機内で出会ったハンガリー人

1997年11月5日 (2026年3月10日改訂)

 30年ほど前、イタリアからの帰りの飛行機でのことです。

 隣に座った外国人の男性が、日本のガイドブックを見たり、手帳に何か書きこんだりしていました。どうやら、これから日本へ行くらしいのです。

 彼がビールを頼むと、客室乗務員がキリンビールを持ってきました。すると彼は、缶に描かれた「キリン」の絵を、いかにも不思議そうに眺めています。そして私に、
「この動物は何ですか」
とたずねました。

 私は思わず、「giraffe」と言いかけました。けれども、よく見ると、首の長いあのキリンではありません。あわてて言い直しました。

 "It's an imaginary animal, something like a dragon."

 すると彼は、「なるほど」といった顔でうなずきました。

 それがきっかけで、話が始まりました。

 彼はハンガリー出身で、原子力関係の技術者だそうです。これから一か月ほど日本に滞在し、福井の原子力発電所へ行くのだと言います。

 そのうち彼が、
「ハンガリーでいちばん有名な日本人は誰だと思う?」
と聞いてきました。

 私は少し考えて、
「ホンダさんか、トヨタさんでしょうか」
と答えました。日本人の名前というより会社名ですが、とっさにはそれくらいしか思い浮かびません。

 ところが彼は、にやりともせず、
「No.」
 それなら、ともう一つ挙げても、
「No.」
です。

 正解は、指揮者の小林研一郎氏でした。ハンガリーではとても有名で、ほとんどの人が知っていると言います。私が知らないと言うと、彼は少し驚いたようでした。

 これはまずい。そこで私も反撃に出ました。

「それでは、日本でいちばん有名なハンガリー人は誰だと思いますか」

 彼は考えました。かなり考えました。しかし、わからないようです。

 そこで私は、
「ピーター・フランクル。数学者で、大道芸人としても知られている人です」
と答えを教えました。

 すると彼は、見事に知りませんでした。

 よかった。これでおあいこです。

 そのあとも、ハンガリーのこと、日本のこと、旅の思い出など、いろいろな話をしました。二人とも英語が特にうまいわけではありません。それでも、お互いに外国語として英語をしゃべっているせいか、意外なくらい話は通じました。

 ただ、彼は原子力関係の技術者なので、専門分野の英語はよく知っているらしいのに、ごく簡単な日常会話の単語が、ときどき出てこないのです。

 イタリアの話になったときのことです。

 彼は、新婚旅行でベネツィアに行ったことがあると言いました。私たちもちょうどベネツィアに行ってきたばかりでしたから、話が盛り上がりました。

 どうやら彼は、ゴンドラに乗って、ある橋の下でキスをすると永遠の愛が約束される、という言い伝えがあるので、自分たちもそれをした、という話をしたかったようです。

 ところが、途中で急に困った顔になりました。腕を組んで、何かを思い出そうとしています。しばらくしてから、彼は私たちのほうを向いて言いました。

「ええと……唇と唇を合わせる、あれ、何て言うんでしたっけ?」

 私も妻も、一瞬、何のことかわかりませんでした。

 唇と唇を合わせるもの?

 何だろう。

 なにかの儀式か、薬か、それともハンガリーの何か特別な風習か。そんなはずはありませんが、とにかく「キス」という単語は、こちらの頭にまったく浮かびませんでした。

 私たちが二人で顔を見合わせていると、妻が恐る恐る、
「それって……キスのこと?」
と聞きました。

 すると彼は、
「そう、それです!」
と、ぱっと顔を輝かせました。

 わかった瞬間、三人で大笑いしました。

 日本では、小さな子どもでも知っていそうな英単語です。まさか、それがとっさに出てこない人がいるとは、思いもしませんでした。

 あとで、ハンガリー語ではキスのことを何と言うのか聞いてみると、Csok(チョーク)だと教えてくれました。

 日本では "kiss" は、ほとんどそのまま日本語になっています。辞書を引いても、最初に「キス」と出てくるくらいです。けれども、彼にとってはそれは、思い出さなければならない外国語の一つにすぎなかったのでしょう。

 こちらにとっては当たり前すぎる単語が、相手にはなかなか出てこない。

 たった一つの単語のことで、私は妙に感心し、妙におかしくなってしまったのでした。


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