捨て去るということ

1997年7月18日

 

何かを成し遂げたいと思っているかぎり、永遠にできないことがある。自分には無理で、あきらめ、絶望した瞬間に向こうからやってくるものがある。

自分の性格を嫌っている女の子がいた。どうにかして、自分の性格を変えたいと思っていた。

あるとき、この女の子を好きだという男の子が現れた。そのままの彼女が好きなのだそうだ。彼女は自分のような人間を好きだと言ってくれる人がこの世に存在することが信じられなかった。世の中にひとりでも自分のことをそのまま受け入れてくれる人がいると知っただけで勇気がわいてきた。みんなに気に入られるような性格に変える必要などないと思ったその瞬間、彼女の性格は変わった。

この世の真理、悟りを求めて、家、家族、友人、田畑、仕事を捨てた人がいた。ひたすら悟りを求めて、座禅し、瞑想を繰り返し、マントラを唱えた。しかし何も起こらなかった。

自分が捨てた家族、家、友人……、あれはいったい何だったのだろう。この男は実際には何も捨ててはいなかった。捨てることで得られると思ったもの、つまり永遠の真理、悟り、そのようなものを望んでいるのは執着以外の何ものでもない。 すべての執着を捨てる。いや、捨てなければならないと思っているのなら、それは「無」への執着にすぎない。「有」への執着が「無」への渇愛に変わったにすぎない。

この男は自分が捨てた家族、家、友人、仕事の見返りとして、新たな執着を作り出し、以前よりいっそう強欲になっていたにすぎない。禅寺に通い、何年も修行をしたが何ひとつ変わらなかった。とうとう自分自身に絶望した。本心から、死ぬしかないと思った。そのとき頭の上でカラスの「カーカー」という鳴き声が聞こえた。この瞬間、この男は悟った。

何の見返りも期待せず、ただひたすら受動的に生きているとき、何かに気づくことがある。 ところがほとんどすべての人の「よい行い」には、何かの見返りを期待する心がついてくる。どこかでかならず自分自身への見返りを期待している。どこまで行っても、結局すべて、自分のためでしかない。

本当に自分自身を捨てて、山間に咲いている一本の花のように、ひたすら受動的に生きることは私たちにも可能なのだろうか。世間に対して、何のカルマもばらまかずに生きることは可能なのだろうか。いや、できないことなのだろう。私たちが生きるということは、常に恐ろしいほどの業欲を発散している。

一度徹底的に自分の欲の深さに気づき、絶望してみるところからしかスタートは切れない。 心底絶望すれば、庭先に飛んできた雀の「チュンチュン」という鳴き声でもわかるときはわかる。

「捨てさるということ」について、エックハルトも言っている。

私にひとりの友があったとする。彼が私に善きことをしてくれるからという理由で、あるいは私の意志を満たしてくれるからという理由で、彼を愛するならば、私が愛するのは友でなく、私自身であることになる。

(中略)

「あるものを私の名のために捨てる者には、私はその百倍を返し与え、さらに永遠の命を付け加える」(マタイ19.29)と語る。しかしあなたがその百倍のものと永遠の命のために、何かを捨て去るならば、あなたは何ひとつ捨て去ったことにはならない。あなたが千倍の見返りを求めて、それを捨てるならば、あなたは何ひとつ捨て去ったことにならない。あなたはそういうあなた自身を捨て去らなければならないのである。しかも完全に。そうしてこそ真に捨て去ったことになるのである。
  『エックハルト説教集』より

池の中に石を投げ入れると波紋ができる。誰かが別の石を投げ入れると別の波紋ができる。ふたつの波紋がぶつかると干渉を示す。私たちが生きていることは波紋を作り出しているようなものだろう。誰かの波紋とぶつかり、干渉を示す。その干渉は良いとか悪いとかいったものではない。良い悪いは誰にもわからない。ただ新たな干渉が生まれることは間違いない。

私の机の前に置いてある鉢植えの植物、これはひたすら生きている。悟りたいとも、誰かの役に立ちたいとも思わず、ただ存在している。ひたすら自分自身をまっとうしている。 私たちも、このように生きることができたら少しは浄福で清浄な生き方ができるのだろう。


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