情けは人の為ならず

 

1999年3月13日

数年前、某大学の入試問題に、『情けは人の為ならず』を英語で説明せよ」という問題が出題されていた。

この諺は言うまでもなく、「情けを人にかけておけばそれがめぐりめぐって、いつか自分にもよい報いが来る。だから人には親切にせよ」ということである。

しかし最近の若い人はこの諺の意味を大抵逆に解釈しているらしい。「他人に情けをかけるとその人を甘やかすことになるのでよくない」という意味にとっている。確かにあの日本語自体はどちらの解釈も可能であるため、知らなければそう思ってもしょうがないのだろう。

もし先の試験が「現代文」のものなら、後者のような解釈を書けば間違いなく0点だろうが、「英作文」の問題として出題されているので、その辺りの採点基準は不明である。どちらの解釈でも、とりあえず英語で達意の文章になっていたら点がもらえたのだろうか。

『箴言集』……と言っても「魔法都市案内」の中にある例のものではなく、「本家」の『箴言集』のことなのだが、ラ・ロシュフーコーはその中で、「美徳はしばしば悪徳の偽装にすぎない」と言っている。これは確かに「箴言」である。

『聖書』の中でも、エックハルトの説教の中でも、「一切の見返りを期待しないで何かを与えると、その何倍にもなって返ってくる」とある。これは私自身、何度も経験している。

しかし、人が何かをするとき、どんな理屈を付けても、どれほど無私を装っても、実際はすべて、自分のためにおこなっている。何かを人にしてあげることで、自分自身の気分がよくなるからやっているだけである。相手が喜んでくれたら、そのことで自分もうれしいから、つい何かをやってあげる。これは両者の喜びが一致しているから、まあよいとしよう。しかし、いつもそうとは限らない。

問題は相手が喜ばなかったときである。「何かをしてあげたのに」、相手が喜ばないと、大抵の人は気分を悪くする。これは、相手に何かをしてあげたのは端(はな)から見返りを求めてやっているからである。これでは何かをしてあげても、決して期待したようにはならないだろう。世の中にはこのタイプの人がごまんといる。ひどいときは勝手に何かを押しつけておいて、見返りを求めてきたりする。悪徳商法のダイレクトメールのような人間が実際にはいくらでもいる。

人に何かをしてあげて、そのことで一番救われているのは、実のところ、それをおこなった当人である。自分の存在が特定の誰かや、世間の役に立っていると感じることは、ある意味、最も充実感がある。タイやイスラムでも、人に何かを施しをしたら、感謝すべきなのは施しを受けた人よりも、むしろ施しをした人であると思われている。それゆえ、施しを受ける側は大きな顔で施しを受ける。相手の施しを受けてあげることで、相手は気分がよくなり、善行を積んだことになるのだから、その手伝いとして施しを受けていと思っているのだから、大きな顔で施しを受けている。確かにこれ以上の貢献はないかも知れない。実際そうなのだろう。

露骨に自分の名前を出すのが嫌なら匿名でもできる。自分を知られて行うより、「足長おじさん」のほうがむしろ気分がよいものである。

ところがこれでさえ、実際は「誰かからの称賛」を期待している。「誰か」というのは、「世間の見えない声」であったり、「神」であったりするのだが、どこかにこのような「下心」があるのなら、このほうが一層強欲だろう。

30年近く前になるが、私が高校生の頃、哲学者、森有正氏の本を読んでいたとき、ある一節が妙に心に引っ掛かった。古い話であるのと、今手元にその本が見つからないので正確な引用はできないが、大意は次のようなものであった。

自分の周りを見渡すと、世の中には様々な境遇の人がいる。他人から見て「幸福な人」も「不幸な人」もいるが、この歳まで生きてきて、あらためてそのような人をながめてみると、決して偶然そうなったのではなく、本人が望んでいたからそうなったのだとしか思えない。

これを読んだとき、なんてつめたい人なのだろうと憤慨した。この世で不幸そうに見える多くの人達が、何でわざわざ自分からそれを望んでそうなったのか、そんなはずがないだろうとそのときは思った。

あれから30年ほど経って、つらつらと自分も含めて周りの人をながめていると、森有正氏の言っていることがわかってきた。

人は自分が現在していること、その今していることが「業(ゴウ)」となり、将来が決まる。現在の自分も、過去の自分の業の上に存在している。現在の自分は突然今の自分になったのではない。自分が生まれてからのすべての業、いや実際には親の業や先祖の業まで背負っているのだろう。そして人が死んだとき、この世に残せるのは業くらいのものである。とにかくやっかいと言えばやっかいなものかもしれないが、人の今も、将来も業の連続の上に存在している。

このようなことを言うと、また頓珍漢なメールが来そうなので断っておくが、私は何も、「親の因果が子に報い」と詠っている、見せ物小屋前の呼び込みババアのようなことを言っているのでない。

人はいつだって自分のしたいことしかしないようになっている。そういう生き物なのだ。自分の望むように生きてきた結果が、今の自分を作っている。嫌ならいつだって変えることはできたのだ。 人から見て、「不幸」に見えようが、当人はそれが好きでやっている場合がいくらでもある。

話が逸れるが、男女の別れ話を聞いていると、「私はあの人にあれだけ尽くしてあげたのに、私を裏切った」だの、「私を捨てた」だのと言っている女(男)がいる。

このようなことを言っている女(男)は、「してあげられたことの喜び」の中に、すでに十分な見返りを得ていたことに気がつかないのだろうか。

「してあげられる人が誰もいないこと」のほうがずっと悲しい。またそのことを知っているので、とりあえずキープできている相手がいれば、ゼロよりはマシと思い、付き合っているカップルが大勢いる。他人から見れば、このカップルは一体何がよくて付き合っているのか不思議に思えるようなものでも、寂しさを紛らわせる大人のおもちゃくらいにはなっているのだろう。

人に何かを「してあげられるありがたさ」を本心から感じるとき、人は一切の見返りを期待しなくなる 。

 


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