臓器移植

 

1999年4月9日

生きた魚を目の前で料理して、出してくれる店がある。

海で取れた魚を生かしたまま店にまで運んでくる必要から、様々なノウハウが開発されている。企業秘密に属することも多いので詳しくは知らないが、魚を眠らせて運んできたり、魚に針を刺し、麻酔が掛かったような状態にする技術もあるらしい。夜遅く、高速道路を車で走っていると、このような魚を積んだトラックをよく見かける。時間が勝負なのだろう。

「臓器移植法」ができてから、先月(1999年3月)初めてそれが適用された。ある人の「脳死」が確認されると、直ちに体の各パーツがはずされ、それを待っている人のところに運ばれて行った。パトカーに先導され、ヘリコプターを使って運ばれている臓器を見ていると、先の「活き魚」を運んでいるトラックを思い出してしまった。こっちは「活け魚」ではなく、生きた人の臓器、「活き肝」を運んでいる。

最初に断っておくが、私は臓器移植には賛成である。身体の各臓器が現在の血液程度に普及し、少し大きい病院であればいつも臓器が常備されている状況、もしくは人工の臓器が開発されて、人間の大抵の部位が交換可能であるようになるのなら、それはそれでよいことだと思っている。なんと言っても、身体の中に調子の悪い部分があると、痛かったり、誰かの世話になったりしなくてはならないので不快であるし、不便である。誰だって痛いのは嫌いに決まっている。それがパーツの交換でそのような不快が解消されるのなら、交換してもらえるに越したことはない。調子の悪いパーツを交換することなど、私の「良心」にも「宗教」にも反しない。眼鏡が合わなくなったら新しいものと交換するように、腎臓でも心臓でも換えてもらえばよいと思っている。そのうち、全品半額をうたった、「臓器の○○」と言ったチェーン店も出てくることだろう。あそこ店のほうが活きのよい肝があると評判になれば、行列のできる病院もできるかも知れない。

輸血を拒否している宗教団体がある。人の血を自分の身体に入れることもイヤなのだから、他人の心臓をもらうなんてもってのほかに違いない。それも別段何の問題もない。他人の血を自分の身体に入れられて助かるくらいなら、死んだ方がマシだと思っている人がいても、それを他人がとやかく言う筋合いは何もない。

しかし、このような主義の人が交通事故などで意識不明のとき、輸血されたらどうなるのだろ。意識が戻ったとき、この人は医者を恨むのだろうか。直ちに、今入れた血液を私の身体から抜いてくれと医者に頼むのだろうか。そのとき、抜くのは輸血した血に限り、私の身体に元からあった血は一滴も抜いてはならないと、どこかの商人のようなことを言うのだろうか。

「脳死を人の死」と認めるか否か、これは科学では決められない。世の中の「空気」で決めるか、その人の哲学、もしくは宗教の問題になる。いや、従来の死の判定に使われていた三兆候説、つまり、心臓が止まり、自発的な呼吸がなくなり、瞳が拡散するといったことが揃ったとき、その人は死んでいると判定されたが、これにしたところで同じことである。

いつの時代でも、「死人に口なし」であって、その人が死んでいるかどうかを当人が判定がすることはできない。死は自分で宣言もできないし、他人とて同じでことである。死んだ経験のないもの同士が集まって判定を下すのだから、どう転んでも話はすっきりとは片づかない。

だれかがふらりと病院を訪れ、「私はすでに死んでいますから、私の心臓を誰々さんに移植してあげてください」と言ってきても、医者は困るだろう。一人の医者なら困るだろうが、会議を開いて数名で協議し、計器の針が一定の数値以下を指し示せば死んだことにしても文句が出ない。赤信号も、みんなで渡れば恐くないのだろうか。

昨年の暮れ(98年12月)、大阪で「人体の不思議展2」というのを見た。

展示してあったものは、人体の各臓器や、等身大の「本物の」サンプルである。模型ではなく、すべて本当の臓器であり、本物の「人」である。ドイツの科学者が開発した特殊な技術で加工をして、腐敗もせず、匂いもしないしない状態で人の身体が保存できるようになっていた。展示品はケースに入っているものもあるが、むき出しの状態で置かれているものも数多くあった。

事前に、この展示物はプラスチック等で作られたものではなく、すべて本物であると聞いていたので、もっと生々しいかと思っていたが、実際に会場で見るとそうでもなかった。「展示品には触れないでください」と書いてあったが、触ろうと思えば触れるような展示の仕方であった。そのため、係員の目を盗んで、こっそり触っている人がそこら中にいた。私と一緒に行った女性は、開かれている胃や腸に触り、「ミノみたいな感触」と言っていた。焼き肉の「ミノ」である。女は恐ろしい。

「脳の死イコール人の死」と認めることの難しさは、この展示されている「人」を見るだけでわかる。ここに展示されている臓器を提供した人や、全身のサンプルとして立っている「人」は、つい最近まで実際に生きて生活していた人である。普通、私たちは、生き物が死ぬという現象を納得するのは、そのまま放置すると腐敗し始め、やがてただの炭素や水素、酸素、カルシウム、リン等からできているほんのわずかなモノになることを知っているからだろう。その変わり果てた姿を見たとき、モノとしての身体はなくなったと納得することはあまり抵抗がない。脳が機能しなくなっても、身体の各部位は腐らずそのままである。そして心臓も動いている。これは今までの「死体」の概念からはほど遠い。動いている心臓を取り出すのは、どう考えても恐ろしい。、

昔の人は、肉体の死は納得しても、それがその生き物のすべての終わりであるとは考えなかった。「魂」、もしくは「エネルギー」と言ってもよいが、ある生き物を動かしていたエネルギーは消えることはないと直観していた。ところが、最近は、「魂」やわけのわからないことは宗教の分野にまかせて、肉体の終わりをその人の終わり、つまり「死」と定義している。

今、私は、比喩としてではなく、実感として感じていることであるが、人間を動かしているエネルギーも、隣にいる犬のエネルギーも、窓から見える桜の花のエネルギーも、まったく同じであると思っている。いつだって交換可能だと思っている。

あるエネルギーがたまたま人の体に入り込むか、犬の体に入り込むか、桜の木に入り込むか、それだけのことであると思っている。そのエネルギーが蓄えられていた容器が壊れたとき、エネルギーはいったん空中に溶け込み、全体と一緒になる。しばらくして、また適当な生き物が見つかれば、そこに飛び移るのだと確信している。誤解のないように言っておくが、いわゆる「輪廻転生」を信じているわけではない。特定の霊魂がそのまま残り、誰かに乗り移るなどとは全然思っていない。そのようなことではなく、大きな海の中に、一滴の水滴をたらしたようなものだと思っている。大海に落ちた一滴の水は、たちまち全体とひとつなり溶けあう。いつまでも一滴の水として存在しているわけではない。これが私の魂、もしくはエネルギーに対して抱いているイメージである。

死の判定や、死についての議論が厄介なのは、自分自身は勿論のこと、実際はだれも経験していなこと、誰も知らないことについてあれこれと論じなければならないためである。

今後、臓器移植はごく普通の医療行為になってくるに違いない。そうなると、人はいやでも「死の定義」をどうするか考えなくてはならないだろう。心臓の代わりくらい、いつでも見つかるようになれば、「心臓停止」を死の判定とはできなくなるのだろう。心臓が止まった程度で、勝手に葬式を出したら、そのうち逮捕される時代が来るかも知れない。脳にしたって同じことだろう。将来、脳がすっかり他人の脳か、人工の脳と置き換えられる時代が来たとき、今度は何を使って「死の判定」をするつもりなのだろう。

永遠に死ねなくなったとき、人は一瞬の生命こそ憧れるのだろうか。


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