2020.12.20 K.Kotani>
PAFについて考える最近、「昔開催された「PAF」について論文を書きたいので、資料があったら見せてほしい」という要望をとある方からいただき、当時のパンフや関連資料等をまとめてコビーしてお渡しした。その作業の中で資料を見るうち、改めて昔のPAFの事についていろいろと考えました。 最近の若い方には「PAF」と言っても、「それは何か?」という方も多いかと思います。PAFは1975年から84年まで10年に渡って開催された自主アニメ上映会です。1985年には広島フェスが始まりました。それから35年です。「生まれた時から広島フェスをやっている」という方にとっては、PAFは生まれた時にはもう過去のものであったわけです。 PAFとは、「プライベート・アニメーション・フェスティバル」和名「自主アニメ祭」です。当初、東京・静岡・名古屋・大阪の4都市のアニメサークルが共催し、自主制作のアニメーション作品を集めて上映しました。原則無審査・応募された全作品を上映する、アンデパンダン方式の上映会でした。上映地は上記4都市の他、時期にもよりますが、京都・神戸・沖縄・北九州・仙台・岡山・北海道でも上映されました。全て8mm・16mmフィルムによる上映でした。特に「フィルム」にこだわったわけではなく、当時はまだビデオでアニメーションを製作する環境がなく、必然的にフィルム上映となったわけです。8mmや16mmはビデオのように簡単に複製が出来ず、唯一のオリジナルフィルムが全国を回って上映されました。一作品は2-3分程度のものが多く、複数作品をつなぎあわせて大きめのリールに巻き、数本のリールにして、サークルの間を最初は「手渡し」で受け渡して輸送されました。「事故があってはならない」という事です。ただし、後には、郵送・宅配便で送られる事もあったようです。 70年代に「海のトリトン」や「宇宙戦艦ヤマト」がTV放映されて以来、「アニメブーム」というものが当時の中高生を中心に起こったわけですが、このPAFを主催した4都市のサークルは、アニメブーム以前、まだ日本に「アニメファン」というものがほんの一握りしかいなかったころから活動している古強者たちでした。古強者といってももちろん年寄りではなく、当時は「アニメ好きの若者達」の集まりでした。PAF以外にも、珍しい海外のアニメーションや、日本の名作アニメの上映を各地で行っていました。 そしてその頃は、主催サークル達の中で「自主制作をやろう」というムーブメントがあり、実際に多くの作品が作られました。「それでは、それを上映しようではないか」という事で、第一回のPAFは開催されたようです。その第一回のPAFは思いの他好評で、引き続いて毎年開催される事になった様です。(第一回PAFの東京入場者なんと400人、大阪250人!)しかしそれまでの蓄積を放出した第一回に比べて、その後の1年間に製作された作品を上映した第二回は規模が小さくなりました。しかし、4年目のPAF4より、主催サークル以外の一般公募作品が急激に増え始めました。 この頃、東京・名古屋・大阪で日本アニメーション協会主催のアニメーションワークショップが開催され、大阪では相原信洋氏を講師に招いた「実践アニメ塾」が開催されました。また、相原氏は各地で自作作品上映会を開いては「君たちも作りなさい」と若者達に激を飛ばしていました。また、1972年頃にはじまったアニメブームの頃に中高生だった世代が、続々と大学生になりかけていた時代でもありました。 これらの自主講座の受講生が集まって作った「グループえびせん」や「アニメ塾」のメンバー達を始め、多くの若者達が自主アニメを作り始めたようです。翌年のPAF5の上映作品には、多くの公募作品が並びました。庵野秀明氏がこのPAF5で「グループえびせん」の作品を観て、「こういう事もできるのか」と、仲間を集めてアニメ作りを始め、翌年のPAF6に応募しています。後年、仙台のアニメサークル「OGEL」のメンバーより、「我々は「東のSHADOを目指した」という事を聞いています。 また、この頃は、8mmフィルムの機材が曲がり角にさしかかっており、音声の録音できる同録カメラにメーカーが一斉に生産を切り替え、アニメーション製作に適したサイレントの8mmカメラが在庫処分で安くなったり、中古機材が手頃な価格で手に入りやすくなっていた時期でもあります。 この頃のアニメーションの自主上映は、「何をやっても人が入る」という状態がまだ続いていました。急増するアニメファン、しかし、国産のアニメは、東映長編全盛期すでに遠く、TVアニメだけではファンの欲望を満たせず、「何か面白いアニメはないか」という事で、「アニメの上映会であれば何でも観に行く」という人が結構いました。 こういう若者が、PAFを観る。観客は一杯いる。なにやら滅茶苦茶に盛り上がっている。観ると、8mmの自主制作アニメである。この程度なら、我々でも作れそうだ。行け! と作りだすと、翌年のPAFで上映される。満員の観客の中で喉はカラカラ、冷や汗をかきながら、笑い声が上がったりするともう舞い上がる。これは、実際にPAF3を観てPAF4に「かいぶつ宝島」を出品した本人が言っている事ですから間違いありません。 またPAF5からは、全国各地の上映会のアンケート結果をとりまとめた「アンケート総集編」が作られ、全出品作家と参加サークルに配布されました。(PAF8まで実施)このアンケート総集編は、公募方式の自主アニメ上映会としては初めての試みであり、その後の横浜・札幌での自主アニメ上映会にも引き継がれています。(当時の参加作品の大半は現在では簡単には観る事が出来ませんが、この総集編は当時の上映会の雰囲気を伝える貴重な資料ともなっています。) このプラスのフィードバックがかかり続けた結果、PAF8神戸上映のプログラムによると、上映開始午前10時半、終了午後7時(予定)、PAF9の名古屋上映のチラシによると、「ピンからキリまで6時間」という大量の作品が集まる巨大上映会に成長しました。 最後のPAF10も、おそらく5時間程度の作品が上映されたと思われますが、この大いに盛り上がったPAFも残念ながら1984年のPAF10を最後に終ってしまいました。 1985年のアニドウの会報によると、アンデパンダン方式からコンテスト方式に変更してPAF11を開催する事に決定した、とありますが、結局PAF11は開催される事はなく、PAFの歴史は終りました。 以上が、PAFの概略です。 さて。 いったい何であんなに盛り上がっていたPAFが終ってしまったのか、という事について追求する事がこの文章の目的ではありません。 PAFが自主制作アニメーションの歴史で果たした役割と、PAFが10で終らずずっと続いていたらどうなっていたか、自主制作・個人制作アニメーションの歴史はどう変わったか、という事について多少考えてみたいと思ったのです。 まず、PAFが自主制作アニメーションの歴史で果たした役割、それは絶大なものがあります。主催サークルの方々がどう考えていたかは判りませんが、PAFが無ければあれだけ多くの若者がアニメーション制作の世界に入って来る事はなかった。例えば庵野さんは「紙にサインペンで描くだけでアニメは作れる」とPAFに向けて作品を作りました。その後、「やはりこれではだめだ」とプロでの集団制作の方に進みましたが、ひょっとして、PAFが無ければエヴァは無かったかもしれません。庵野氏だけではなく、PAFの出品者を見ると、後年プロの世界で活躍したアニメーターや監督、また現在大学で教鞭を取っている方がかなりいます。(片渕さんも「えびせん」出身ですね。) またPAFがアンデパンダンで無審査全作品上映であったという事が大きい。TACのチラシに「ピンからキリまで6時間」とあるように、ずいぶん観るのにしんどい作品が山のようにあった事も事実です。当時主催サークルの関係者が、日本アニメーション協会の作家の先生に「PAF観に来て下さい」と頼んだ所、「いいものを観るまでにずいぶん辛抱しなければいけないから」と断られたという話を当時聞きました。しかしながら参加者にとって、「この程度で良いのなら」と、気楽に作って応募できる上映会であった事は確かです。 さて、PAFが、その後もずっと続いていたらどうなったか。 まず、その後、自主制作アニメーションは長い低迷期を迎えようとしていました。8mm機材は次第に枯渇し、とって替わるべき16mmはあまりにも高価、ビデオコマ撮りは実用にほど遠く、90年代後半に、バソコンによるアニメ製作がアマチュアでも入手できる価格で実用化されるまで、低迷期は続きました。アニドウの会報にも「16mm機材貸します」とあり、近メ協でも16mm機材を入手しましたが、PAF全盛期のように中古の8mm機材を気軽に入手してアニメを作る、という環境は失われていました。よって、90年代の末までPAFが続いたとすれば、次第に、相当の覚悟をもって作品を作る少数の作家の上映会に変わって行ったのではないかと思われます。 PAFに替わる自主アニメ上映会としては、1987年から2010年まで続いた横浜動画倶楽部の「大動画上映会」がありましたが、上映は基本横浜一カ所だけでした。また、PAFのように上映時間6時間以上というような上映会でもなく、程よい長さの上映会でした。 もう一つの問題として、音楽等の著作権の問題があります。 まず、音楽著作権の問題です。1985年に広島フェスが始まった時、「えー、勝手に既成の音楽を使った作品だめなのー」と驚いた自主制作アニメ作家は多かったはずです。それまでのアマチュアの自主作品はレコードやCD、テレビなどから録音した既成の音楽を使いまくっていました。オリジナルの音楽を使った作品がはたして一本でもあったのか、記憶にありません。そういう作品を「これは、私の作品です。」と胸を張って公開し、上映して、しばしばお金まで取っていたわけです。 PAF史上最高傑作の一つに数えられる二木真希子さんの「シネ・カリニバル」の音楽も、既成の曲でした。私の「1941のマーチ」も既成の曲。相原信洋さんの作品も、ある時期までは、既成の曲を使っておられました。(当時、「音楽は、自分で歌ってんスよー」と言っておられましたが・・・)PAFと同じ時期に上映会をしていた日本アマチュアアニメーション協会や関西アニメーション協会の上映会でも、既成の音楽にそれに合わせた絵をつけた作品がしばしば堂々と上映されていました。 では、その無断使用が当時なぜ問題にならなかったか。当時は著作権について、現在よりおおらかな気風もあったせいもあるでしょうが、基本的に、現在でも、プロ側は「素人がお遊びでやっている分には、いちいち目くじらを立てない」という事のようです。 「無料上映ならOK」とか、「非営利イベントならOK」とか思ったり、言ったりしている人もいるようですが、無料だろうが非営利だろうが、ダメなものはダメで、著作権者が「ノー」と言えばほとんど全てアウトです。ただし、無料・非営利の方が大目に見てくれる度合いが大きい、という事はあるかもしれません。 数年前に、関西で「劇団ガンダム」という団体があり、ガンダムネタの「ガンダム寸劇」「ガンダム歌謡ショー」「ガンダムお絵描き」「ガンダム体操」「ガンダム講談」などを組み合わせた公演を行っていました。(入場無料) で、劇団ガンダムの主催者がおそるおそるサンライズにお伺いを立てた所、「ファン活動の範囲ならばかまわない」というお墨付きを担当者からいただいたそうです。(東京公演に、富野御大らしき人物が観客席に現れて主催者と握手する、というシーンの映像を公演内で観ました。) 一方、ひっかかったのが、DAICONフィルムの「帰ってきたウルトラマン」。ウルトラマン好きの庵野さんが作った8mmフィルムのファンムービーですが、これがファンムービーの領域を遥かに超えた作品となってしまい(当時、8mmフィルムでの上映を大阪で観ました。)大変な評判になったのでビデオ化して売り出したところ円谷プロに見つかって責任者が呼び出され、なんとか誤摩化して「以後しません」という事で勘弁してもらった、という実話があります。 危なかったのが同じくDAICONフィルムの「SF大会OPアニメ」。これも大変な出来で、「わずか3分の作品を観る為に、入場料1000円を払って観客が集まった。」とプロのクリエイターが驚いた程の出来でした。このビデオは大変な本数が売れ(なんとうちの近所のレンタルビデオ屋にまで置いてあった)たのですが、音楽は当時の自主アニメの習わしに従って、既成の曲でした。こちらは特に怒られる事無く現在に至っておりますが、最近、当時のDAICONフィルムの出て来るTVドラマ「アオイホノオ」の中で上映される、というシーンがありました。ドラマの中では、音声の故障で音が出なかった、という事になっていますが、「あれ、どうしようか」「音がでなかった事にしようか」という事になったのでは。(実際に会場で音が出なかったかどうかは、現場に行っていないので存じません) また、当時「ヤングアニメフェスティバル」という番組がNHK教育で放送され、自主アニメが既成の音楽付きで放送されました。これは、TV側と音楽側の間で、「TV側全体でまとめて使用量を払うかわりに音楽側は音楽の使用を認める」という取り決めがあるため、TV放送に限って使用できる、という事であると思われます。(ただし、TV番組をDVDなどにして販売する場合は、また別の著作権処理が必要になります。) では、当時の作家たちは、どうやってこの問題をクリアーしていったのか。私の「鯨おいしいね」は1989年の作品ですが、最初全国総会で上映した時は、8mm版でまだ既成の音楽を使っていました。16mm化して広島に出品するに当たっては、自分で適当にタイミングを合わせてキーボードをたたいて作った音を当てました。他にも、8mmで既成の音楽を使った作品を16mm化した作品で、曲自体はクラシックで使える為、知り合いかプロに依頼して、同じ長さで演奏した同じ曲に当て直したものと思われる作品を観た事があります。 こういう風に、「広島フェスに出せる」ように音楽著作権をクリアーする方向で作品を作って行く作家もいましたが、一方、そういう事にはこだわらず、自由で気楽に作品制作を続けて行く作家達もいました。横浜の大動画上映会や、札幌の小アニメーション大感激祭など、PAFと同じような公募作品上映会には、従来と同じような作品が出品され、上映されていました。 1988年に始まったDogaのCGアニメコンテストでは、当初より入選作のビデオを販売していた事もあり、著作権には一定の配慮がされていました。音楽著作権の許諾の取り方によっては、スクリーンでは音付きで上映され、ビデオに収録する際は音をカットするなど、細やかな気の使い方がされていました。さらに2010年代のPEASの上映会では、最初から「音楽著作権をクリアーしていない作品は上映出来ません。」と要項に断っていました。 このように、「自由に、気楽に」勝手気ままに作る派と、「少々不自由でも」きちんと著作権を守る派は、現在でも両方存在します。 しかしながら、「これは私の作品だ」と作家としての権利を主張し、あらゆる場所で自由に作品を発表するためには、少々不自由でも、きちんと著作権法を守らなければならない事は確かです。 PAFが終った時の状況をもう一度確認しましょう。FILM1/18に掲載されたPAF11開催のお知らせでは、16mm化の推進と、コンテスト化の決定が述べられています。「くわしい内容は追ってお知らせ」とありますが、結局発表されておらず、音楽著作権については判りません。 音楽著作権についてどうしようとしていたかは判りませんが、その後も続いた他の公募上映会と同じように、従来とおり、特に制約せず応募を認めていたような気がします。これはコンテスト化とおなじく重大な変更ですから、変えたなら変えたで、コンテスト化と一緒に掲載したでしょうから、その点では、従来通りのPAFが残ったという事になったのではないでしょうか。 この最後のPAFのお知らせがアニドウの会報に載ったのが1985年6月。そして7月には、PAF11の中止が判明しました。翌8月には第一回広島フェスが開催されています。 コンテスト化についても、従来通り、全作品を上映した上で、その中から入賞作品を決めるのか、広島のコンペの様に、予選を行って作品を絞った上、予選通過作品のみを上映する形なのかは判りません。しかし、当時の共催サークルの様子などから、例えば「コンペティション部門」と「アンデパンダン部門」に分けて、「アンデパンダン部門」の上映については各サークルの判断に任す、という形で結局全作品上映が残ったような気もします。 今にして思えば、あらかじめ予選で絞るのではなく、全作品を上映した上で、「これは」という優秀な作品の作者には声をかけ、ペーパーアニメは16mmで再撮影したり、立体の作者には16mmのカメラを貸したり、技術的支援をしたり、音楽著作権のクリアーについてアドバイスしたりなど、上映後の作家へのサポート活動をしっかり行う、という方法もあったかもしれません。現に近メ協では1985年に8mmフィルムで「きんめまつり公募上映」を行い、優秀作を16mm化して広島に応募、入選・入賞を果たしています。 しかしながら、当時、自主アニメ公募上映会初の試みとして行われた「アンケート総集編の作者への還元」(PAF5から7までは京都アニメーションプラント(KAP)で制作、PAF8はアニドウで制作)も、PAF9・10では既に行われなくなっていました。また、代表サークル・アニドウのもうひとつの看板であったFILM1/24の発行も、1984年の7月を最後に途絶えています。「ああやったら良かったのに」と後で言うのは簡単ですが、やるのは大変であり、こつこつとした地道な活動は手間がかかる割には中々成果が上がりにくいものです。 しかし、年に一回、自主制作アニメを集めて巡回上映をする、という事だけであれば、少なくともあと数年間は実行可能であったでしょう。 そういうPAFが、もし続いていたら、どうなったか。 1985年には、えびせん、SHADO、アニメ80等の常連参加グループはまだ健在であったし、自主制作の低迷期に際しても、多少の活気は続いたことでありましょう。 現実のその後の自主制作アニメの上映会としては、各制作サークル(「アニメ80」「えびせん」「地球クラブ・倶楽部」等)によるグループ上映会がその後も継続して行われてゆくわけですが、「個人」の作品の発表の場というものはほとんどありませんでした。広島のフレームインへの出品や、地域での映像コンテスト・ピアフィルムフェスティバルへ応募して入選するなどの可能性はありましたが、地域・期間限定で、全部の作品が上映されるわけではありません。全作品が、全国区で、全国各地で上映されるPAFが続いておれば、当時は観られなかった個人作品が世に出る機会もあったでしょう。それは惜しい事ではあります。 結局、何も変更せず、上映は従来通りのPAFを継続して行うのが最善の判断だったかも知れません。圧倒的規模と予算と組織的バックアップを持つ広島フェスの前に、多少の模様替えをしてもPAFの規模ではたかが知れています。その上「作り手なんでもやりたい放題の解放区」としてのアンデパンダン上映会の良さをやめてしまったのでは、いいとこ無しです。 もちろん従来通りのやり方であれば、当然「ピンからキリまで」「玉石混淆」の作品上映になるでしょうが、「一部にはいいものもある」とプロの作家も認めていたように、「ピン」「玉」の作品もあるわけです。 実際には、自主制作アニメーション発展に絶大な貢献を果たし、「PAFは何でもあり・どんちゃん騒ぎで楽しかったなぁ」といういい想い出を残し、1984年にPAFは終りました。しかし、その跡を埋めるように、1985年には広島フェス、1988年にはCGアニメコンテスト、1991年には徳島アニメ学校が始まりました。そして、2000年頃には、デジタル制作環境が個人でも手に入るようになり、現在に繋がる個人制作の大盛況につながりました。2005年にはYouTubeが始まり、個人がいつでも自由に世界中に作品を発表できるようになりました。 PAFがもし最初からなかったとすると、自主制作アニメーションの当時のあの盛り上がりはありえませんでした。それは間違いありません。しかし、PAFが10で終らずあと数年続いていたとしても、自主制作アニメーションの趨勢に決定的変化を与え得たとは思えません。結果から見ると、あの時点でPAFの歴史的役割は既に終えかかっていたようです。PAFはあそこで終っていて、よかったのかもしれません。 |
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