。 私の家のPCではまだインターネットもできず、平日にスポーツ新聞を買う勇気も なかった。情報不足だった。仕方なしに家でラジオに耳を傾ける。快勝。嬉しくて少し淋しい。
私は、自らの目で一日も早く彼を見たいと願った。なんだかんだと見逃してきた。 私の知らないところでどんどん有名になっていくのは、やはり淋しかった。 写真でしか見たことはないが、確かにその輝きの見てとれるその美しい馬に もっと近づきたかった。 次こそは・・・。
出走に関する情報を早く手に入れるための準備も整った。 電子メールの使用ができるようになったのだ。 そして週刊誌に彼の名前を見つけた。 「次走予定ホープフルS」有馬記念の日に行われる3歳オープン特別だ。 これほどまでに、レースが待ち遠しいと思ったことはなかった。 負けてしまうのではないかという恐れはなく、ただ希望のみが心にあった。 私が彼に望んでいたのはそのレースを勝つことではなく、今後に期待の持てる走りをすること だけであり、それは叶えられるという予感があった。
当日は、有馬記念特有の異常な混雑ぶりだった。私はパドックでの撮影はあきらめ、ゴール付近で レースを待った。結果は2着であったが、私には十分だった。結果など二の次だ。 レースを終えて帰ってくる彼の姿を人々の隙間から少しだけ見ることができた。 初めて見た彼は、気品が溢れ、その名に恥じぬ美しい馬だった。次こそは・・・。
年明けの京成杯に出走する予定だった。 私は誕生日を祝ってくれるという友人の誘いも断って見に行くつもりだった。 が、彼は出走しないことになった。脚元に異常があったらしい。 それほど重症ではないが、大事をとるという。 よかった。ほっとする。彼の目標はここではない。まだまだ時間はある。 「数日後には馬場入りを再開」との記事を目にした。
そして1月10日の夜、1通のメールが流れてきた。 そしてまもなく友人からの電話。 「大丈夫?」と訊かれてやっぱり本当だったのだと打ちのめされた。
彼に「次」はなかった。彼は私達の前から姿を消した。 馬場入りを再開しようとしたその日の朝、彼の1本の脚はもうとりかえしの つかないことになっていたのだ。
競馬だから、こんなこともある。頭ではわかっていたのに、感情が言うことを聞かなくなっていた。 幸せな余生を過ごすことのできる競走馬などほとんどいないのだ。 それはわかっている。でもね・・・。 「でも」の後に浮かぶ言葉はどれも私の嫌いな「ずるい言葉」だった。 「もう競馬なんて・・・」という気持ちがなかったといえば嘘になる。 それでも、楽しむだけ楽しんでおいて、こういう現実から目を背けることだけは したくなかった。1秒でも速く走ることのできる「完璧な血」を追求してきた のは私達人間ではないか。生物としての不自然さと引換えに スピードを求めてきたではないか、と。 競馬を見つめ続けることの原罪というものを潔く背負いたいという理性と 相反する感情が自分の中でごちゃまぜになっていた。
たくさんの言葉を飲み込んだせいか、おなかいっぱいになって食欲が 失くなった。「次がある」ことを当たり前に思いすぎて、 「今」を大切にしなかった私が悪いのだ。眠れなくなった。 メーリングリストに混乱したままの気持ちを綴って垂れ流してみたりした。
この感情をどうにかしてくれるのは「時間」だけだ。最終的には自分の意志で 前を向くことが必要になる。それでも、ある時間が過ぎるまでの間、周囲の人に 助けられた。やさしい人達に励まされた。見ず知らずの私に温かいメールをくれた人もいた。 どんなに感謝してもし尽くせない。その時のことを思い出しては、時々自分が恥ずかしくなり 時々心が温かくなる。
彼は多くのことを教えてくれた。私に考える機会を与えてくれた。 競走馬は毎日を命懸けで走っている。あの時以来、私は常にある種の覚悟を持って競馬を 見られるようになった。
ありがとう。忘れないよ、パルシファル。 あなたに逢えてよかった。
*この写真はじゅんこさんにお借りしました。ありがとうございました。
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