感動のメカニズム

 

1998年5月20日


 私の趣味であるマジックの話になるが、ゴールデンウイーク(1998年4月28日から5月5日)に、アメリカ人のスーパーマジシャン、デビッド・カッパーフィールドがやってきた。東京で18公演を行い、一度に5000名入る会場が、毎回満席であった。

 海外に比べ、日本での知名度はそれほどでもないと思うので、彼のことをざっと紹介しておくことにする。 彼の年収は数十億円であり、一回のステージのギャラは一千万円と言われている。それも昨日や今日出てきたのではなく、約20年間にわたって、マジックの世界ではトップの座にいる。

 これまでやったもので有名なマジックとしては、ニューヨークの「自由の女神」を消し、「万里の長城」の壁を通り抜け、「オリエント急行」を消し、大勢の目の前で空中を飛んだ。そのようなマジシャンがつい先日まで日本に来ていたのだが、残念ながら、私は仕事の都合で彼のステージを見ることができなかった。この公演は、マジックに興味がある人だけでなく、一般の人も、芸能人も数多く見に来てた。前売りで1万円の席に、3万円とも5万円とも言われるプレミアムが付いていたことからでも、人気のほどが推測できると思う。

 この公演を見に行ったマジシャンは大勢いる。そして、この公演を見たほとんどのマジシャンが、「涙が止まらないほど感動した」「終わった後、しばらく動けないほど感動した」と言っていた。とにかく、今まで体験したことがないほど感動したそうだ。。あまりにも、みんなが感動、感動と言うので、公演を見られなかった腹いせでもないが、一体、「感動」はどうやって起きるのか、そのメカニズムでも考えてみようと思い立った次第である。話をマジックに限定せず、もう少し一般のこととして考えてみたい。まず、「感動」の例をいくつかあげてみよう。

 たとえば、もしここにコンピューターが描いた絵があるとして、人はそれを見て感動するのだろうか。「コンピューターが描いた絵」と言っても、C.G.(コンピューターグラフィックス)のことではない。C.G.の場合、コンピューターはただ道具として使われているにすぎない。実際に命令を下しているのは人間であるから、コンピューターの作品とは言えない。そうではなく、コンピューターが自分の「意志」で描いた絵のことである。同じように、コンピューターが作った音楽や小説などがあるとして、人はそれに感動するのだろうか。

 絵であれ、音楽であれ、以前はある作品に感動するのは、そこに人間が介在しているからであり、その人間の感性を通して表現されたものだけが人に感動を与えるのだと思っていた。魂が作品となって形を変えているから感動が伝わってくるのだと、漠然と考えていた。 しかし1年ほど前のある出来事以来、コンピューターの作品であっても、感動することもあると思うようになった。そのある出来事は後で紹介するとして、まず「感動」という現象が起きるときのようすをもう少し見てみよう。

 私たちはこれまで、様々な場面で「感動」を経験してきた。自然界の壮大な風景を目の当たりにしたとき、大きく心を動かされることがある。パラリンピックで、義足をつけた人が健常者より早く走っているのを見たときも、多くの人は感動するだろう。 絵画、音楽、彫刻、舞踊、映画、小説、その他、様々なものを通しての感動がある。

 一体、人は何に心を動かされているのだろう。大自然の風景を見て感動するのと、義足をつけた人が100メートルを一般の人と同じように走るのを見たとき感動するのは別のように思えなくもないが、実際は何も違いはない。

 「感動」に関しては、世阿弥が看破したように、「感動とは珍しさのこと」という表現が一番わかりやすく、的を射ている。

 そう思って、もう一度自分が感動したものを振り返ってみると、確かに「珍しさ」、つまり「意外性」につきることがわかる。自分にとって、それまでの常識をくつがえされるようなことや、いつも目にしていながら気がつかなかったことを気づかせられるとき、人は感動する。しかも、自分が持っていた常識との距離が離れていればいるほど、感動も大きくなる。

しかし、これは万人に等しく起きるとは限らない。同じ風景、同じ絵画、同じ音楽に接しても、何も感じない人もいる。これは「悟り」の瞬間と似ている。

 一休禅師は、夜、池に船を浮かべて瞑想していたとき、頭の上でカラスの「カー」という鳴き声を聞いた瞬間に悟った。またある人は、庭を掃いていたとき、小石が竹にぶつかり、「コーン」と音がした瞬間に悟ったそうである。しかし大抵の人は、同じ体験をしたところで何も起きない。

 「悟り」というのは認識の一つの形態である。この世に、絶対的、普遍的な「真理」など何もない。しかし、何かを悟ったと思う人は、その人の作っている宇宙の中では確かに「真理」を見つけたのである。ときには、その「真理」は宇宙全体を包括するくらいの「気づき」であるかも知れない。しかし、それはあくまで当人にとっての「真理」にすぎない。 「感動」が起きるときも、「悟り」が起きるときも、心のメカニズムとしては差はない。 何かを体験したとき、新たな気づきを持てるかどうか、それがすべてである。そうであるなら、大自然の風景に感動したのも、パラリンピックで感動したのも、今まで自分の知識、常識以外のことを知らされたので驚いたにすぎないことがわかる。 地球上にはこのような壮大な風景があったのかという驚き、義足でもあのように早く走れるのかといった驚きは、それまでの自分の「常識」になかったからにすぎない。

 同じ場面を見ても、個人差があり、等しく感動が起きないのは、前提となる知識に個人差があることも要因の一つなのだろう。犬に夕焼けを見せても美しいとは感じない。犬だけではなく、人間でもこれは同じである。戦争孤児で、小学校にも行けず、ひらがなも読めなかった人が20歳で夜間中学に通い、文字を覚えた。しばらくして「美しい」という漢字を学んだ。その翌日、夕焼けを見たとき、それまでとはまったく別の夕焼けが見えたそうだ。

 これまでにも、幾度となく夕焼けを見ていたが、一度も「美しい」と感じたことはなく、「ウツクシイ」という音としての言葉は知っていても、文字としての「美しい」を知らなかった間は、何かを見ても「美しい」とは感じなかったそうである。それが、文字を知っただけで、今まで見ていたものがまったく別のものに見えるほど、がらりと変わってしまった。

 この話を私が聞いたのは、確か高校生の頃であったが、私は「感動」した。美しいものなど、誰がどう見ようが美しいと思っていたのに、「美しい」という字を習ってはじめて美しさに感動できるという、その事実に感動した。まさに言葉と宇宙はつながっている。「言葉即宇宙」である。

 今の例は、言葉と宇宙の関係を論じるために出したのではない。自分自身にとっての新たな認識が、感動につながるという、私自身の体験のひとつを紹介したにすぎない。

 コンピューターの描いた絵に感動するはずがないと思っている人も、コンピューターの作品だと知らされずに壁に掛かっていたら、感動する可能性はあるはずなのだ。先入観や偏見なしに絵を見て、そのとき何らかの閃き、または気づきが起きても不思議ではない。石が竹にぶつかった、「コーン」という音で悟ることもあるのだから、コンピューターが描いた一本の線にでも、「感動」する人がいても不思議ではない。

 私がコンピューターの作品で感動したのは、今からちょうど1年前(1997年5月)のことであった。ただし、絵や音楽ではなく、「チェス」の試合である。

 チェスの現世界チャンピオンであるカスパロフと、「ディープ・ブルー」と名付けられたIBMのコンピューターが対戦した。このコンピューターは、1秒間に10億通りの「手」を読むことができる。カスパロフはチェスの歴史、約2000年の中で、史上最強と言われている天才である。10年ほど前にもカスパロフはIBMのコンピューターと対戦している。そのときはカスパロフの圧勝に終わった。しかし、この10年でコンピューターの進歩はすさまじく、処理速度だけをとっても、当時の1000倍になっている。プログラムのアルゴリズムも改良され、実戦のデーターも大量に取り込まれている。カスパロフが勝つにしても、10年前ほど、楽には勝てないのではないかと思われていた。

 6回戦い、結果はコンピューターの2勝1敗3引き分けである。コンピューターが勝った。チェスのような高度な思考力を要するゲームで、コンピューターが勝ったことの意義は、立場により様々な評価ができる。それはさておき、コンピューターが1勝目をあげたゲームで、終盤、コンピューターの指した「次の一手」を知ったとき、私は感動した。

 この試合は世界中で注目されており、アメリカやヨーロッパではインターネットやテレビを通じて実況中継されていたこともあり、数千万人のチェス・プレーヤーがこの一戦を観戦していた。

 1局目、カスパロフの先手番でスタートした。これはカスパロフの勝ち。2局目、ディープ・ブルーの先手で始まり、ディープ・ブルーは有名な古典定跡を採用した。序盤から中盤にかけてディープ・ブルーが優勢に進め、終盤、次の一手を指せば、圧倒的に有利になる局面が現れた。見ていた世界中のチェスプレーヤーも、その手を指せばコンピューターの勝ちという局面になったとき、ディープ・ブルーは全く別の手を指した。ディープ・ブルーが突然、故障したのかと思った人もいた。

 それでもディープ・ブルーが勝ったのだが、なぜあそこで、誰が見ても当然の一手を指さなかったのかわからなかった。しかし、一人、カスパロフだけはその手を見て、首を振り、青ざめていた。実は、これは序盤から中盤にかけて、ディープ・ブルーが優勢に進めてきたのだが、カスパロフがその天才をもってして、世界中の誰一人、今まで気づかないような、ある逆転の罠を仕掛けていたのであった。それが先の局面である。ディープ・ブルーはその罠を見破った。それに気づいたカスパロフは、今回のディープ・ブルーの実力を知り、青ざめたのである。

 私が感激したのは、古典定跡の裏をかいたカスパロフの才能もそうだが、それを見破ったディープ・ブルーの「思考力」である。つまり、コンピューターが「思考」したことに感動したのだが、この感動は、そんなところまでコンピューターが考えるのか、という驚きである。

 いくつかの例を紹介してきたが、世阿弥が『風姿花伝』の中で述べていること、「花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり」を、あらためて実感できた。これで、私自身は随分すっきりした。このことは能に限らず、あらゆる芸事に役立つ。芸事以外でも、いくらでも応用は利くはずである。

 「秘すれば花なり秘せずは花なるべからず」という短いフレーズで、感動のメカニズムを端的に表現していた世阿弥はやはりえらい。

 今回、デビッド・カッパーフィールドのショーで多くの人が感動したのは、マジックの本質である「意外性」が、音楽、照明、カッパーフィールド自身のキャラクター、風貌などと相まって、相乗効果として質の高い驚きを産み出すことに成功したからである。

 世阿弥の言っていることも、言われてみれば当たり前のことにすぎないと思うかも知れないが、これをいつも意識できているかどうかが、芸の世界に限らず、何の分野でも重要なのだろう。それがわかった上で、実際にどうやるのかは、その人のセンスにかかっている。

 論理学では、元の命題が「真」なら、「対偶」も「真」であることはよく知られている。ならば、「驚きのないところに感動はない」は「真」のはずである。これは実感としてもわかる。

人の心に起きる様々な感動も、メカニズムそのものはあっけないほどシンプルなものであった。人を感動させるには、まず驚かな い限り感動はないのだから、そこ出発点とすることで、何かを作るときのヒントになるかも知れない。

マジェイア


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