クリスマスの朝に

(1998年)

1998年12月25日

昨晩は数名で、夜遅くから開かれたクリスマスのミサに参加した。私は特定の教会に所属するクリスチャンではないが、クリスマスだけはミサに参加させていただくことにしている。

えらいもので、私のようなものでも、ミサに参列させてもらうと数日は清浄な気分になる。どうせまたすぐ、煩悩にまみれた生活に戻るが、まだ清浄な気分が残っているので、この間に、アッシジに行ったときの体験でも紹介したい。

イタリアのアッシジは、今ではイタリア旅行のパックに組み込まれていることも多く、実際に行ったことのある人も珍しくないだろう。山の中腹にある古い町で、ここには聖フランチェスコが祭ってある。なぜ日本人観光客にこれほど好評なのかわからないが、フランチェスコという人物の生き方に何か共感するところがあるのだろうか。

フランチェスコは1181年に、アッシジの裕福な家に生まれた。若い頃は好き勝手に暮らしていたが、20歳頃、すべてを投げ出し、キリスト教の布教活動をしながら清貧として一生をおくった人物である。

私がここを訪れたのは、フランチェスコに対して格別な思い入れがあったからではない。日本で申し込んだイタリア旅行のパックの中に、偶然入っていたにすぎない。

アッシジに初めて行ったときは、アッシジについても、フランチェスコについても、何の知識もなかった。ただひとつ、大変引きつけられた壁画があった。それはフランチェスコが小鳥に説教をしている場面を描いたものである。無名の画家による壁画であるが、「小鳥に説教するフランチェスコ」として、今ではこの教会の中でも、最も有名なものになっている。フランチェスコの前に小鳥が集まり、フランチェスコの説教を聞いている。

私たちは、動物や鳥、花、木などとは対話などできないと思っている。しかし、実際に動物と生活してみるとわかるが、彼らは人の心を敏感に感じ取り、こちらの気持ちを言葉を介さなくても理解している。犬でも猫でも、ライオンでも、どんなもので同じである。鳥や花や木が、人間の気持ちを理解できないはずがない。

犬の好きな人の周りには、よその家の犬でも平気で寄ってくる。動物は、この人間は自分にとって味方か敵かを敏感に感じ取る。このような交感が起きることは、日常的にいくらでも経験している。先の壁画に描かれている場面は、必ずしも象徴としてだけでなく、実際にこのようなことがあっても不思議ではないと私は思っている。

とにかく、私はこの絵が気に入り、しばらく眺めていた。その後、30分程度しかなかったが、少し落ち着ける場所で瞑想状態に入った。瞑想には色々な方法があり、一番よくやっているのは自分の呼吸を見つめる「ヴィパッサナ」である。また、歩きながら行う方法もある。これはウォーキングの途中で時々やる。実際にやってみるとわかるが、瞑想状態が深くなると、体全体の代謝が落ちてきて、体の反応は鈍くなる。反射神経も鈍感になり、、歩くのがつらくなる。ひどいときは本当に歩けないほど体全体がだるくなる。しかし、それに反して意識だけは研ぎ澄まされて、自分の周りで起きていることに対しては大変敏感になる。瞑想状態というのは別段神秘的なものでも何でもないのだが、敏感になっている分、普段は感じない何かを感じることはある。

アッシジでは、瞑想状態が深くなってきたとき、頭上で突然鳥がさえずりだした。入り口は閉まっていたはずだから建物の中に鳥が入ってくることはできないのに、数十羽の鳥が一斉にさえずっている声がした。時間にして10分程度である。30分ほどして瞑想状態から抜けると、鳥はどこにもいなかった。そばにいた人に鳥の話をしても、誰も鳥の声なんか聞いていないという。私の空耳なのか、彼らが気が付かなかったのか、実際のところはわからないが、後で、仏教でも同じような話があることを知った。「迦陵頻伽」(がりょうびんが)といい、ある種の瞑想状態にあるとき、聞こえてくる鳥の声があるらしい。

フランチェスコが亡くなり昇天するとき、彼といつも遊んでいたヒバリたちがひときわ大きく鳴いたそうだ。あのとき私の耳に聞こえた鳴き声はビパリの声だったのだろうか。


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