100年カレンダー

 

1998年12月9日

「あと1枚か……」

11月が終わり、壁に掛かっている月別のカレンダーをめくるとき毎年思うこと。

10年ほど前のことだろうか、「100年カレンダー」が売り出されたことがあった。少し大きいポスター程度の紙に、この先100年分の日付が一覧できるように印刷してある。一枚の紙に100年間分というと、虫眼鏡でも使わないと見えないと思うかもしれないが、それほど小さな字でもなかった。壁に貼ってあっても、少し離れたところからでも十分見えた。

私は買わなかったけれど、おもしろい企画だと思っていた。ところがこのカレンダーを売り出した会社は1年で発売をやめてしまった。これを一度買った人は、100年間、新しいカレンダーを買わなくてもすむからメーカーが儲からないからやめたのかと思ったが、実際はそうではなかった。

このカレンダーを買った人のなかから次々と自殺者が出たことが原因だったのだ。わかっているだけでも4,5名はいたようだ。

自殺者が出るのは、これに何かの呪いがこめられているから……ではない。もっと恐ろしいものが生じるようになっている。それは「現実」と「妄想」。

私たちは毎年暮れになると新しいカレンダーを用意する。幸か不幸か、これは1年先の日付しかわからない。もっと先のことには目をつぶれる。

しかし、100年分を一覧させられると、いやでも「今と先」が見えてくる。自分の残っている人生は、紙切れ一枚に印刷されている日付の半分程度、人によっては三分の一程度で終わりかと思うと、愕然とするらしい。どんなにあくせく働いたところで、これだけの日数を塗りつぶせばおしまいと思ったら、生きることの意味が薄っぺらいものに思えてくるのだろう。あるいは死刑執行を待っている囚人が、一日ずつカレンダーにX印を付けて消して行くような気分になるのだろうか。

「100年カレンダー」で、自分に残されている日数を眺めてみると、この先、40年後に自分の一生が終わることと、4日後に自分の一生が終わることにたいした違いなどないと思えてくる。「100年カレンダー」の上では、4日後も、40年後も、段落が少しずれているだけにすぎない。

このカレンダーを買い、自殺した人の大半は20代であった。高齢者に自殺者が少ないのは、中高年の人で、このような半分遊びで作ったようなカレンダーを買う人がいなかったからかもしれない。もしくは、見本として壁に貼ってあるカレンダーを眺めただけでも、何か見てはいけないものを見てしまったような気分になり、あわててその場を離れたからかもしれない。壁に貼って毎日眺めていると、確かに妖しい気分になってくるだろう。いやでもデジタル化された時間の流れ意識してしまう。普段は目をつぶり、気づかない振りをしていた現実を直視しさせられ、怖くなる。

しかし、人が本当に怖いのは「現実」ではない。現実は何も怖くない。人が何かに対して不安になるのは、何が起きるのかわからないときである。妄想が不安を呼び起こす。

人間は、何か悲惨なできごとがあっても、それに直面してしまえば意外なくらい冷静に対処できる。わからないことが一番不安なのだが、わからないことで悩んだところでしかたがない。自分の心が作り出したイメージに勝手におびえている。

中途半端な「100年カレンダー」で不安になるのなら、いっそのこと、「100万年カレンダー」でも作れば開き直れるかもしれない。 もしくは日付のないカレンダー。白い枠だけがずっと続いているようなもの。

何にせよ、聖書も言っているように、明日のことを思いわずらってもしかたがない。10年後、40年後にどうなっているのか、そんなことだれもわからない。明日のことさえ何もわからない。「連続」はいつとぎれてもおかしくない。

マイスター・エックハルトも言っている。 「時の外にある人が常に喜ぶのである」と。

人は過ぎてしまった過去の中にも、まだ来ていない未来の中にも生きることはできない。「今に生きる」ことだけに集中すればよいのだろう。


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