インナー・トリップ事始め

言葉が消えるとき何かが見えてくる....

1998年10月30日

「さて、いましがた、私は公園にいたのである。」

サルトルはアントワーヌ・ロカンタンの日記を借りてこう語り始める。

「マロニエの根は、ちょうど私の腰掛けていたベンチの真下の大地に、深くつき刺さって、それが根であることを、もう思い出せなかった。言葉は消え失せ、言葉とともに事物の意味もその使用法も,また事物の表面に人間が記した弱い符号もみな消え去った。いくらか背を丸め、頭を低く垂れ、たったひとりで私は、その黒い節くれだった、生地そのままの塊とじっと向いあっていた。」

『嘔吐』(J.P.サルトル著、白井浩司訳、人文書院、1994年)

人は、自分が自分であるところの<それ>を知りたくなるときがある。このようなとき、釈迦、キリスト、老子他、数多くの宗教家や哲学者が同じような体験をしている。

「究極の私」、つまり<それ>はいったい何なのかということが理屈ではなく、実感としてわかるとき、サルトルが「吐き気」をもよおしたような体験を経なければならないようだ。必ずしも吐き気は必要でない。必要なのは分節が消えて行く体験である。

私たちの周りにあるすべてのものから、ひとつひとつ名前が消えて行くとき、どのようなことが起きるのだろう。名前が消えるというのは、あるものと他のものが区別できなくなるということである。木、道、家、犬、猫、鳥、草、垣根...、これらがことごとくが名前を失ったとき、私たちはそのものの本質もわからなくなる。他のものと区別するため、そしてそれ固有の何かがわかっていると思うから、分節可能な「もの」として、私たちは「もの」に名前をつけている。

私たちはこの世に生まれてから言葉を覚えた。言葉が一つ二つと増えてゆくことで、あれとこれは別のものであると認識しはじめる。それと同時に、自分の宇宙が広がって行く。逆に、言葉が消えるとき、自分の周りの宇宙そのものが消えてゆく。言葉即宇宙。残るのは漠とした「存在」、つまりは、<それ>だけになる。とにかく、<それ>を知るためには、いったんすべての分節を消してしまうところから始めるのが<それ>に気づいた人達に共通した経験のようなのだ。ある日、突然やってくることもあれば、自分自身の「死のシミュレーション」から気づく場合もある。

何はともあれ、インナー・トリップに出かけてみよう。

古いSF映画で、『ミクロの決死圏』というのがあった。潜水艇ごと小さくして、血液の流れに乗り、人間の体の中の移動しながら、患部を治療するという話である。このようなものが現実になり、小さな機械を体に入れて細胞の中の一つ一つにまで入って行き、細胞の中まで調べられるようになっても、「私」は見つからない。体のどこをほじくり返しても「私」は出てこない。脳も「私」ではない。この身体も思考も私ではない。 あれでもない、これでもないと次々捨て去って行き、最後に残るもの、それが<それ>であり、「私」である。

逆に、義手、義足、義眼、人工心臓、どのような人工臓器が作られ、それと自分の臓器が交換できるようになり、それらと交換したとしても、相変わらず「私は私」である。何かが連続している。パーツを取り替えても私は私である。手に触れることも、見ることもできない何かがある。それを人は昔から知っていた。そのことを「エネルギー」と呼んでも、「魂」と呼んでも、「存在」と呼んでもよい。名前をつければわかったような気になるが、そのものの本性はひとつの単語で、他と区別できるようなものではない。おもてに現れている姿は仮りの象にすぎない。実体などなにもない。本来、分節不可能な存在であるのに、私たちは名前を付けることで、これとあれを分け、そのものの本質までわかったような気になっている。しかし、実際には何もわかってはいない。

「それ」とでも呼ぶしかないもの。人間はそのようなものがあることをはるか昔から知っていた。生命のシステム、宇宙全体に充満している「存在」。そのようなものがあることを直観していた。だれかに作られたものでもなく、永遠に消えることもなく、この宇宙ができる以前からあったもの、そのような「存在」が<それ>であり、<それ>がそのまま「私」でもあり、「あなた」でもある。「私」も「あなた」も「犬」も「草」も「風」も全部同じもの。

今年の夏、机の上でできる園芸、デスクトップ用の超ミニ園芸セットを買ってきた。15センチ角程度の引き出しが4段になっており、そこで4種類の植物を育てることができる。種をまき、水を与えて日の当たる窓際に置いておくと数日で芽を出し、1週間ほどでクレソンやモヤシのようなものができた。2,3回、食卓で食べられる程度にまで育った。最初、ゴマ粒より小さかった種が水と光を得るとたちまち活動し始める。DNAのなかにある、増殖するためのメカニズムと共に生命の大もとになるエネルギーも一緒にとじ込められていたのだろう。

動物も、精子と卵子が結びつき、半減していた遺伝子の情報が一つにまとまり、活用できる形になったとき、自己増殖を始める。分裂を起こし、形ができあがってくる。これは情報のパックとしてのDNAだけでは受精しない。<それ>が必要なのだ。

先のモヤシやパセリは私が食べたことで死んだのだろうか。

話があちこち飛ぶが、つい先日、NHKの深夜放送で「星の誕生」をやっていた。この宇宙には、今でも無数の星が産まれている。地球から何百光年という場所で起きている星の誕生を見ていると、塵と塵がぶつかり、周囲から様々なエネルギーをもらい、大きな塊りになって行く様は、受精の瞬間を連想させる。同時に、宇宙には<それ>が満ちている様子がよくわかる。

余談ながら、ナレーターの人がこのような星を説明しているとき、何度か言っていた言葉がおかしかった。「これはまだ産まれたばかりの赤ちゃん星です。産まれてまだ5,000万年しか経っていません」 星の世界では、5,000万歳も赤ちゃんなのだ。(笑) 人間にあてはめれば、産まれて5日目くらいのものなのだろうか。ここまで話が大きいと、意表をつかれて笑ってしまう。

ミクロの世界からインナー・トリップをやっているうちに、気がついたら星の誕生の場面にまで立ち会っていた。えらく遠くまで来たように思うかも知れないが、実際は同じことなのだ。小さな卵子と精子の出会いも、空間で塵と塵が出会って星が産まれるのも、実際には何の違もない。やっていることは<存在>のミックス・ジュースを作っているだけにすぎない。

<存在>の味?それはあなた次第なのだ。


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