ROUND TABLE

嵐のあとさき

空前絶後のマジックブームを通り過ぎて

2009/01/03


 

 2000年頃から徐々に始まったマジックブームは、狂ったように一気に駆け上がり、2003年から2004年にピークを迎えました。これが1年半ほど続いたあと、2006年になってやっと以前の状態に戻ったようです。

 私がマジックに興味を持ったのは1960年代のはじめです。約50年間マジックやその周辺を見てきました。これまで何度かブームといってよい時期があったと思いますが、今回のブームはこれまでとは桁違いです。量的にも質的にも経験したことのないものです。HPにも何度か書いたことですが、私は以前からマジックという芸は日陰にひっそりと咲いてこそ、その魅力を十分に発揮できる繊細な芸だと思っています。白日の下に晒されればたちまち色あせてしまいます。インターネットは産業革命以来の大変革を経済にもたらしていますが、文化や趣味の世界まで激変させています。

 今回のブームは心底うんざりしていたのですが、ある意味貴重な経験でもありました。まだ記憶が残っている間に、あのブームがどのようなものであったのか、記録として残しておきたいと思います。

 まず最初に、ざっと過去のブームを振り返っておきます。

  思い起こしてみると、1960年代から70年代半ばくらいまで、ゆるやかなマジックブームであったと言ってもよいのではないでしょうか。
 
 1959年、皇太子のご成婚をテレビで見たいため、一般家庭にテレビが飛躍的に普及しました。その数年後にはテレビでマジックの番組も週に1回くらいの割合で放映されていました。当時のことですからすべて生放送です。柳沢よしたね氏などが講師役で、簡単なマジックの解説をしていました。この頃、石田天海師や高木重朗氏もたまに出演されていたと思います。

  この番組でマジックに興味を持った人が次に出会ったのはデパートのマジックコーナーです。この頃、大都市のデパートにはたいていマジックコーナーがあり、常駐の販売員がいました。大阪の場合、キタとミナミにそれぞれ二つずつあり、神戸も三宮、元町、神戸の各駅にある大手デパートにはそれぞれマジックコーナーがありました。京都の高島屋にもあったと思いますが、時期的にはこれより少し後であったかも知れません。名古屋も栄に二つ、JR名古屋駅前にあるデパートにもひとつありました。東京に関しては詳しくは知らないのですが、デパートの数に比例して、大阪や名古屋の2,3倍はあったと思います。

 またこの頃、繁華街にはナイトクラブも数多くありました。父の話によると、そのような場所にはマジシャンが数多く出演していたそうです。イタリア映画『ヨーロッパの夜』でチャニング・ポロックが「鳩出し」を演じている場面が紹介され、これが世界中に「鳩出し」の大ブームを巻き起こしていました。プロもアマも、ステージマジックと言えば「鳩出し」が中心のネタになっていました。いくら鳩を出したところで、誰もがチャニング・ポロックになれるはずもないのに、鳩さえ出していれば気分はポロック、だったのでしょう。実際、一時期は、鳩さえ出せば仕事があるというくらい、マジシャンにとってはありがたい時期であったようです。しかしナイトクラブの衰退とともに、ポロックの物まねマジシャンは一斉に消滅しました。ナイトクラブが消えたあともプロマジシャンとして生き残った人は1割もいないと思います。

 この頃、プロマジシャンとしては引田天功氏(初代)が脚光を浴びていました。引田天功氏がうまかったのは、機(き)を見るに敏(びん)、つまりテレビというメディアをうまく利用したことです。テレビ局と組み、「脱出物」とよばれる分野を作り上げことです。そのため、たまにステージマジックを演じても、全国的な知名度から、他のマジシャンとは2桁くらいギャラが違っていたそうです。

 脱出物は10年ほど続いたと思いますが、これも観客はより刺激的なものを要求することと、どうせ無事、脱出してくるのだろうという意外性のなさから、視聴率も取れなくなりました。1970年に開催された大阪万博では引田天功氏が自動車を浮かせるといった大がかりなマジックを演じていました。この頃がピークであったかも知れません。その後、「催眠術」を全面に押し出した番組を作り始めましたが、これもカメラトリックや、さくらを使っていることは素人目にもわかるようになり、急激に視聴率は落ち込んで行きました。

 雑誌では季刊誌の『奇術研究』が唯一、一般の書店でも購入できる専門誌でした。
 アマチュア・マジシャンの数も増え、全国各地にマジッククラブが増えていった時期です。ちょっとした市町村には、公民館活動等を利用したクラブも数多くありました。

 その後1974年にユリ・ゲラーのスプーン曲げが日本中にセンセーションを巻き起こしました。その真偽をめぐって、テレビや雑誌で数多く取りあげられましたが、当時はまだメンタルマジックという分野がマジシャンの間でもあまり知られていなかったことに加えて、ユリ・ゲラーが見せたタイプのメタル・ベンディングは初めて見る現象であったこともあり、マジシャンでもだまされていた人が数多くいました。しかしこれがマジックの流行と直接結びつくことはなかったと思います。

 この後、1989年にMr.マリックの超魔術ブームが起きるまでの十数年間が一番静かな時期であったかも知れません。私にとってはマジックの洋書を読みあさった時期です。年に4回出る『奇術研究』もちょうどよい間隔でした。

 1989年、Mr.マリックが日本テレビ系「木曜スペシャル」に「超魔術」をひっさげて、突然現れ、一大ブームを巻き起こしました。最初は超能力ともマジックとも言わず、そのあたりをぼかしていましたが、視聴者にもマジックだとわかると、逆にメンタルマジックの大ブームがわき起こりました。マジックショップでも、Mr.マリックがテレビで演じたネタは次の日にはショーケースから消えてしまうくらい、よく売れたそうです。当時、Mr.マリックのテレビ番組を見て、マジックを始めた人はかなりの数になったはずです。

 この頃、新しいメディアとして「パソコン通信」が始まりました。大手ではPC-VAN、ASCII-NET、NIFTYが始まりました。「パソコン通信」というのは音も画像もない、文字だけのインターネットのようなものです。今もある「掲示板」を利用した情報交換です。この後、90年代後半からインターネットが爆発的に普及するのですが、89年当時はまだ今のようなインターネットは普及しておらず、一部の人達がパソコン通信を始めたばかりであったため、Mr.マリックのマジックが契機になってマジックを始めた人達もネタの入手などはまだ容易ではなかったと思います。現在40歳前後のマジシャンは大なり小なり、Mr.マリックの影響を受けていると思います。

 2000年頃から始まった今回のブームは、それまでと大きく異なる一因がありました。言うまでもなく、インターネットの普及です。マジックを取り巻く敷居がいっぺんに低くなったことが最大の要因です。それまではマジックを始めたいと思っても、情報が限られていたため、具体的にどうやって始めたらよいのかわからなかったと思います。それがインターネットの普及で、検索するだけでマジックのさまざまな情報やタネまで簡単に入手できるようになりました。YouTubeをはじめとする動画サイトや個人のサイトでも画像や動画が公開されているため、以前よりも格段に情報が入手しやすくなりました。通販を利用すればどんな地方に住んでいても簡単にタネでも本でも手に入ります。メールとクレジットカードの普及も、海外からの購入を容易なものにしてくれました。

 また前田知洋氏やふじいあきら氏のようなクロースアップマジックのトップパフォーマーがテレビでクロースアップマジックを見せてくれたことも拍車をかけました。それまでテレビのマジック番組といえばMr.マリックの超魔術を別にすれば大半がステージマジックです。ステージマジックとなると道具も大げさになり、いくらタネがわかったところで自分でやってみようと思う人は多くありません。しかしクロースアップマジックはトランプ一組であのような不思議なことができ、しかもそのやり方までわかるのなら自分もやってみようと思う人が増えるのもうなずけます。この頃、大学の奇術クラブも新入生が大幅に増えたと思います。

 今回のマジックブームは2000年ごろからその兆しはあったものの、ピークは2003年から2004年の2年間くらいです。これはそれまで何度かあったブームとはとにかく桁違いでした。テレビ番組の数で言えば、以前は盆と正月に特番があり、全部あわせても年間数本程度でした。それが2004年頃は、ふじいあきら氏の顔を同じ日に数度見かけたり、早朝の子供向きの番組から朝や昼のワイドショー、夜の特番、深夜2時頃やっているローカルな深夜番組にまでいろいろなマジシャンが出演していました。地域差はあると思いますが、大阪ではマジシャンの顔をテレビで見ない日はないという状態が1年ほど続いたのではないでしょうか。1年間で、マジシャンが出ている番組だけでも千本くらいあったかも知れません。数本が一挙に千本ですから、数百倍です。いくら何でもこれは異常です。Mr.マリック、ふじいあきら、前田知洋、セロといった方々に加え、それまでマジック関係者以外は知らないようなマジシャンまで数多く出演していました。さすがにこんなペースがいつまでも続くはずもなく、視聴率命のテレビ局は視聴者に飽きられてきたことを察知したのでしょう。この狂ったような状態は2005年頃から急に収束し始め、2006年にはほぼ昔と同じくらいまで減りました。現に、2008年の暮れから正月にかけての年末年始はマジックの特番らしいものはほとんど見かけません。
 まずはめでたしめでたしと思いながら、2009年の正月を迎えた次第です。

 ブームの時期は、テレビだけでなく大手書店にも異変が起きていました。大阪では梅田近辺にジュンク堂、旭屋、紀伊國屋といった大型書店があります。どこの店も、当時はマジック関係の書架がそれまでの2倍から3倍のスペースになっていました。ジュンク堂ではマジックの本と並んで、ビデオだけでも100本近く置いてありました。この状態も、いまでは元に戻っています。

 以前からマジックの本を数多く出していた東京堂出版にも変化がありました。この頃、それまでとは比較にならないペースで、ハードカバーの本が出ていました。
 アマゾンでざっと確認してみると、1990年ごろから2000年までは松田道弘氏の本を中心に、年間1冊から3冊のペースで出ていました。それが2001年には新しい筆者も加わり、一挙に6冊になり、2002年、2003年が5冊、2004年が3冊、2005年には8冊、2006年に10冊、2007年6冊、2008年が6冊と、2000年を境に2倍から3倍になっています。ピークは2005年、2006年になっています。テレビ番組のピークと1,2年のずれがあるのは、本を書くためには1年くらい掛かりますのでタイムラグが生じているのでしょう。今のは東京堂出版のものに限りましたが、他の出版社から出ている本や雑誌なども、ほぼこれに準じているはずです。また松田道弘氏の著作物も絶版になっている本が復刻されたり、オークションで驚くような高値をつけていました。とにかく何もかもが、それまで考えられなかったようなことが起きていました。

 私自身のことに関して言うと、このブームが本格的に始まった2003年頃から、仕事が猛烈に忙しくなりました。実際、2003年から2008年の終わりまで約6年間、日曜日が完全オフになったことは一度もありません。そのため、他の曜日にもしわ寄せがあり、ホームページを更新する時間がほとんど取れなくなりました。またそのころにはマジックについてどうしても書いておきたいと思っていたことはおおかたHPに書いていましたので、モチベーションが下がっていたことも事実です。かてて加えて、毎日、テレビでマジシャンの顔を見せられ閉口していたこともあり、余計にモチベーションが下がっていました。このため、意識的にテレビのマジック番組はほとんど見ないようにしていました。テレビだけでなく、海外で発売されるDVDなどもほとんど見ていません。

 私は古今東西、最も好きなマジシャンはフレッド・カップスです。このフレッド・カップスが元気で、毎年日本に来てくれるような状況であったとしても、おそらく5年に1回くらいしか見に行かないと思います。どんなにすばらしいものでも、しょっちゅう見ていたら感激は薄れます。ふじいあきらさんや前田知洋さんは今の日本で私が最も好きなマジシャンですが、それでも年間数回から数十回もテレビで見られるのなら、自主的に制限します。Mr.マリックやセロ氏、Dr.レオンも好きですが、やはり食傷気味です。まあいずれにしても、この2,3年でテレビでのマジック番組が激減してくれてホッとしているところです。

 あと、この時期目立って増えたのがマジシャンになりたいという相談のメールです。 それも高校生くらいの若い人から何通ももらいました。

 これまでプロのマジシャンを目指す場合、誰かの弟子になり、付き人のようなことを数年間しながら独り立ちをするというのが一般的でした。しかしクロースアップマジックのプロになる場合、そのような面倒な手続きも不要です。ふじいあきら氏や前田知洋氏が出てくるまで、純粋にクロースアップマジックだけを見せて食べていけるプロなどいなかったため、このような問い合わせもほとんどなかったのですが、クロースアップでも食べていけること、そしてマジックを習得するのもDVDやインターネットからの情報で、クロースアップマジックのプロになれると思う人が増えたのでしょう。しかし現実はそう甘くありません。クロースアップのプロと言っても、ごく一部の人を除いて、大半はバーなどでバーテンダーをしながらマジックを見せています。マジシャンがバーテンダーをしているのか、バーテンダーがマジックを見せているのか、まあどっちでもよいのですが、とにかく、クロースアップマジシャンとして、純粋にマジックだけを見せて食べてゆくことはまず無理だと思って間違いありません。私がもらったメールには、ほぼ100%、「やめた方がいい」という主旨の返事を出しておきました。それでもやりたいというのなら、その人の自由ですが、まず無理だと思っていますので、私にこのようなアドバイスを求めてもあまり力にはなれないことを知っておいてください。

 またバーテンダーや、レストランでのテーブルホッピングも決して簡単ではありません。ブームの頃、マジックを見せるバーやレストランが数多くできたようですが、今ではその大半がすでになくなっています。当時はテレビでやっているようなマジックができれば店もマジックができるバイトのお兄さんとして雇っていたのでしょうが、その程度のマジックで集客力が増えるほど、甘くはありません。東京や大阪、地方にも10年、20年と続いているマジックを見せるバーなどはありますが、長く続いている店はやはりそれなりに努力しています。素人マジシャンが、ちょっとマジックができるからといって、店が続けられるほど水商売は甘くありません。

 その他の事象としては、ネット上のマジックショップとマジック関係のサイトが増えたこともありますが、こちらはこの数年、ほとんど見ていないため、よく知りません。

 私自身は今回のブームを、台風が通り過ぎてくれる思いで、じっとしていました。それでもわかったことは、人間というのは、「刺激がすぐに刺激でなくなってしまう生き物」だということです。また、「雲がないなら太陽を楽しむことはできない。 If there were no clouds, we should not enjoy the sun.」ということわざも実感しました。情報のシャワーの中で生きてゆくには、それを遮ってくれるものを自分で見つけるしかないのかも知れません。

魔法都市の住人 マジェイア


INDEXindexへ 魔法都市入り口魔法都市入口へ
k-miwa@nisiq.net:Send Mail