<2009.4.16 K.Kotani>何が「コンテンツ」だ 2


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2009年4月16日

何が「コンテンツ」だ 2



 ひょっとして、「モナリザ」も「コンテンツ」なのだろうか?
 「ルーブル美術館は「モナリザ」を始めとする良質のコンテンツをもつ経済資源であり、美術館の入場料のみならず、ルーブルを見に来る多数の観光客が落とす金でパリとフランスは大いに潤っている。我が国も「ルーブル」に対抗する優秀な「コンテンツ」を持つ美術館を持ち、大いに経済発展に貢献すべきだ。」かくて、美術館行政は、経済産業省の管轄となり、各美術館は入場者対前年比120%の伸びを要求されるようになる・・・あげくのはてに「ギャラリーが無料で美術コンテンツを公開しているために、美術館の観客動員は妨害されている。ギャラリーに無料で入場している人が美術館に入場すれば、結果的に美術クリエイターへのペイメントが増大し、美術コンテンツの拡大につながる。」と入場無料のギャラリーに対し課税の強化などの規制が行われる・・・・
 というバカ話がウソではなくなるような今日この頃である。
 以前、芸大の教授をしている方が、「文化庁の方はお役人なので中々話が通じず、大変疲れる。」とシンポジウムで発言されていたが、文化庁でも話が通じないのに、経済産業省相手だとさぞ大変だろう。
 普通のテレビとか洗濯機とかでも当たりはずれはあるものだが、商業芸術ほどひどくはない。大体商業大衆芸術の世界というものは、きちんと環境を整えて、金をつぎ込めば当たる、というものではなく、大監督に人気俳優をそろえて制作した超大作がオオゴケする事もあれば、新人監督の超低コスト作品が大ヒットする事もあるというのは常識だ。また短期的に当たる当たらないという事とは別に、良質の作品が何十年もかけて再公開・再々公開されて制作費を回収する事もある。業界全体をトータルすれば利益は出ているのだろうが、(?!?)平均してすべての作品で投下した資金に見合う利益が出る事などありえない。
 ネットで見ると「一般から金を集めてコンテンツ制作に投資。コンテンツから上がる収益で出資者に配当する。」という事をしている「ジャパン・デジタル・コンテンツ信託」というコンテンツ会社がずーと赤字の連続らしく、要は作ったコンテンツが当たっていないために、配当の原資となる収益が少ないという事らしい。
 ここで言い訳を想像すると、「考えられる最高のクォリティを持ったコンテンツを日本最高級のクリエイターを集めて制作し、理想の環境でマーケットにリリースしたが、結果として、日本のマーケット、観客がまだ未成熟であり、先鋭的なコンテンツが受け入れられる環境を整える事が必要である事を痛感した。」(平たく言うと、「いやー、こんなつもりやなかったが。コケましたわ。エヘヘ。」)これですめばよいのだが、場は現実の民間ビジネス現場だし。
 この「ジャパン・デジタル・コンテンツ」スタート当初は映画関係者から冷たく見られたようだが・・・
 いっそJRA方式で、「勝ち映画投票券」を購入してもらう方式はどうだろう。製作会社からの企画書を並べ、投資家は一票1000円で「勝ち映画投票券」を購入。投資額が所定の制作費に達した段階で、その作品は投票締め切り・製作スタート。投資家は一票につき一枚の入場券と、配収の頭割りの配当がもらえる。胴元は一定のテラ銭をとるので赤字にはならない。映画がコケたら投資家には入場券だけ。一定期間に投票の集まらない映画は製作中止、投票券は手数料差し引いて返金。これだと会社は赤字にならないし、たぶん賭博にもならんだろう・・・(?!)
 なんか前にあったような気がするが、記憶が定かではない。
 閑話休題。
 「アート」というものは「変化」するものであっても、「進歩」するものではない。映画は白黒からカラー、サイレントからトーキーへ、技術的には「進歩」したが、表現的には「変化」であって、「進歩」ではない。白黒映画の名作は今でも「名作」であって鑑賞にたえる。写真が開発されても油絵は滅びないし,ワープロが開発されても書道は滅びない。
 一方、「ビジネス」の世界では、技術の進歩は旧製品を駆逐する。32ビットパソコンは16ビットパソコンを駆逐し、16ビットパソコンは8ビットパソコンを駆逐した。もはや元に戻る事はなく、8ビットパソコンはメーカーの展示室に「昔の我が社の製品」として展示される他、ゴミとして処分されるだけである。(Z80が現役CPUというのは別の話として・・)
 しかし、「モナリザ」は「昔はこんな形で肖像は作っていました。いまはデジカメで簡単ですね。昔の人は大変でしたね。」という事で昔の技術を象徴する見本として展示されているのではなく、「美術品」として現役でガンバッているのである。
 確かに「モナリザ」の時代に映画はなく、もし映画があったらダヴィンチは別の形で才能を発揮したかもしれないが、出来上がった映画は凡作かもしれない。(よくある事ですよね。)
 まじめに「表現」に挑んでいる人にとっては、作品を「コンテンツ」呼ばわりされてはたまったもんではないと思う。ましてやどう見ても不勉強な人に、「あなたのコンテンツはインターナショナルなマーケットでのナントカポシビリティが不足しているので、適切なアドバイスをりーずなぶるなムニャムニャデなんとかかんとか・・・」と言われたのではたまったもんではない。コンテンツとやらにコテンコテンである。「表現」を志す人はコンテンツビジネスの類いは相手にせん方がよいのではないか?
 

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