言霊

 

1999年1月14日

言葉には魂が宿っているという思想、もしくは宗教がある。

『万葉集』にも、何度か「言霊(コトダマ)」という言葉が出てくるように、人は昔から言葉のもつ不思議な力に気づいていた。言葉の呪縛性、つまり、あることを口にすると、それがしばしば現実となることを知っていた。良いことであれ、悪いことであれ、また、他人に向かって発した言葉であっても自分自身に向かっての言葉であっても、対象に何らかの変化をもたらすことがあるのを経験的に知っていた。

卑近な例を示せば、誰かに向かって、「あなたは最近顔色が悪い」と言い続けると、言われた人は心当たりがなくても、実際に体調が悪くなってくる。会う人会う人から、そのようなことを言われると、大抵の人は気になり出し、本当に顔色が悪くなってくる。

これを言葉そのものに内在する不思議な力のせいであると解釈する人もいる。しかし、この程度のことであるのなら、別段、「言霊」などという大層な言葉を持ち出すまでもない。今のような事例なら、心理学でも十分説明できる。また、ときの権力者や、影響力のある人物の発言に、世間が振り回されることなども、日常的にいくらでも見られる。このようなものも「言霊」と呼ぶに価いしない。

お遊びではなく、せっぱ詰まった状況で、心の底から願っていることがあるとき、言葉にして発すると、それが現実となる人がいる。「音」として、言葉を発すると、それが叶う人がいる。

なぜ、今頃、唐突にこのような話を持ち出したかというと、最近、「「言霊」を意識している人と立て続けに会ったからである。

昨年の暮れから正月休みにかけて、12連休という、この時期の私にしては空前絶後の長期休暇が取れた。これは夏頃から予定していた海外旅行が、ある事情からキャンセルになったためなのだが、この機会に、「煩悩即涅槃」や「本」のコーナーで知り合い、何度かメールの交換をしている方々数名とオフミーティングをすることにした。福岡、広島、愛知(2名)、東京と、5名の方が遠方からわざわざ大阪、神戸まで来てくださった。日にちをずらせてお一人お一人と個別にお目にかかった。

その中のお二人から、偶然、「言霊」にまつわる話が出た。このお二人とも、既存の宗教とは一切関わりがない。しかし、<何か>を信じている人であるのは共通している。その信じているものは、私が信じている<何か>でもあった。

その中のお一人、現在、法曹関係の仕事をなさっているAさんが、これは今まで人には話したことはないのですが、と言いながら話してくださったことは大変興味深いものであった。

「私は子供の頃からどうしても実現したいことがあると、ベッドの前に座って、<私の神様>に声を出してお願いしました。すると、それがほとんど何でも叶うのです」ということであった。

この二日後、Bさんと会ったとき、さりげなく「言霊」の話をしたら、先のAさんと、まったく同じ話をされたのには驚いた。

私自身も同じような経験をしているのだが、私はこの種の話をそれほど不思議なことだとは思っていない。人は本当に心の底から願っていることであれば、そのとおりになるのは私の今までの経験でも十分すぎるくらいわかっている。私の個人的な体験に限っても、例をあげれば切りがないほどあげられる。時々、願ってもそうならない場合があるが、よく考えてみると、それは実際のところ、本心から願ってなどいないことであった。このため、先のAさんの「祈り」も、それと同じようなもので、強く願っていれば意識のベクトルが24時間、そちらを向いているので、自ずとそれが実現する方向に自分自身が努力しているからであると思っていた。実際、そうなのだろうと思う。そのため、「言霊」と言われても、要は意識のベクトルのことだと理解していた。

しかし、どうもそればかりではないことがわかってきた。自分自身に起きることだけなら上のような理屈でも通るが、これが第三者が介在することや、自然現象に近いことであれば理屈が通らない。第三者への影響といっても、最初にあげたような例、「顔色が悪い」というようなことではなく、その第三者の耳にすら入らない状況でも、あることが起きる場合がある。

話は変わるが、私が子供の頃、祖母が朝起き、庭に出て、まず最初にすることは、お日様の方に向かって手を合わせ、何やらお祈りをすることであった。毎日、その「儀式」から祖母の一日が始まっていた。時間にして30秒程度のことだから、おそらく、「今日もみんなが無事に過ごせますように」というようなことを声に出して祈っていたのだろう。

祖母は太陽のほうを向いていたが、実際にはお天道様を拝むというより、この宇宙に充満している諸々の<存在>、もしくは<エネルギー>、「神」と呼んでもよいのだが、漠とした存在、しかし厳として有る<存在>に祈っていたのだろう。祖母は学問などとは無縁の人であった。しかし、このアニミズムとも言ってよい毎日の祈りは、現世利益などということではなく、大きな存在に対する信頼であり、それに自分自身を100%委ねて生きて行けることに対する感謝であったのだろう。

祖母の祈りなど大変素朴なものであったが、言葉にして、大きな<存在>に何かを願うことは、それほど愚かしいこととも思えない。

実際、自然現象も含めて、この世の森羅万象が、その人の発した言葉によって何らかの現象が生じることとがあるらしい。

卑弥呼は「言霊」を操れたそうだ。卑弥呼が天に向かって言葉を発すると、それが現実となった。その対象は人間だけではなく、天候や作物、狩りのこと、とにかく、森羅万象のことが現実となったらしい。祝詞なども、言霊信仰の名残であるようだが、あれは今ではただのイベントに成り下がっている。しかし、ある人物の発する言葉が、確かに現実になることを私自身も経験している。また、同じようなことを経験しているAさんやBさんの話からも、「偶然」で片づけるにはあまりにも頻繁に起きる。

これは決して特殊な人にだけ与えられたものではないと私は思っている。また、柿本人麻呂は「しきしまのやまとの国は言霊のさきわふ国ぞま福(さき)くありこそ」と詠っているが、別段、日本に限ったことでもない。

もしあなたが何か達成したいことがあるのなら、ただし、それが本当に心の底からのことであり、誰にも迷惑が掛からないのなら、今晩から、声に出して願ってみることである。私は確信しているのであるが、それがよほどヘンなものでない限り、あなたの願いはきっと実現するだろう。


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