rose:drawn by Yoko MIWA

一輪のバラ

1999年6月9日

幸田文と辻邦生との対談の中で「一輪のバラ」についての話があった。

辻邦生が昭和30年代、はじめてパリに留学したときのことである。国立図書館へ行ってみると、大きなガラスケースの中にリルケの豪華本が展示されていた。あるページが開かれており、そこに、「ただ一輪のバラ、それはすべてのバラ」という一文があった。それが目に飛び込んできたとき、それまで悩んだり、苦しんでいたことに対する解決の糸口が見つかったそうだ。

一輪のバラの中に、人が生まれて死ぬ、また地球がはじまり、すべてのものが滅びてなくなる時までに咲いたすべてのバラがある。自分の目の前におかれたこの一輪を本当に愛して、それといっしょに生きることができるなら、すべての生を生き続けるのと同じだ……。

私がこの辻邦生の言葉を読んだとき、これはまさに釈迦の言っている「縁」のことだと思った。

今私がこの世にいるのは私の両親がいたからであるが、父親、母親のどちらかが異なっていても、今の私はいない。私がいるのは、「偶然」、父と母が出会ったからである。さらにその前の祖父母も同様である。ずっとさかのぼっていって、どこかで何かが起こり、この組み合わせが変わっていたら私はいない。

祖父が戦争で死んでいたら、祖母が蚊の一匹に刺され、それが原因で何かの病気になり死んでいたら、今の私はいない。ある蚊が祖母を刺さなかったのは、その前に何かの虫がその蚊を食べたからかも知れない。または隣に住んでいた誰かが、その蚊を殺したからかも知れない。

地球ができてから、私の遺伝子ができるまでに、ありとあらゆるものの関係性の中で私は存在している。「縁」、特に仏教では実際に関係があった縁のことを「因縁」(いんねん)と呼ぶが、逆に、それの数万倍、数百万倍、実際には無限に、関係しなかった縁がある。このような縁を「増上縁」(ぞうじょうえん)と呼んでいる。

祖母が何かの菌を持った蚊に刺されなかったり、毒蛇に噛まれなかったという事実も、そのような縁がなかったからである。

釈迦が生まれていなかったら、キリストが生まれていなかったら、チンギスハーン、ヒットラー、誰でもよいのだが、ある人が生まれていなかったら、その後の人類の歴史は大きく変わっていたかも知れない。また逆に、誰かが生まれていたら、もっと変わっていたかもしれない。

一輪のバラは「偶然」の積み重ね、あるいは様々な縁が積み重なり、それらが凝縮したものとして存在している。同じバラだけでなく、すべての生き物、風、雨、光、すべての縁が関係している。一輪のバラには、天地開闢(かいびゃく)以来の歴史が詰まっている。

一輪のバラにすべてのバラがあるのなら、一人の人間でも同様である。私やあなたの中には、宇宙ができてからのすべてが詰まっている。そして今自分のやっていることが、この先の何億年か先まで影響し続ける。連綿と続いて行く。すべてが"Here and Now."、今ここでの私たち一人一人の意識や決断によって決まる。それは間違いなく、人類全体、ひいては宇宙全体にまで何らかの影響を及ぼす。

大げさな話に聞こえるかも知れないが、決してそうではない。難しいことでもない。とりあえず、今自分がしなければならないことを一生懸命する。その繰り返しでしか、自分の行為に責任をとることはできない。遊びにしても仕事にしても、何でもかんでも、今やっていることを三昧の境地でやっていれば、後はなるようになる。

 注:冒頭の対談は(『幸田文 対話』(岩波書店):昭和56年9月『婦人之友』掲載)


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