バーナデット・ロバーツ

 

1999年6月14日

この世をどのように解釈するか、自分が今いることの不思議をどのように納得するのか、私はどこから来て、どこへ行くのか、このようなことに関して、世界中の多くの人が様々なことを言っている。

中には相当胡散臭いものも山ほどあるが、世の中に数多くある世界観、宇宙観の中で、これまでのところ、私にとって一番すっきりしているのは、お釈迦様の「諸行無常」「縁起」である。この世のすべては変化する。変化しないものはなにもない。(諸行無常)そして物事はそれだけで存在できるものは何もなく、すべて他のものとの関係性(縁起)の中で生まれ、消えて行く。

たったこれだけである。この二つから派生して、「空(くう)」が定義されている。実にシンプルで、無理矢理何かを信じる必要もない。修行を積んで悟りを開く必要もない。あとは自分の頭で考えて行けば、このことのすごさがはっきりしてくる。まずこれがひとつ。

もうひとつは、お釈迦様に限らず、キリスト教でも、その他の宗教でも、詩人、画家、多くの芸術家といわれる人が言ったり、作品で表現していることであるが、「一(いつ)」というのがある。

この世のすべてのもの、私もあなたも、草も虫も、水も星も何もかもが同じものでつながっているという認識。これは宗教に関係なく、実に多くの人が言っている。何か大きな存在から作り出されたものという意味においてひとつ、という認識が一般的なものである。

バーナデット・ロバーツ(Bernadette Roberts)という女性がいる。正確な生まれ年は知らないが、1984年に、アメリカで"The Experience of No-Self, A Contemplative Journey"(邦訳『自己喪失の体験』(雨宮一郎訳、紀伊國屋書店、1989年)が出ているからそれほど古い話ではない。彼女はカリフォルニア在住で、幼いころからカトリックの家庭に育ち、近所の教会で瞑想をしながら敬虔なクリスチャンとして4人の子供を育てた、ごく普通の主婦である。

彼女自身、永く瞑想を経験を積んでいる人だが、あるとき、「自己を喪失する」という奇妙な体験をした。自分の体がただの抜け殻、抜け殻というと世間でよく言われている「幽体離脱」と呼ばれるようなものや記憶喪失のようなものを想像するかもしれないがそうではない。そうではなく、究極の自分、自分の体を切り刻んでいっても、最後の最後まで残る「それ」のことであるが、その「それ」まで消えるという体験をした。

人は何かの拍子に、「私は誰?」という問いにとりつかれることがある。私はどこから来て、どこへ行くのか。このようなことを考え出すと、最後には「究極の私」と思えるもの、「それ」と呼ぶしかないものにたどり着く。それは「意識」、「魂」、「エネルギー」と表現されているものである。「それ」、すなわち「自己」が消えた。

彼女は幼い頃から瞑想を行っており、過去20年くらいにわたって、先の意味での「一(いつ)」ということも実感としてよく理解していた。ところがあるとき、もっと直接的な意味でこの世は「一」であることに気がついた。自分の中の「それ」が消えたとき、つまり「自己が消えた」ときさらなる「一」を見てしまった。「神との合一」の向こうにあるものを見てしまった。

彼女がそこへたどり着くまでの、瞑想中や日常の生活における詳細な記録が先の本である。

彼女の見たものを手短に結論だけ言ってしまうと、この世のありとあらゆるもの、それは人も虫も花も、すべての生き物がただの「器」に過ぎないということであった。すべての生き物が石ころのようなもので、そこには何の神秘もなく、ただ「もの」としての器だけが転がっている……。ここで言う生き物とは、人ならその肉体であり、鳥なら鳥の肉体のことである。それらがすべてただの器であるということだ。

そしてその器をすっぽり覆っているものがある。イメージとしては地球全体、ひいては宇宙全体が一つの大きなエネルギーで満たされているといったようなものだろう。

水中の魚は水の存在に気がついていないだろうが、周りは水ばかりである。おそらく魚は水を意識していない。人にしても、私たちの周りには空気が取り巻いていることを知ったのは最近のことだろう。今では小学生でも知識としては知っているが、昔の人は空気があることも知らなかったはずである。今でも、犬や猫は空気のことなどまったく知らないだろう。生まれたときからそれに包まれていると気がつかない。

この空気と同じようなイメージで、大きな「存在」が私たちの周りにあることを彼女は観た。これがまさに「エネルギー」、「愛」「存在」と呼んでもよいものである。「神」と呼んでもよい。

今、私の体にある「それ」は、全体から何かの拍子に私の中に入ってきたものだろう。器としての私ができたときから、私の体が消えるときまで私の中に留まっているのだろう。はたして「それ」がずっと私の中に留まっているものか、普段でも外部との交換が起こっているのかはよくわからないが、何かがあるたびに、少しは交換も起こっていると考えた方が私自身は理解しやすい。

私たちの周りを取り巻いているすべては同じものである。ひとつと言えば、何もかもがひとつである。

生き物が動くためには、身体は独立して機能する必要があるが、本質的にはただの入れ物である。器はいつかは壊れる。壊れるとそこにはエネルギーは留まれなくなる。電球のフィラメントが切れると、電球の差し込み口まで電気が来ていても灯らないのと同じことだろう。フィラメントが切れたとき、電球の寿命は終わる。人も、体が機能しなくなったとき、世間で言う「死」が来るが、それは器だけのことにすぎない。この世に充満している「それ」は、元来生まれることもなく、死ぬこともない。ただいっとき、この瞬間、私の中に留まっているだけである。

つまり、多くの宗教で言っているような意味で、自己と神とが完全に合一した後、バーナデット・ロバーツが体験したような「一なるもの」に気づくと、神も自己も消えて、まさに全体としての「それ」だけが残る。私の中の「それ」も、あなたの中の「それ」も、鳥、犬、花、木、石の「それ」も、全部同じものであることがわかる。

器としての人や鳥、花、すべてのものの内部にあり、さらに取り巻いているもの、それこそが「神」であり「愛」であり、「存在」なのだ。

同時に私そのものが「神」であり、それはこの宇宙のあらゆるところに充満している「それ」とつながっている。つながるも何も、実際はそれしかない。そのエネルギーの「ゆらぎ」から生まれたのものが、人であり、草であり、星なのだろう。

バーナデット・ロバーツがこの奇妙な体験をしたとき、過去に誰か書き残しているのでないかと思い、多くの文献を調べたそうだ。しかしそれらしいことに関する記述を見つけることはできなかったのだが、マイスター・エックハルトだけがそれについて触れていた。

この部分に関して、先の彼女の本から引用させてもらう。



エックハルトはこれを神の主体への「突入」と呼び、「神や真理の観念を越えたところに突入し、真と善との根拠、すべてのものの原初の原初に達する」と言っているのです。

<中略>

私はエックハルトもこの旅をして、その結果わかったことをあからさまに述べすぎたので、教会の譴責(けんせき)を招いたのだと思います。これは、一般の人々がエックハルトの説教を聞いて、神と人間との本質的な一致をそのまま信ずるのを恐れる神学者がいたためでしょう。それはとにかく神学的な禁忌だったからです。しかし神学のために言っておきますが、譴責を受けたとはいえ、エックハルト自身神学者で、自分の考えに教会の教義に反するようなものは何もないと思っていたことは確かです。エックハルトは、自分が現実の体験で到達したのは、神学の目指す「真理」にほかならず、トマス・アクィナス(『神学大全』の著者)が沈黙を守って触れなかったことで、自分はそれをはっきり述べただけであると思っていたでしょう。

<中略>

人間と神との合一を言っても、本質的な意味ではないとするのが正統的で、本質的合一を言えば異端になるのです。これは単に表現の違いではなく、体験の違いなのですが、本質的な合一は、創造者と被造物とを本質的に区別する神学とは相容れないのです。たしかに被造物が神と合一するということは、神にとって必然のことではありません。しかし、合一の体験ではそれが本質的なものとなり、神性ばかりでなく神の本体に与(あずか)ることになるのです。


これを読めばわかるように、エックハルトも「神との合一を越えた人」であった。実際は越えるというより、神も自分も何もかもが一つにすぎないのである。

エックハルトも体験したように、人間と神とを隔てるものがなくなれば、神秘家は神を見失なう。エックハルトは当時宗教裁判にかけられ、死刑にこそならなかったものの、彼の死後、すべての書物が焼き払われた。それは、教会がこのような発言を不遜と感じたというより、、神も人も本来まったく同じものであるなどということを言われた日には、神の権威も、その威光で成り立っている教会の権威も失墜してしまうことを恐れたからだろう。そのせいもあり、長い間エックハルトは教会の組織から葬り去られていたが、その後、教会そのものによって、トマス・アクィナス等に並ぶ学聖として祝福され、復活している。

バーナデット・ロバーツは、子供の頃から西洋の哲学やキリスト教の文献に親しんできたため、調べたものが西洋のものに限られていたが、東洋では昔からそれほどめずらしいものでもなかった。一遍上人も「よろず生きとし生けるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし」(『一遍上人語録』)と言っている。一切が阿弥陀仏のはからいであり、生きとし生けるものがすべてそのままの姿で仏である言っている。

古代インドのバラモン教の梵我一如(ぼんがいちにょ)でも、宇宙の最高原理であるブラフマン(梵)が真実の自己であるアートマン(我)と同じものだとわかることが解脱であると考えられていた。

なんにせよ、エックハルトやバーナデット・ロバーツが気づいたことを西洋の人が受け入れることは、当時の教会がそうであったように、ある意味、恐ろしいことであるのかもしれない。しかし、これを事実として受け入れると、今までよくわからなかったものが次々とわかってくる。例えば「祈り」である。

人がイメージしたことや、強く祈ったことは大抵現実になる。遠く離れた誰かに影響を及ぼすこともある。このような現象は、池に石を投げたとき波紋ができるが、そのようなものだと思えば納得できる。石が落ちた水面から波紋は広がって行き、池の端までたどり着く。大きな池なら最後は見えないくらいに小さくなるが、それでも端まで伝わる。私の体にある「エネルギー」または「それ」に、私の思考なり意識が作用し、波のようになり空間を伝わって行くと思えば、納得できる。実際、そうなのだろうと思う。

話が逸れるが、私自身はこのバーナデット・ロバーツの本を読んだのは2ヶ月ほど前のことである。以前から彼女の本のことは知っていたが、数年前より絶版になっており、手に入らなかった。それが、つい最近、2,3ヶ月前のことだが、私のホームページを通じてある方とご縁ができ、その方から先の本をお借りすることができた。

やっと私が読んでよい時期が来たのだと思っている。それまでにも何度となく、古本屋にも行ってみたが、手に入れることはできなかった。もし数年前に読んだとしても、ただの奇妙な体験として、印象に残らなかったかも知れない。それが700年前のエックハルトという人物に引かれてから数年後、やっとこの本と巡り会えた。そして、これを読んで、エックハルトが本当に見たものもわかった。

また話が逸れるが、昨年の暮れ、ある方とエックハルトのことで会った。何時間かエックハルトのことなどを話して、その方と別れ、夜、いつもの通い慣れた道を歩いていると、私の周りが突然、透明な液体で包まれるような感覚を覚えた。実際には液体というより、もっと透明感のあるクリスタルの溶けたものといった感じであった。そのようなもので、すっぽりと包まれてしまった。

辺りを見渡すとそれはそれは美しい光景があった。毎晩通っている道なのに、遠くに見える高層ビルの光までが普段とはまったくちがって、宝石をちりばめたように輝いていた。電柱についている街灯の光までが、呼吸をしているように瞬いていた。私の周りの空気全体が脈打っていた。

これはこの直前まで、エックハルトのことなどを話していたから、少しは魂が清浄になっていたのだろうか。クリスマス直前でもあり、<存在>からの贈り物であったのだろうか。久しぶりに、ちょっとした神秘体験ができた。

このことをt2zoneのともこさん(リンク参照)に話すと、

>ハルさんの心がけが良かったので、神秘体験できたんですね。
>一部始終は、天使さんがチェックしてましたよ〜。
>イエス様は、ニ、三人、我が名の為に集まれば
>吾共にあり、なんて言ってますよ。 エルちゃんも御参加だったかも。

というメールが来た。(笑)

(注:「ハルさん」というのは私、三輪のこと。「エルちゃん」というのは、エックハルト様のこと。(汗))

天使がいたのかどうか知らないが、きっとあのクリスタルのようなものが、「愛」や「それ」の集合体なのかもしれないと思うようになっていた。それからしばらくして、バーナデット・ロバーツの本を読んだので、抵抗なく理解できた。

あなたも私も、体はただの器に過ぎない。これから先、牛や羊だけでなく、様々なクローンが作られるようになるのだろう。嫌でも、牛であれ、人であれ、肉体そのものはただの器にしかすぎないと感じる時代がやってくる。

母親から生まれようが、試験管の中で受精し、人工子宮の中で成長しようが何も変わりはない。どっちにしたところで、器は器である。そして肉体ができたとたん、製造工程に関わりなく、絶対的孤独も肉体への「おまけ」として付け加えられるのだろうか。クローン人間も孤独を感じるのだろう。

しかし、できあがった器には等しく「それ」が注ぎ込まれるのも間違いない。宇宙の果てまで充満している「それ」が注ぎ込まれる。クローンも「本物」もない。器には多少いびつなものも、よく動くものも、そうでないものもあるだろう。今、自分が乗っかっている「器」がどのようなものであっても、「それ」が充満している。それさえ自覚できていれば、全部がひとつである。絶対的孤独は、このつながりに気がついたとき消える。あとは個別の器としての自分をどう生かすかだけである。それは自分でコントロールできる。

決して生まれることもなく、死ぬこともなく、ただ一時、地球というこの星にいるあなたをとおして姿を現した「それ」は、全部とつながっている。


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