「癒し」としての諸行無常

1998年5月1日

人は何かに悩んでいるとき、様々なものにすがる。お金、宗教、社会的地位、愛情、知識、国家、.....。自分にとって絶対的な価値のある何かを持っていると思っている人は幸せだ。それは一時でも、「自分の神」になる。

しかし、金も社会的地位も誰かの愛も、何もかもすべて手にしているように見える人でも、どうしようもなく落ち込むときがやってくる。それまで自分を支えていたすべてのものが色を失い、自分の周りから、葉が一枚ずつ落ちて行くように、一つ一つ落ちて行くときがくる。この世のすべてに意味を見い出せなくなるときが来る。こうなったとき、人はどうするのだろう。あっさりと自殺する人もいる。自分の知識を越えた不思議な力にすがる人もいる。

これまでにも何度か書いたことだが、釈迦が言っているように、「執着しないこと」が人を自由にする最大のポイントであることは間違いない。そのため、金も社会的地位も何もかも得たような人が落ち込むとき、真の自由を求めて、それらを捨てることがある。しかし、たいていの場合、捨てたところで何も起こらない。ただ別の執着、「自由になりたい」という新しい執着が生まれたにすぎない。捨てた後で、何も起こらないことに気がつき、もう一度、心底絶望したとき、何かが起きる。捨てる捨てないは関係ない。つまり、「物」ではなく意識なのだ。言い換えれば、この宇宙をどう認識するかにかかっている。話が大きくなると思うかも知れないが、一度はそこまで行ってしまわないとどうにもならない。

「諸行無常」という真理に気づいた釈迦はやはりえらい。同じ状態のまま存在するものなど何もないという、言われてみればあたりまえのことに誰も気づかなかった。このことの前には、「神」も「仏」もない。世間一般で言われているような全知全能の「神」など、存在できるはずがない。

もし、人間よりはるかに高い能力を持ったものがおり、この宇宙を作った別の生命体がいるとしてもどうってこともない。私たちが子供の頃、理科の観察でやったようなこと、つまり、ガラスのケースで蟻を飼い、その行動様式や生活パターンを観察するというようなつもりでこの宇宙を作った別の生命体がいるという話もある。しかし、そうであったとしても、それもどうってことはない。

どうせその生命体にしても、どこかから生まれて来たのだろう。生まれて来たということはいずれ消えることになっているはず。生まれては来るけれど、消えることがない生き物がいたとしたら、それ以上ひどい状況ってあるだろうか。一体、それで何が楽しい?

つまり、この宇宙を作った「神」のようなものがいて、それがどれほど人間より高次元の生命体であろうと、所詮、「諸行無常」を逃れられないのなら、結局、我々人間と同じことではないか。もし、「諸行無常」から抜けて、「永遠」に同じ状態を保っている生命体がいても、そんなものになりたいと思うだろうか?どんなに強欲な人間でも、200年か300年も生きたら、もう生きることに反吐が出るだろう。頼むから、もう人間をやめさせてくれと叫ぶはずだ。

ガラスケースの中の蟻を観察している人間が蟻より優れた生き物であるとは思わないが、仮にそうであったとしても、その人間だって様々ことで悩み、苦しみながら生きているのなら、人間より高次元の「神」だって、我々と同じように悩み、苦しんでいるはずなのだ。

神も天使も別の世界に住んでいる高次元の生命体も、「諸行無常」の中でしか存在できないのなら、「諸行無常」を認め、この世には永遠不変のものなど何もなく、それ故、実体のあるものなど何もないということを認めることで、つまらないことに執着しなくなる。

何かを捨てるとか捨てないの問題ではない。すべては変わるものという認識以上に我々を勇気づけてくるものがあるのだろうか。それがわかった上で、心にまかせて自在にふるまうこと、つまり「遊戯三昧」に徹すればよいのだろう。


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