渇愛と欲望

1997年8月2日

「欲望を断ち切る」と言う。しかし、そのようなことはできない。 結果として、欲望が消えてしまうことはあるが、それは欲望を断ち切ろうとしてできることではない。むしろ欲望を断ち切ろうとしている限り、欲望はますます大きく膨れ上がる。

私たちの不幸の根本は「渇愛(執着)」から発している。欲望ではない。執着を断ち切れば、結果として欲望も消えるが、欲望を断ち切ろうとしても、その前の段階、執着を処理しない限り無駄である。欲望を消す必要などない。欲望と執着は別の次元の話である。

「何々の賞が欲しい」と言っている作家がいる。
「賞などいらない」と言っている人がいる。

いつも食い物の話をしている人がいる。来週はあの店、その次は別の店と、餓鬼 (hungry ghost)にでも取り憑かれているかのように、食い物の話をしている人がいる。
「一汁一菜」、質素な食べ物がよいと思い、実践している人がいる。

SEXのことで頭の中が一杯になっている人がいる。
SEXなど不潔で興味がないと言っている人がいる。

金が欲しくて欲しくて、ひたすら貯め込むことに情熱を燃やしている人がいる。
金があるからろくなことなどないと思い、金を忌み嫌っている人もいる。

何事にせよ、、「何々が欲しい」というのは「有」への執着であり、「何々などいらない」というのは「無」への執着にすぎない。結局、「欲しい」と「いらない」は同じことである。「有」への執着が、「無」への執着に変わっただけで、本質は何一つ変わっていない。

欲望を絶とうとしてもそれは無理である。

たとえば食欲。 食欲を絶つことなど意味がない。腹が減ったら、何かを食べたらよい。今、おいしいものが食べたければ食べに行けばよい。満たされたらそこでやめたらよい。明日、何々を食べたいとか、来週、あそこのレストランへ行こうというのが渇愛だ。

お金も入ってくるものは有り難くいただく。なければないでなんとかなる。

執着というのはいつも「時」と関係している。人は将来のことを思い悩むことで、不安になり、怖れる。

将来、何々をしたいと思ったところで、そのようなことは人の力では如何ともしがたいことに、気付くことだ。10年先のことを考えて計画を立てたところで、大地震が起こり、何もかも振り出しに戻ることもあるだろう。癌で一年後には自分自身がこの世にいないこともあるだろう。

では、将来にそなえて勉強したりすることも無駄なのだろうか。誤解しないで欲しい。将来に備えてではなく、今、勉強したければすればよい。今、ここで、つまり"Here and Now "がすべてであり、今、自分が欲しているのなら、それをすればよい。「今ここで」が積み重なって、期待していた以上の結果になることもある。最初から業績を期待して何かをしても無駄だが、結果としてその積み重ねが業績になるのはそれは受動的なことであり、カルマをまき散らすこともないので浄福である。そのような人は祝福される。

見るからに強欲そうな人、また逆に、「何々などいらない」と公言している人間の顔は、同じタイプの顔になっている。宗教者を名乗っていても、どう見てもこのじじいは政治家によくある、強欲じじいと同じタイプにしか見えないというのがいるだろう。「有」への執着も「無」への執着も、執着である限り、所詮、同じくらい強欲なのだ。

人類はときどき、とんでもない人を産む。千年にひとりくらいの割で、見えないものが見える人が出てくる。見えないといっても、本当はいつもそこにあるのに、誰も気がつかなかっただけなのだが、それに気付く人が出てくる。釈迦やキリストのような人達だ。リンゴが落ちるのを見て、月が地球に落ちてこないのを不思議に思ったニュートンのような人もいる。万有引力はニュートンが作ったものではない。宇宙開闢(かいびゃく)以来、いつでもあった法則だ。それにニュートンは気付いた。それが、今では様々な分野で生かされている。

見えないものが見えた人の言葉、釈迦の言葉を集めたもののなかでも最も古いもの、「スッタニパータ」の一節を紹介しておく。

死ぬよりも前に、渇愛を離れて
過去によって現在を言い訳しようともせず
目の前のことにたいしても準備せず
未来を思いわずらうこともない

そのような人は、怒らず、怖れず
誇らず、後悔するような悪行をなさず
よく思慮して語り、そわそわすることもなく
沈黙して暮らすことができる

いまだ来ないものを願い求めることもないし
すんでしまったことを憂えることもないし
すべての感覚対象から遠ざかり、離れるので
思考に支配されてしまうことがない

このように依りかかるもののない人は
ダルマ(法)を知っていて他に依存せず
有への渇愛も存在しなければ
無への渇愛も存在しない

『ブッダのことば――スッタニパータ』 

興味のある人は、岩波文庫、『ブッダのことば――スッタニパータ』 中村元 訳{ 青301‐1}でも読めるので、一読されることを薦める。しかし、これは瞑想体験なしに読んでも、おそらく誤解しまくると思う。それでも、繰り返し読み、意識のどこかにひっかけておけば、気付くときがやってくるだろう。
なお、上で紹介した訳は、中村元氏の訳ではなく、野田俊作氏の訳を使わせていただいた。

最後に、煩悩の根元、渇愛を切るにはどうすればよいのだろう。
それは、物事にレッテルを貼ってしまうところから始まる。何かを見たとき、私たちは反射的に名前を付ける。もしくは名前を思い出す。

頭の上で何かが「カアー」と鳴いたとき、あれは「カラス」だと思う。近所で四つ足で歩いている生き物を見ると、「犬」とか「猫」とかに分類する。分類して、名前を付け、ある集合の中に放り込んでしまったら、それでわかった気になる。
前方から誰かが来た。それがA氏だとわかったとき、人は不愉快になったり、嬉しくなったりする。

この宇宙の中に存在する花も動物も、風も、水も、私が直接、接することのできるものはごく一部なのだろうが、それが私にとっての宇宙であり、すべてである。それらは等しく、私の宇宙を作っているかけがえのないものなのだ。

対象をあるがままに、そしてそれらが私にとってのすべてであると気付いたとき、それをそのまま受け入れることができるようになる。名称はどうでもよくなる。その存在そのものと向かい合うことができるようになる。

今の忙しい世の中、物理的な時間だけが自分とは関係なく流れて行く。このような世の中で暮らしている私達が、自分の「時」を取り戻すために瞑想の時間を持つのはよいことだろう。瞑想はいかなる宗教とも何の関係もない。ただ、自分にとっての「時」を過ごすための目覚めた時間なのだ。そのような時間を持つと、気づく人は何かを気づくかも知れない。


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