2021.10.17 K.Kotani>
自主制作アニメについて考える 1.自主制作アニメとは何か
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月刊近メ像インターネット
2021年10月17日
自主制作アニメについて考える 1.自主制作アニメとは何か
個人でこつこつ作品を作り続けて48年になる。つまり、いわゆる「自主制作アニメ」に関わって48年である。その間、自主制作アニメを観たり、上映したり、自主制作アニメの講座を開いたりする間、多くの自主制作アニメの関係者と関わり合って来た。
その間色々な事も考え続けてきた訳であるが、その色々な事の一つが「自主制作アニメとは何か?」という事だ。「そりゃ、自主制作したアニメが自主制作アニメだ。」という人もあるだろうが、それでは定義になっていない。
ネットで調べると、「個人や集団で制作した商業を目的としないアニメーション作品」とある。しかし、この定義は正しいのだろうか。
例えば、企業や団体でPRのために制作したアニメーションがある。これは商業的に興行で制作費を回収する事が目的ではない。しかし、こういう作品を「自主制作アニメ」と呼ぶのにはすこぶる抵抗を感じる。例えば、マッドハウスで制作した「ファイヤーGメン」、みかけはテレビで放送されているTVアニメとほとんど変わらず、プロの声優がお金をもらって声をあてており、制作スタッフもみんな給料をもらっている。「だから、プロの会社がお金をもらって作っているのだから、その意味では商業的に制作したものだと言えるよ。」とも言える。では、非営利の団体がアマチュアにボランティアで制作を依頼して無償で作ったアニメは、お金が動いていないから自主制作アニメと言えるのか。
また、アニメ製作会社が注文をもらう為に作る見本のアニメ、いわゆるパイロットフィルムは自主制作アニメと言えるのか。どこからもお金は出ておらず、アニメ製作会社が自分の金で自分の作りたいものを作ったアニメである。「だから、注文が取れたらその作品の収益でパイロットフィルムの制作費を回収するのだから、その意味では商業的に制作したものだと言えるよ。」という事か。
では、オープロで制作した「セロ弾きのゴーシュ」は自主制作作品なのか。どこからも注文はもらっておらず、制作費はすべてオープロで出している。「だから、ミニシアターで公開したり、各地で有償の上映会を開いたり、DVD化して販売して制作費を回収しているのだから、大手会社の企画でないだけで、普通の商業作品と変わらないよ。」
昔、PAFなどの自主アニメ上映会で上映されていた8mmフィルムで作られたアニメーション作品は間違いなく自主制作アニメーションである。ここで上映されていた作品の作者はほとんど全てアマチュアだった。「だから、アマチュアが作った作品が自主制作アニメ、プロが作った作品が商業アニメ」というのはどうか。だが、初期のPAFでは相原信洋氏のようなプロのアニメーターが作った作品も上映されていた。もちろん、仕事で作ったTVアニメではなく、仕事とは別に自宅で作業して自分で撮影して自費で現像に出した作品である。
だいぶ、「自主制作アニメ」なるものの姿が見えて来た。「プロ・アマを問わず、他からお金をもらわず、自分のお金で自分の作りたいものを作ったものが自主制作アニメ」という事でどうか。
では、学生アニメはどうか。学生アニメと言っても、「◯◯大アニメ研作品」のように、アニメに関係のない学部の学生が勝手に集まって作ったグループで作ったり、普通の学生がたまたまアニメと関係ない学部に在学中に個人で作った作品は、間違いなく自主制作アニメで良いとおもう。しかし、アニメーション制作を学ぶ学生が授業の中で、進級への課題や卒業制作として作った作品はどうなのか。それは「個人でアニメーションを作りたい」と思って大学に入り、たまたま課題として作品制作が出た時に作りたいものを作った場合は間違いなく自主制作アニメになるだろう。しかし、元々プロの技術者としてアニメーションのプロの現場で働く事が目標で、その技術を学ぶ為に学校に入った学生が、進級・卒業のために義務として作った作品は自主制作アニメと呼んで良いのだろうか。
以前にICAF関連の京都のイベントで、古川タク氏が「いっぱい学生を育てたのに、作家として残っている人はほとんどいない。」という趣旨の話をされていた。しかし、多くの学生はプロになる為の技術を学ぶ為にアニメの学校に入ったのだから、卒業後はプロの現場に入って、プロとしての仕事をするのが普通だろう。プロの現場では作品の全体ではなく一部にかかわる事も多いと思うが、自分の仕事が全体の中でどうなっているのかを知っておく事はプロの現場でも必要だろうから、個人で作品制作の全プロセスにかかわらざるを得ない個人作品をまるまる一本または2本作る事は技術習得の上で意義のある事だと思う。だからと言って、学生全員に「卒業後も仕事とは別に個人の作品も作ってね。」と期待するのはどうだろうか。
やはり、本人が「自分の作品」と意識して作った作品は自主作品だが、「課題で作って出しただけ」の作品は自主作品とは言い難いと思う。その当たりの境界線は難しい所だが。
毎年「花コリ」で上映されている韓国の短編作品群はどうか。韓国ではアニメ作家育成の為に補助金制度が充実させており、日本のように制作費のほんの一部だけではなく、作品制作に専念して生活できるだけの金額が出ているそうである。(最近は少し変わったらしい。韓国も経済成長が著しく、生活水準や物価が上がったために厳しくなっているらしい。)ただし、作品を見る限り「国がお金を出しているのだから、国の作ってほしい作品を作れ。」という事ではないようで、よほどの事が無い限り、作家の自由に作れているようである。
フランスの短編作家の方が来日されたおりに上映会時のトークタイムで制作費の話が出、「企画書を作って国に上げる。企画が通ると制作費がおりて来て作品が制作できる。」と説明されていた。韓国と同じようだが、やや厳しい感じではある。NFBもそういう感じではないか。
日本だと、70年代から80年代にかけて「君たちもバンバン作ってどんどん発表しろ」と日本中の若者にハッパをかけて回った、自主アニメ個人制作の「教祖」故・相原信洋氏、氏の影響を受けて個人制作を始めた人は極めて多く、その後大学や専門学校の教鞭をとる人も多くいて、直弟子・孫弟子・ひ孫弟子など数知れず、私は「日本の個人アニメの半分位は相原さんが作ったのではないか。」と思っている。その相原さんは昼間は動画スタジオでテレビアニメの動画を描いて稼ぎ、夜は自宅で自分の作品の動画を描いていた。筋金入りのアニメーターである。
もう一人、川本喜八郎氏。川本さんの作品群に憧れて人形アニメを志した若者もまた極めて多く、「日本の個人アニメの世界の半分は相原さんが作り、残りの半分を川本さんが作った」と私は考えている。「あれ、川本さんはプロの作家じゃないの?」と言われるかもしれないが、川本さんのあの作品群の膨大な制作費を普通に回収できているとはとても思えず、人形作りその他で稼いだお金をドンドンつぎ込んでいたとしか思えない。
作家がやりたい作品を作ったら「自主アニメ」と言うのであれば、商業アニメの中にも自主アニメ的要素を持った作品はいっぱいある、とも言えるとも思う。そもそも職業としてアニメーションを選んだ段階で、お金を一杯儲ける事よりも、自分のやりたい事を選んだ、と言って差し支えないと思う。だから、「こういう作品を作りたい」と、とんでもない企画書を作って無理矢理通し、やりたいように作った作品は自主制作的要素が大いにあると思う。ただ、「自主アニメみたいだ」と褒めると、作者は逆に憤慨するかもしれないが。
結論的に言うと、「アニメーションのうち、作家が純粋に自分の作りたいものを自分のお金だけで作ったものが自主制作アニメ、お金をもらって他からの注文で作るのが非自主アニメだが、中間的存在も多々あり、境界線は定かではなく、判断する基準は人によって異なる。」というところだろうか。(次回は、「自主制作アニメの「必然性」)