瞑想の目的

 

1999年3月12日改訂
1997年7月26日


瞑想をする目的を知っているだろうか。

悟るため?いえ、そうではない。悟りたいと思って瞑想している限り、永遠に悟りなどやってこない。むしろ神経過敏になる分だけ、ろくなことなどない。

瞑想は、ただ、「気づき」のための時間である。「気づき」と言うと、何かすばらしいことに気づくための時間と誤解する人もいるかも知れないが、これもまた誤解を招きそうである。言い方を変えてみよう。英語で言えば"be aware of"、つまり、「〜に気付いている状態」、または「目覚めている状態」とでも言ったほうが近い。ただひたすら、自分の周りで起こっていることを、そのまま感じるための時間である。

「ヴィパッサナ」という瞑想法がある。自分の呼吸を見ることだけに意識を集中させる。吸う息、吐く息をじっと見つめる。40分間くらい自分の呼吸を見つめることができるようになれば、とりあえず合格だそうだ。しかし、時間をはかったりすれば、それは呼吸以外のことに意識が行っているわけであるから失格なのだそうだ。そうかも知れないが、あまりかたいことを言う必要などない。とりあえず自分の呼吸を見つめていればよい。「無心」になろうとすることもない。雑念がわいてきたら、それも悪くはない。そのうち色々と考えることも出てくるが、それも無理に止めることもない。

ただ言えることは、瞑想をするのに、最初から何かの具体的な目的は持たないほうがよい。目的のない時間を取り戻すことが目的かも知れない。(笑)何とも皮肉なことであるが、瞑想状態のことを言葉で表現しうようとすると、いつもこうなってしまう。

とりあえず40分間、ヴィパサナができるようになったら何が起きるのだろうか。何か良いことがあるのだろうか。

これには、私はあるともないとも言えない。まずよいことなど何もないと思っておいたほうが間違いない。少なくとも、瞑想中には99%、何も起きない。清浄で、「目覚めた時間」を作りだすためのお稽古の場にすぎない。瞑想では悟ることなどできない。特に、瞑想で悟りたいと思っているのなら、まず絶対悟ることはできないだろう。

もしあなたに何かのお悟りがやってくるとしたら、それはSEXをしているときかも知れないし、庭を掃いているときかも知れない。芋を洗っているときかも知れない。金魚が泳いでいるのを見たときかも知れない。それは私の知ったことではない。そして、あなたの知ったことでもない。

Who knows it?  誰にもわからない。しかし、ひょっとしたら何かが起きるかも知れない。 たぶん、やって損はないとだけ言っておこう。何が起きるのかは、起きたときのお楽しみ。


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