★発言者不明<其の一>
芸に下手も上手もなかりけり、行く先々の水に合わねば。
出典は不明です。おそらく昔から芸の世界に伝わっている言葉なのでしょう。
芸はいつどこでやっても、同じように観客に受けるとは限りません。場所や観客によって、いつもは受けている自分の芸が、あるとき全然受けないということがよくあります。
クロースアップマジックを見せる会などがあるとき、大きな部屋の4隅にテーブルを置き、各テーブルを複数のマジシャンが順にまわりながら見せていく形式があります。それぞれのテーブルには観客が20名前後座っており、ひとりのマジシャンの持ち時間は15分程度です。
同じマジシャンは各テーブルで同じマジックを見せるの原則ですが、不思議なことに、あるテーブルでは受けたマジックが、別のテーブルでは全然受けないということすらあります。ついさっき受けたマジックが、こちらのテーブルでは受けないのです。これはある意味、ショックです。
マジシャンはさっきと同じようにやっているのに、なぜこのような差が出てくるのでしょう。
これはひとえに、観客の違いです。たとえば、トランプを一枚取ってもらって、覚えてもらうというような動作だけでも、手伝ってもらった観客によっては顔の表情一つ変えず、ムスッとしたままで、この人は一体なんのためにここにいるのだろうという感じの観客もいます。このような観客に手伝ってもらったら最悪です。助手として手伝ってもらう人は、ある程度、愛想のよい人、マジシャンに対して好意的な人でないまずいでしょう。これは経験である程度わかるようになってきます。視線を合わせるだけで、自ずとわかってきます。
つまり、芸というのは芸人の側だけでは成り立ちません。観客がある程度、その芸人を受け入れる態勢、心づもりができていないとダメなのです。
昭和40年代の後半、関西では落語家の笑福亭仁鶴が絶大な人気を博していました。 吉本の本拠地である梅田花月など、仁鶴を見るために、日曜など入り切れないくらい超満員になっていました。仁鶴が出てきたら、いえ、実際には出てくる前から、観客はもう笑い転げているのです。出てきて何か一言喋るだけで、2,000名ほど入っている劇場全体が揺れるほど笑ってました。何もおかしなことなど喋っていないのに、観客はまるで催眠術にでもかかっているかのように、仁鶴の一挙手一投足に反応して、笑い死にするのではないかと思えるほど、笑いころげていました。東京では林家三平が同じような状況でした。
この二人の場合は、ある程度全国区に近い人気を持っていましたが、それでも地方に行けば、東京や大阪で受けるほどは受けなかったはずです。それは、「パブロフの犬」がベルの音を聞いただけで涎(よだれ)を出したように、地方の人には、この二人の顔を見ただけで、笑う準備ができてしまうほどの条件反射にまでなっていなかったからです。
他の芸人ではもっとそれが顕著であったはずです。東京である程度人気のある落語家や漫才師が大阪に来て、しばらく劇場に出ても、観客はシラーとした雰囲気のままであったことがよくあります。
ある芸人がうけるかどうかは、観客の側にもそれなりの心づもりが必要なのですが、優秀な芸人は、観客のレベルを的確に見抜き、それに合わせられる人といってもよいかもしれません。ここが名人と、並の芸人の差になるのでしょう。
日本におけるパントマイムの先駆者であったヨネヤマママコは、アメリカと日本でマイムを教えたり、公演したりしていましたが、あるとき疲れ果てて、「砂漠にコスモスは咲かない」と嘆いていました。この言葉自体は、芸に対する無理解というより、日常生活の中で、ちょっとしたことでのアメリカ人と日本人の差でイライラしたことから出た嘆きなのですが、広く解釈すれば同じような意味に取れなくもないでしょう。「水の合わない場所」では、芸は成立しないということです。
これは、「芸人」と「芸術家」の違いなのかもしれません。自分の芸が観客に合わなかったら、自分を変えて向こうに合わせるのが芸人なら、観客の側に、自分を理解することを要求するのが芸術家と言えるのではないでしょうか。要求するというより、自分を理解してくれる者だけがわかってくれたらよいという一種の達観でしょうか。
あなたは芸人を目指すのでしょうか、それとも芸術家をめざしているのでしょうか。 これはどちらがよいとか、どちらが上とかいうものではありません。ただ好みの問題です。
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