<2005.05.24 K.Kotani>ノルシュテイン氏のキツーい一言


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2005年05月24日

ノルシュテイン氏のキツーい一言



 5月14日にNHKのETV特集で「ロシアアニメの巨匠 ノルシュテインの世界」が放送されました。この中で新作・外套制作の風景や日本の各地を訪ねるノルシュテイン氏の姿なども放送されましたが、毎年開催されているラピュタアニメーションフェスティバルのコンペにおけるノルシュテイン氏の若手作家に対する発言が興味 深いものがありました。それなりの水準の作品揃いなのですが、「アイウエオの段階で作品になっていません。」「この作品には結末がありません」など、辛口の批評の連続。また作品のディテールの表現の問題についても、要は、「ただ動いているだけで表現になっていない」という意味の発言がありました。自分の体験から生み出された表現ではなく、おそらくは「ここはこう動かす」と学んだままの動きで表現したり、他の作品の動きをそのままなぞって使っただけの動きであったりする事への指摘と思われます。また、「タイタニックなんか見るな。チャップリンの「街の灯」に自分は大きく学んだ」「すぐ近くで「ピカソ展」をやっているのに誰も見に行かないというのはどう言う事か」などとエスカレート。
 「表現」とは自分の内部に蓄積されたものが消化されて表現されるものになり、個人の持つ表現手段によって表現されるものとすれば、自分の体験として「蓄積」されていないものを、他から借りてくる事により「作品」を作って発表してしまう事は「表現」ではないでしよう。
 しかしながら、特に若い方の場合、よほどの天才でない限り「形」の模倣、手法の模倣から始まり、さまざまな作品制作を積み上げ、作品発表を重ねて批評・批判を受けていく中で自分の表現すべきものに到達していくわけで、最初から「表現」というものを理解して作品制作をしているわけではないと思われます。
 アニメーションの初心者の方にしても、他のジャンルである程度の創作活動を行い、表現についての自分の立場をもっている方がアニメーションの手法を学ばれる場合と、漫画読むだけ、アニメ見るだけの人がいきなりアニメーションの制作を学ばれる場合では、かなりのハンディキャップがあります。アニメーション制作を通じて「表現」を理解しようとする場合、アニメーション教育というものの歴史の短さによってか、他の伝統のあるジャンルに比べて教育方法が確立されておらず(大体今の大学でアニメーションを教えている先生方の多くがきちんとしたアニメーション教育を受けて学んだわけではなく、独学で修得している)、学ぶ個人の努力に負う部分が大きいのです。
 ノルシュテイン氏の指摘はもっともな部分がありますが、指摘を受けた皆さんがそれを理解できるようになった時には、もはやその言葉を必要としないレベルになられているでしょう。

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