「運命」と「宿命」

 

1998年8月31日

神よ、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの心の落ち着きを与えたまえ。変えることのできるものについては、それを変えるだけの勇気を与えたまえ。そして、変えることのできるものとできないものとを見分ける知恵を授けたまえ。

神学者ニーバー博士の言葉


私の好きな言葉に「時節因縁」がある。

「因縁」というのは「縁起」のことである。この「縁起」という言葉は、世間一般には、「縁起がよい」といえば、何かラッキーなことがあり、「縁起が悪い」と言えば、よくないことの前兆といった意味で使われているが、実際はそのような意味ではない。「縁起」というのは、この世のすべての出来事は何かと何かの関係性の中で生じているという意味である。「他と自分との関係性」のことである。

私たちの周囲で起きている様々な出来事は、すべて何か大きな流れの中にあり、不思議な力で動いていると私は思っている。自分の周りに、ある時何かが起きるのは、そのような「時節」、すなわちそれが起きる「時」が来たのであり、それと「縁」があったからである。誰かと別れるのなら、そのとき、その人と別れるような縁があったのだろう。誰かと出合うのも同じことである。

このような言い方をすると、「あなたは運命論者なのですか?」と言われることがある。どうやら、「運命」という言葉がも、「縁起」と同じように誤解をまねきやすい言葉のようである。

まず最初に断っておくが、私は世間で言われていわれているような、いわゆる「運命論者」ではない。自分の一生が生まれたときから決まっており、いつ結婚し、どのような仕事につき、子供が何人いて、いつ死ぬかといったことが前もってまっているなどとは微塵も思っていない。

数年前、「ヘール・ボップ彗星」が話題になった。あれは約2,000年の周期で地球に接近する。人の「運命」も、彗星の動きと同じようにずっと先のことまで何かの力で決められていると主張する説もあるが、私はそのようなことは全然信じていない。これは先の私の言ったことと矛盾するように思えるかも知れないが、そうではない。この世の出来事は、人智を越えた大きな力の存在があることと、個々の人間の振る舞いでダイナミックに変化するもの、この二つがあると思っている。人が生きて行く過程において、様々な要素が入り乱れ、それに伴い、予測不可能に変化し続けるのが人生だと思っている。勿論、人間には自分の意志でどうにもならないこともいくらでもある。それは「運命」との混同を避けるために、「宿命」とでも呼ぶことにする。

1945年、広島や長崎に原子爆弾が投下され、多くの方が亡くなった。最近では1995年の阪神大震災で6,000名を越える方が亡くなった。この人達は、数時間前まで元気に過ごしておられた方々ばかりである。この方々が亡くなることが前もって何かの力で決まっていたなんて、どう考えても不合理である。しかし、現実にはそのようなことも起きる。このような、自分の意志ではどうしようも出来ないことを「宿命」とでも呼ぶことにする。

この「運命」と「宿命」に関して、漢学者、安岡正篤氏の著書に興味深い逸話があった。

 

昔、中国で、医学を志して勉強していた若者がいました。ある老人がこの若者に彼の一生を予言しました。その老人によると、おまえは医者などになるより、科挙の試験を受け、仕官として進めば大成する。そして何歳で受かり、それ以外のこともこと細かく、死ぬ年齢まで予言したそうです。科挙の試験に受かるということは、仕官として出世を約束されたも同然ですから、若者は喜びました。そして、今までの医者の勉強をやめ、老人の予言通り、仕官の勉強を始めました。数年後、それらがことごとく当ったのです。試験に受かる年齢から結婚する年齢、その他、すべてが老人の言ったとおりになりました。

最初、若者は自分の人生が言われたとおりに進んで行くことに感激していましたが、あるとき、このように前もって決まっている人生が馬鹿馬鹿しくなり、生きる意味を見失いかけていました。そのようなとき、仕事で、ある寺に泊まりました。その寺にいた禅師が、若者の達観したような雰囲気に興味を持ち、「年の割にできておられる。どのような修行をして、そこまでの境地になられたのか」と尋ねたそうです。

若者は今までの経緯を説明し、昔、ある老人に言われたとおりの人生を歩んでいることに最初は喜んでいたが、なるようにしかならないのなら、もう何かにチャレンジしたり、努力することが馬鹿馬鹿しいと思うようになり、そのため生きる意味が見いだせないと話しました。その絶望が、ちょっと見には達観した雰囲気に似ていたので、この禅師は彼に興味を持ったのです。しかし、若者の話を聞いて、「なんだ、おまえを見損なっていた。つまらんやつめ。」と吐き捨てて、どこかへ行ってしまったそうです。

つまり、この若者の誤解は、「運命」も「宿命」も一緒にしており、何もかもが、不思議な力で前もって決められていると思ってしまった点である。しかし、この禅師にそう言われても、現実に、今の自分は昔言われたとおりになっているのだから、決まった何かがあるはずだと譲らなかった。

この話が事実に基づいたものかどうか知らないが、実際、ありそうなことではある。

ある人に言われたことが、不思議なくらいそのとおりになるというのは、「血液型による性格診断」と似ている。心理学の分野では、とっくの昔に血液型と性格の間に、意味のある相関などないということが証明されている。しかし、今でもこれを信じている人は大勢いる。これが当たるように思うのは、自分が昔、本などで知った「血液型による性格」のことが頭にあり、自分のほうから、その本に書いてあった「性格」に自分を近づけて行き、そのような性格であると思いこむことで、いつの間にか、それが当たっているような気になっているにすぎない。つまり、何かの情報が自分の中に入り、それを信じてしまうと、それに自分を近づけるような行動を取る。若者が老人に言われた通りの年齢で科挙の試験に受かり、それ以外のこともことごく当たったのは、意識するしないに関わらず、その目標に向かって、自分自身の全エネルギーを注ぎ込んでいたからにすぎない。

科挙の試験にも、結果的には予言どおりの年齢で受かり、言われた年齢で結婚したとしても、それは自分がその年齢に焦点を合わせて勉強し、結婚相手を捜したからである。意識的であれ、無意識であれ、関心の方向ベクトルがすべてそちらのほうを向いていたので達成できたのだろう。

老人と出会い、先のような「予言」をもらえたことは偶然かもしれない。そして、その予言どおりに人生が進んだことは「運命」のように思える。ただし、それは彼が自分の力で切り開いた「運命」である。前もって決められていたわけではなく、自分の行動が、それを実現させたことをこの若者は忘れている。彼の誤りは、それらを「宿命」と思ってしまい、自分の身の回りに起きるすべてのことは、もう決まっていると思ってしまったことであった。

若者はその後しばらくして、そのことに気づき、新たなチャレンジを始めたそうである。すると、それ以後、老人の予言はすべてはずれ出し、まったく別の人生をおくったということであった。

水の中に石を投げ入れると波紋ができる。また別の人が石を投げ入れると、別の波紋ができる。二つのは波紋はぶつかり、干渉を起こし、新たな模様が生まれる。これが人と人の出合いであり、人生なのだろう。それはとても予測できるようなものではない。良いことも悪いこともひっくるめて、全体でどうなるかは予測不可能である。自分の周りに起きるすべてのことは、ダイナミックな関係性の中で動いている。それを「宿命」と思いこみ、何もやる気がしないというのは、少々、もったいない話である。自分が動けば周りの状況も変わる。


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