三つのおねがい?

 

2000年1月24日


人はどのようなとき幸福だと感じるのだろう。

おそらく今のような話題に、一瞬も意識が向かないときこそが幸福なのだろう。しかしたいていの人は幸福であることを願っている。どうなれば自分は幸福なのか、たまには自分の思い描く「究極の幸福像」をイメージしてもみるのもわるくない。そしてそのあと、なぜ自分はそれを望んでいるのか考えてみる。

私の周りにいる中学生、高校生、大学生くらいの若い子が、将来職業をどうするかで迷っているとき、今の質問をしてみるとおもしろい反応が返ってくる。「お金が欲しい」、「大きな家に住みたい」、「有名になりたい」等、様々な返事が返ってくる。

本当にお金がなくて困っているときはお金が欲しい、彼女(彼氏)がいないときは適当な相手が欲しい、何かの病気があるときはそれがよくなって欲しいと願うことは、それほど不自然なことではない。当面、不自由を感じていることがあるのなら、それを何とかしたいと思うのは自然なことだろう。

1970年頃、ちあきなおみの「四つのお願い」という歌がヒットしていた。その数年前、私が中学生のとき読んだ英語のテキストに、「3つの願い」という話が載っていた。神様がいて、どのようなことでもあなたの願いを3つだけ叶えてあげると言われたら、何を望むかという問であった。

三つでも四つでもよいが、もし本当にあなたの願いを叶えてあげると言われたら、あなたは一体何を望むのだろう。本当に叶えられるとして、一度、自分の願いを書き出してみるのも悪くない。書き出すときは3つに限らず、いくらでもよい。書き出してから、重要でないと思うものを消してゆく。最後3つくらいまで減らし、さらにその3つにも順位をつけてみる。

なぜ自分はそれを欲するのかも考え、メモしておく。そしてその答えに対して、さらなる「なぜ」を出してみる。たとえば、高校生で、「医者になりたい」という子がいるとする。「お金が儲かるから」、「人助けができるから」という理由が出てきたとき、ではなぜ「お金が欲しいのか」、「なぜ人助けがしたいのか」を問うてみる。出てきた答えに対してさらに問い続けてゆくと、どこかで答えに窮する場面に出くわす。自分でも一体、何を望んでいるのか、わけがわからなくなってしまう。もしその最後の答えが、「自分の魂が欲しているから」としか言えないものであるのなら、多分それは「本物」なのだろう。しかしすぐに行き詰まってしまうようなものであるのなら、実際はそのようなことを自分は願っていないのかも知れないと思い、考え直してみるのも悪くない。

何かを願うのはよいのだが、たいていの不幸は「過剰」に願うところから生じてくるのだと私は思っている。現在満たされているものだけでは満足できず、意味もなく過剰に「もっと」を願うとき、今の自分に満足できなくなる。過剰に欲するという、その行為そのものが不幸の大元になっている。不幸というのは、どこかからやってくるものではなく、いつでも自分で不幸の道を選択しているにすぎない。「もっと」が自分の魂の叫びであるのなら、その衝動は抑えようがない。それがその人がこの世に存在している意味なのだから抑える必要もない。それ以外の何かを過剰に欲するとき、人は満たされていることを忘れ、おかしなことになる。

それにしても人類はいつの頃から幸福を追求するようになったのだろう。どのような生き物でも、居心地よく暮らせる環境を求め動き回っている。海の生き物も、野生の動物も、昆虫も、ウィルスでさえ、そのときの苦痛を少しでも和らげる方向へ進んでゆく。それがあらゆる生き物の本能なのだろう。

おそらく人間に「不幸」という意識が芽生えたのは、過剰の「もっと」を欲したときに違いない。「幸福」という概念が先にあったのでなく、「不幸」、あるいは「居心地の悪さ」があり、それを取り除き、さらなる過剰の欲求が生じてきたとき、「幸福」という幻想を追い求め始めたのだろう。しかし、幻想はどこまで行っても幻想にすぎない。実体のない「青い鳥」を追い求めても、捕まえられるはずがない。

この宇宙が存在していること自体が完全であり、私たちを取り巻いている<存在>の神秘は、いつだって私たちを満たしてくれている。

2000年の正月、「三つのお願い」を書き初めしようと思ったが、考えれば考えるほど何も出てこない自分に呆れてしまった。したいことは山ほどあるのだが、あらためて誰かにお願いしなければならないようなことは、結局、私自身の魂の叫びではないことがわかっているからだろう。したいことは、お願いする前に、すでに行動に移している。行動に移していないことは、畢竟、やりたくないことであり、自分にとってはどうでもよいことなのだろう。


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