三輪空

 

2000年9月24日


昔、知人の家に招かれたとき、床の間に「三輪空」と書いてある額が掛かっていた。これを見たとき、「おまえ(三輪)は空っぽだ」と言うために、私を家まで呼びつけたのかと考え込んでしまった。

それにしても人を招いておいて、「おまえは空っぽだ」はないだろう。一体どういうつもりなのだろう……。額に気づかない振りをして座っていた。

「おまえは空(くう)だ」と言われることに関しては、今なら全然抵抗はない。「諸行は無常」であるから、この世のすべてには実体はなく、「空(くう)」である。それは構わないのだが、「三輪空」なんていう言葉はそれまで聞いたことも見たこともなかった。

思い切ってこちらからたずねてみた。

三輪空は「みわ くう」ではなく、「さんりんくう」と読むのだそうだ。「三輪空寂」(さんりんくうじゃく)とも言うと教えてもらった。

布施を行う場合、布施する主体(施者)、布施する相手(受者)、布施する物品(施物)の価値、この三つの要素に執着するなということらしい。端的に言えば、人に何かを"してあげた"とき、「私が、誰々に、何々をした」という三つのことを忘れよ、ということだそうである。

人に何かを"してあげる"という言い方そのものが、実際はすでにおかしい。むしろ、"させてもらった"と感謝するのは施者の側である。それをわからず、自分がよいことをしたと思っていると、人のためにと思ってやったことでも、その人からお礼やお返しがないと気分を害してしまうことになる。実際、お返しがないと、「あいつは礼儀知らずのやつだ」と勝手に怒りだす人が世間にはいくらでもいる。何かをして「あげた」とき、見返りがないと腹が立つらしい。

実際、このような人は多い。10年ほど前、パソコン通信が始まったばかりの頃、オンラインで知り合った人からある物をいただいた。それはパソコンで使えるようにしたデーターなのだが、私の仕事に関係するものであった。その少し前にメールが届き、無償でそのデーターをくださるということであった。私には必ずしも必要ではなかったが、興味をひかれる部分もあったのでお願いして送っていただいた。すぐにお礼のメールは出したものの、実際には私の仕事にはほとんど役には立たず、その後、すっかり忘れてしまっていた。

2、3ヶ月後、その人から再びメールが届いた。

「私があなたにさし上げたのだから、今度はそちらから何かを送って欲しい」という主旨のメールであった。「お互い、紳士的につき合いましょう」とも添えてあった。私はこれを読んで仰天した。

悪徳商法で、何かを送りつけておいて後からその代金を請求してくるものがある。何かをしてあげたから、お返しを要求するという神経が私には到底理解できなかった。この人は、他人に何かをしてあげたと思っている限り、何をしてもするたびに不幸になって行くだろう。

人がある人のために何かをするとき、それに対する見返りを期待しているのであれば、最初からやめておいたほうがよい。聖書にもあるように、一切の見返りを期待しないで、何かをすれば確かにそれは百倍、千倍になって返ってくる。しかし見返りを期待している限り、それは商取引に過ぎない。商取引をしながら、感謝まで要求するのは虫が良すぎるというものだ。感謝は要求するものではない。愛情や感謝は強要や脅迫で得られるものではない。

もうひとつ、見返りで思い出したことがある。金だけは不思議なくらい持っているおばあさんがいた。家で札を刷っているではないかと思うくらい、金を持っていた。このおばあさんは、神社やお寺にもよく寄付をしていたが、寺や神社が寄付した人の名前を境内に張り出したり、石に刻んでくれることがあっても、いつも固辞していると自慢していた。この話を聞くと、世間の人はなんて謙虚なおばあさんだろうと思うらしい。

しかし本当にそうだろうか。実際には正反対である。こんな強欲なババアはいない。謙虚を装っているだけにすぎない。世間の人には知られなくても、仏様や神様はちゃんと私のしていることを見てくださっているから、死んだら極楽か天国に連れていってもらえると思っているだけのことだろう。死んでから永遠に楽して暮らせるから、名前を出してくれるなと言っているだけである。自分の「善行」をこれ見よがしに人目にさらすと、功徳が減るのでそれを恐れているにすぎない。

謙虚を装っていても、このおばあさんのように腹の中ではひどい欲がとぐろを巻いているだけという人がいくらでもいる。

もしお寺や神社に寄付をするのなら、その後のことはきっぱり忘れることだ。寄進先がでかい看板を作って、寄付してくれた人の一覧表を張り出そうが、石に名前を刻んでくれようが知ったことではないはずだ。後のことは向こうにまかせておけばよい。

「与えるものが受け取るもの」という言葉は確かに真実であるが、何かの見返りを期待して与えるのなら、それは何もしないほうがまだましである。

ここまで書いていたら、もうひとつ思い出した。禅宗の初祖と言われているダルマのことなのだが、この人には多くの伝説がある。はじめて中国に渡ったとき、武帝がダルマを迎えた。武帝は大変信心深く、多くの寺院を建立し、何千もの僧侶を育て、仏教の経典を中国語に翻訳する仕事にも援助をしていた。全財産を仏陀の教えを広めるために投じていた。その武帝がダルマにたずねた。

「私は仏陀のために多くの寺を造り、僧侶を育ててきました。私はどのような果報を受け取れるのでしょう」

ダルマは武帝に一言冷たく言い放った。

「無功徳(むくどく)」

何かを期待しながら、自分はよいことをやっていると思っている人間に功徳などあるはずもなく、地獄に墜ちるのが関の山だと付け加えた。

とにかく、人に何かをするのはむずかしい。その人からのお返しなど、微塵も頭の中をかすめないときしか、何かをすべきではないのだろう。少しでも見返りを求める気持ちがあるのなら、施者・受者とも、嫌な思いをしなければならないことは必定である。

何かを人にする側は、そのときすでに十分よい気分になり、報われている。そのことがわからないのなら、何もしないほうがよいくらいである。要は、する側も、される側も感謝をわすれないことなのだろう。


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