ありがとう

1999年8月15日


大阪梅田の阪急百貨店6階隅に、「美術サロン」がある。このさらに奥まったところには、茶器や骨董の店も十数店入っている。目立たないところにあるので、阪急をよく利用している人でも、知らない人のほうが多いかも知れない。

この「美術サロン」では、いつも2,3名の個展が週単位で開催されている。絵画、陶芸、ガラス工芸、木工等、様々なものがあるので、毎週でも行きたくなる。以前、ここで展示品を購入したら、それからは毎月、『小さな美術館』という小冊子が自宅に送られてくるようになった。ここで開かれる個展の案内なのだが、これが保存しておきたくなるほど、きれいな冊子になっている。

展示品は、値段も手頃なものが多いので、鑑賞のつもりで行っただけなのに、気に入ったものがあるとつい購入してしまう。先日開かれていた高垣康平氏の仏画展でも、一点買ってきた。「仏画」というのは、仏教関係の絵であって、フランスの絵ではないので勘違いしないように。(そんな人はいないか?)

私が高垣氏の仏画を見るのは今回はじめてであった。「無量童子(むりょうどうじ)」という、高垣氏自作の、子供のような仏様に、お釈迦様や親鸞聖人の言葉などを語らせたものが多い。私の好きな言葉もいくつかあったが、今回購入したのは、「ありがとう」と言いながら、無量童子が合掌している絵である。

童子の絵と、好きな言葉のひとつを壁に掛けて、いつも眺められるようにしておけば、意識の奥深くまで染み込んで行くだろう。また私も含めて、人はすぐ忘れるので、いつも目に付くところに掛けておけば、毎日、確認できると思い、これに決めた。

仏画としては大変シンプルなものである。壁に掛けてみると、すっきりしており、会場で見たときよりも一層気に入っている。

摂取不捨(せっしゅふしゃ)」や、親鸞聖人の『正信偈(しょうしんげ)』の中にある言葉を書いたものもあり、それもよかったのだが、私は会場で、「ありがとう」とだけ書いてあるこの絵を見たとき、即座にこれにしようと決めた。

話が広がりすぎるかも知れないが、意識には、「無意識」とでも呼ぶしかないようなものがあることを発見したのは精神分析の創始者、フロイトである。しかし、仏教の世界では、はるか昔から、「アラヤシキ(阿頼耶識)」と呼ばれるものの存在が知られていた。そっくりそのまま無意識と同じではないが、重なっている部分も多い。アラヤシキには、本人が意識している、していないに関わらず、生まれてから今までのすべての記憶や体験がストックされている。普段は決して表に出てこないようなことも、何かの拍子に現れてくることもある。とにかく、本人がすっかり忘れてしまっていること、本人でさえ意識していなかったようなことでも、体が記憶している情報もある。体の一部の神経が記憶していることもある。それらも含めて、すべてが確実に残っている。

今回、高垣氏の「ありがとう」という絵に出合ったのは、決して偶然ではない。少し前から、「ありがとう」という言葉の力に、私自身が気づき始めて、気になっていたからだと思う。今回、高垣氏の作品を見に行きたいと思ったのも、案内にはこの絵はなかったのだが、何か引き寄せられるものを感じたからである。この言葉が、どれほど好循環のきっかけになり、悪循環の無限ループから抜け出す強力な力をもっているかということに、私が気がついたからである。

話は前回の「善因善果 悪因悪果 自因自果」に戻るが、ある人に起きたすべてのことは、善いことであれ、悪いことであれ、それはその人自身の行為の結果である。原因があるから結果がある。善いことをすれば、それが善因となり、善い結果となって返ってくる。悪いことをすれば、それが悪因となり、悪い結果が出てくる。自分の蒔いた種は、必ず自分に返ってくる。

ただ、まいた種はすぐには実にならない。そこにはたいていの場合、時間のずれがある。種を蒔いても、いくつかの条件がそろったとき、はじめて実となる。

世の中には、人から何かをされて、恨んでいる人がいる。あいつのせいで自分は不幸になったと恨み続けている人がいる。インターネットの中だけでも、彼氏や旦那に対して不満を言い続けている人がごまんといる。自分の不幸はすべてあいつのせいであると「本気で」思っている。しかし、自分の身に起きた不幸を、人のせいだと思っている限り、人は永遠に浮かばれない。特に、「恨み」や「ねたみ」「そねみ」と言った意識は、人を不幸にすることはあっても、それで幸福になることは絶対にない。

人がおこなったこと、口にしたこと、考えたことは、すべて、無意識の中に刻み込まれていく。「恨み」などに代表されるマイナスの感情は、悪因となるに十分な資格がある。悪因そのものと言ってよい。誰かを恨むのはその人の勝手なのだが、それはすべて、将来、自分自身に「悪果」となって現れてくる。

新たな「悪果」が出たとき、この人はまた、誰かを恨むのだろう。「悪因悪果」の無限ループに落ち込んで行く。

自分の身に、誰かのせいで、ある不幸なことが起きたと感じたのなら、その人には「感謝」こそすべきである。自分がすでに作ってしまった悪因、本人は悪因の元になるようなことなど何もやっていないと思っているのだろうが、実際は、自分が意識していないだけで、誰かを傷つけたり、苦しめたりしてきている。とにかく山ほどの悪因を作り出していながら、今までそれに気がつかなったのだから、二重、三重に愚かであったのだ。それを、今、この人のお陰で、自分は気がつく機会が与えられているのだと思えば、感謝できるはずである。自分は100%正しく、悪いのはすべて相手であると思っているのなら、自分がその人にした「親切」、「善行」と自分が思っていることを、もう一度考えてみることである。本当にそうなのか考えてみることだ。たいていの場合、「親切」「善行」の振りをして、相手を自分の都合の良いようにコントロールしようとしていただけに過ぎなかったことに気がつくだろう。

昔蒔いた種、この場合、「悪因」となる種なのだが、それが今、その人を縁として、発芽してきただけである。蒔いた種は、縁がそろってはじめて、芽を出し、実をつける。最近、あまり悪いこともしていなかったはずなのに、「何で?」と思うのなら、10年前の種が、今頃芽を出してきたのかも知れない。

繰り返すが、今、自分の身に何かの不幸が起き、それで誰かを恨んでいるのなら、そのようなことはやめたほうがよい。恨めば恨むほど、それはまた新たな悪因となり、どこまで行っても、悪因悪果の悪循環から抜け出せない。誰かを恨みたいと思っているのなら、そのときこそ、その人に向かって「ありがとう」と、本心から感謝することだ。そうすることで、このループから抜けることができる。「あなた様は、ほうっておいたらいつまでも気づかずにいた愚かな私に気づかせてくださった仏様のような人です」と心底から感謝できれば、救われる。あんな男(女)に、感謝なんて飛んでもないと思っていても、自分がその人を恨んでいる限り、その恨みが、また次回の自分自身の不幸の種になることに気がつけば、少々鈍い人でも、自分の愚かさに気がつくはずである。

相手のことはどうでもよい。「復讐」したいと思っても、相手があなたにやった行為が、もし本当に良くないことであるのなら、それはその人当人の悪因となり、あなたが手を下すまでもなく、悪果となって出てくるだろう。それはその人にまかせておけばよい。警察や裁判所はごまかせても、その人の中のアラヤシキ、あるいは無意識に刻まれたことは、いずれ、縁が来たら現れてくる。もし、現れてこなかったら、それは、あなたが勝手に、「良くないこと」と思っていただけかもしれない。とにかく、相手のことをあなたが恨む必要はない。

先日、阪急へ高垣氏の絵を見せてもらいに行ったとき、会場に高垣氏がおられた。そのとき、興味深い話をしてくださった。富山のおばあさんの言葉だそうだ。

「他力、他力と思うていたが、思う心がまだ自力」

これをうかがったとき、しばらく考えてみた。「他力」というのは「他力本願」のことであり、手短に言うと、自分のすべては阿弥陀様のお計らいにお委せしているということである。「南無阿弥陀仏」の「南無」は「帰命」と同義語で、「阿弥陀仏」に自分の命も何もかも、すべてお委せするという、感謝の気持ちを表現したものである。「自力」というのは、端的に言えば、自分の力、自分が修行することで悟りの境地まで行こうとすることである。別に阿弥陀様でなくてもよいのだが、この宇宙を取りまいているエネルギーそのものと思っても、<存在>でもよい。自分の存在を、人智を越えた存在に委ねようとすることが、他力である。

先の、「他力、他力と思うていたが、思う心がまだ自力」というのは、完全に無私の状態で、あるものに委ねようと思い、そうしているつもりでも、気がついたら、そこには打算がはたらいていたことに対する驚きなのだろう。感謝しているつもりでも、どこかに私利私欲がはたらいている。

会場でこの話を伺ったとき、今から20数年前、今東光という坊さんが言っていた話を思い出した。話の大筋は、次のようなものである。


ある信心深い婆さんが亡くなり、あの世で、閻魔(えんま)の前に連れて行かれた。地獄に行くか、極楽へ行くかの最終決定を待っていたのだが、この婆さんは、自分は間違いなく極楽往生だと信じていた。なんせ、朝から晩まで、暇さえあれば「なまんだー、なまんだー」と仏壇の前で念仏を唱えていたのだから、自分をおいて、極楽へ行ける者など誰もいないと確信していた。

しかし、閻魔の決定は、「地獄行き」であった。で、この婆さんは怒って、閻魔にくってかかった。「おい、クソ閻魔。あれほど毎日、毎日、朝から晩まで南無阿弥陀仏と念仏を唱えていたのに、何で私が地獄へ行かなあかんねん」

閻魔は、この婆さんが一生の間にやったことを全部記録してある「閻魔帳」をパラパラとめくりながら言った。

「ババア、おまえは確かに朝から晩まで、なまんだーと念仏を唱えていたが、あんなものは、全部、うそっぱちじゃねえか。本当は信じても感謝もしてないくせに、口先だけで、なまんだーを百万遍唱えたってだめじゃわい。わしを誤魔化そうと思ってむりじゃ。とっとと地獄に行って来い」

こう言って、鬼に連れて行かせようとした。そのとき、「あっ、ちょっと待て。気が変わった。おまえの念仏は全部うそっぱちだと思っていたが、ひとつだけあった。これに免じて、極楽へ行かせてやる」

婆さんは喜んだ。

「それにしても、あれだけ朝から晩まで念仏を唱えていて、ひとつだけというのは、いったい、どの念仏のことでんねん」

「だいぶ前のことだが、家の庭先に雷が落ちたことがあるやろ。あのとき、おまえは、飛び上がって、無心に「なまんだー」と叫んでおった。これ一つだけは、心底、無心で唱えた念仏じゃから、これに免じて極楽に送ってやる」


感謝をしている振りをしている人はいくらでもいる。しかし、本当に心から、何かに対して感謝できる人は滅多にいない。「ありがとう」という言葉も、このばあさんの「なまんだー」と同じでは意味がないのだが、それでも、「恨む」よりかはだいぶマシであることは間違いない。実際、何かに腹が立つとき、その対象に向かって、無理矢理でもしばらく「ありがとう」と言っていると、言霊のせいもあるのか、怒りがおさまってくる。そして、もう一度、「自因自果」を自覚してみて、自分が怒りを感じた理由を思い起こしてみると、たいていの場合、自分自身のエゴがその元凶であることがわかるはずである。


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