Enlightenment

光明

「生まれたものがそもそもなく、死ぬ者も全然おらぬ」

(『カヴァフィス全詩集』、「永遠」より) 
中井久夫訳 みずず書房 1991年

 

1998年9月25日

 

今年の8月から9月にかけて、一ヶ月ほどの間に知人が3人亡くなった。年齢は29歳(男性−独身)、31歳(女性−既婚)、39歳(女性−昨年離婚)とバラバラであり、知り合ってからの年数も15年、2年、半年と差がある。

最初の二人は少し前から癌で入院していたので私もそれなりの覚悟ができていたが、3人目のTさんの場合は予想もしていなかった。心不全による突然死であった。

Tさんが亡くなったのは土曜の夜中であった。月曜日の朝方、私は夢を見た。芦屋の浜沿いを電車で走っていると、車内がざわついている。海の方を見ると、夕焼けの時刻でもないのに、空も海も真っ赤に輝き、大きくうねっている。水平線と空の境目がなくなり、全体が真っ赤に輝いていた。海からはもくもくと水蒸気が立ちのぼり、上方で真っ赤な雲を作っている。過剰のエネルギーが身もだえしているような光景であった。

夢から覚めたとき、今見ていた夢の中の場面がどのような意味を持っているのか、しばらく考えてみた。もうろうとしていた頭がだんだんはっきりしてくると、半年ほど前読んだ本、『ボーディダルマ』を思い出した。ボーディダルマ、禅宗の始祖とされるあのダルマ大師であるが、彼の教えを解説している本に、次のような一節があった。

 あらゆる死が新たな生の始まりになる。ごくまれに、誰かが光明を得たとき以外は。そのときは、彼の死は究極の死になる。彼は二度と再び生まれてくることがない。彼は二度と肉体とかかわりを持たない。彼は別の心(マインド)によってもう一度苦悩を味わうことがない。彼の意識は溶け去る。ちょうど氷塊が融けて大海に混じり込み、それとひとつになってしまうように。彼はいたるところに存在するようになり、特定の場所や特定の形のなかには存在しなくなる。彼はあらゆるところに存在するようになり、しかも、”形なきもの”にとどまる。彼はまさに宇宙そのものになってしまう。

 人が光明を得るたびに、この宇宙全体の意識が少しずつ高められる。というのも、彼の意識は、<存在>のすみずみにまで広がるからだ。光明を得るものが増えれば増えるほど、いっそう<存在>は豊かになる。だから、それはただたんにひとりの人間が光明を得るということではない。彼の<光明(エンライトメント)>によって宇宙全体がこのうえもなく満たされる。それはさらに豊かになり、さらに美しくなり、さらに喜びに満ち、さらに祝祭にあふれるようになる。

『ボーディダルマ』(和尚OSHO めるくまーる 1994年)

不思議な夢ではあったが、夢の内容が自分でも納得できたのでそのまま起きた。いつものように朝一番のコーヒーを飲み、2杯目を持って仕事場に入った。コンピューターの電源を入れ、メールの確認をしたとき、Tさんが亡くなったことを知らされた。

私はいわゆる「輪廻転生」を信じているわけではない。誰々の生まれ変わりであるとかいった類の「輪廻転生」はまったく信じていない。そのようなものには何の関心もない。しかし、体を構成している原子レベルの話と、エネルギー保存則としての転生は十分あり得ると思っている。位置エネルギーが運動エネルギーに変わっても、エネルギーの総和そのものは変わらないのと同じように。

無から有が起こり得ないのと同様に、有が無になることもない。この世のものは、いっとき、ある形をとって存在しているにすぎない。また別のものに変わる。すべては諸行無常。

ある人が亡くなったとき、その人のエネルギーは、どこか手近に存在できるところがあるのなら入り込むのかも知れない。近くにある樹木、川の水、雲....。

他人から見れば、彼らはみんな思い半ばで逝ってしまったように見える。生に対して執着も一層強いように思うかも知れない。しかし、私は3人とも、今回の生に執着はないのだと思っている。私の見た夢はただの幻想かも知れないが、彼らの残した意識(エネルギー)が私の意識に何らかの作用を及ぼしたことは十分考えられる。あのうごめく赤い水蒸気と雲は、彼らが宇宙と一体になった証だと信じている。私が彼らと共に過ごした時間、シェアできた喜び、悲しみは消えることはない。彼らは今、私の周りのどこにでもいる。


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