自分自身が消えるとき

1997年12月12日

何かに熱中しているとき、自分自身の存在、「自己」が消えていることがある。消えているときは、消えていることすら感じない。本当は、「消えている」という言葉すら適切ではない。「在る」でもなく「無い」でもない状態.....。こんなもの、とても言葉では表せない。しかし実際、そのような状態になることがある。

現代物理学では、エネルギーと物質は互換的であり、ふたつは同じものと考えられているらしい。いっとき、物質であったりエネルギーであったりしているにすぎないのだろう。

何かに熱中していると、そのときやっている仕事や遊びに、自分自身のエネルギーがすべて移ってしまっているとき、肉体やマインド(心)が空っぽになっていることがある。そのときは気づかないのだが、「元」にもどったとき、この間の、数分から数時間の「空白」に驚くことがある。「自己」は消えていたとしか表現しようがない。その間は、限りない静寂と同時にエネルギーの放出を感じている。

自分自身のエネルギーが何かに向かってスムースに流れ込み、その対象に移ってしまっているとき、「自己」は空っぽになっている。肉体は空っぽになっている。

逆に、「自己」を感じるとき、エネルギーの流れが止まってる。このようなとき、人は苛立ち、落ち着かない。無理矢理にでもエネルギーを流さないと窒息しそうになる。しかし、無理に流したところで気分はよくならない。

「三昧」(さんまい)というのは梵語「サマディ(Samdhi)」の音訳であるが、心がひとつのことに集中して、無念になることと言われている。おそらく先のような状態が三昧なのだろう。

舞踏家が何かに憑かれたように踊っているとき、作家が何かの声を書き記すかのように書き続けるとき、画家が無心でキャンバスに向かっているとき、彼自身のエネルギーは踊りそのもの、言葉そのもの、絵そのものに移っている。彼の存在そのものがエネルギーに転化し、踊りや言葉、絵に姿を変えている。

何も芸術家に限ったことではない。ごく普通の仕事をしている人達、例えばビルのお掃除おばさんでも、本気で清掃に立ち向かっている人は嬉々としている。エネルギーが仕事そのもに変わってしまっている。間違いなくおばさんは三昧の境地になっている。そして充足感を味わっている。

確かに、物質はエネルギーに転化する。ある人の作品には、その人のエネルギーがそそぎこまれている。このことは、その作品の中に、それを行った当人が存在するのと同じことのはずだ。比喩としてではなく、実際に、間違いなくその中でその人が生きている。

我々が、昔の人の作品、絵画でも書物でも音楽でも何であれ、今、それに接して感動できるのは、その人のエネルギーに触れているからであろう。エネルギーに触れるというのは、生きているその本人に触れているのと同じことだ。

2,000年以上も前に書かれた『聖書』釈迦の言葉、1,000年も前に書かれた『源氏物語』を読んで感動したり、影響を受けるのは、今、「この瞬間」にも、もイエスや釈迦、紫式部が生きているからだろう。そうでなくては、どうして2,000年以上も前の人間、それも遠く離れたかの地の人間が言ったことに、現代の我々が感動などするものか。

100年前、私は今のような形では存在しなかった。100年後、私もあなたも肉体はなくなっているだろう。しかし、何かに形を変えたものとして、残っているに違いない。


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