2021.11.21 K.Kotani>
不定期連載・自主制作アニメについて考える 2.自主制作アニメの必然性
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月刊近メ像インターネット
2021年11月23日
不定期連載・自主制作アニメについて考える 2.自主制作アニメの必然性
前回は、「自主制作アニメとはなにか」という、定義について考えてみた。今回は、「そもそも自主制作アニメなどというものを、何故作るのか」という事を考えてみたい。「それは、作りたいから作るんだろう」と言えばそれまでだが、では何故作りたくなるのか。
自主制作アニメを作る、と言っても、1本作ってそのまま後は作らない人、1本作って、2本目に取りかかって2本目の途中でやめてしまう人、ずっと作り続けている人、といろいろな人が居る。そもそも、1本目に取りかかって途中でやめてしまい、結果として1本も作らなかった人もいる。どこが違うのか。
若い方に、「Kotaniさんは、ずっと作品を作り続けられていますが、どうしたらそういう風に作り続けられるのでしょう」と聞かれる事が時々ある。そういう時は、たいてい、「作るのが楽しいから」と応えている。
「作るのが楽しいから作る」というが、「アニメを作るのが楽しい」事を知るには、まず、最初に、アニメを作らなければならない。それでは、最初にアニメを自主制作をするきっかけはなにか。いろいろあるだろうが、私は、アニメーションが好きでよく観ている人の、「このものすごく面白いアニメーションというものを、一度作ってみたい」という知的好奇心が大きいのではないかと考えている。そのための作り方を調べると、昔だと8mmカメラ、トレス台、動画用紙、今ならパソコンやスマホタブレットのアプリなどが必要で、それらを入手していくプロセスも結構楽しい。コマ撮りのテストをしてみると、動画や人形が「動く」。アニメーションだから当たり前だが、最初に自分の作ったものが動いた時には「感動」があるそうである。「そうである」とは何か、お前は最初にアニメを作った事はないのか、と言われそうだが、正直、中学生の頃に最初にコマ撮りした8mmフィルムを映写した時は、「エーッ、こんなものなの」と大いにがっくりしていた事を覚えているのだ。しかし、最近教えているアニメ教室で生徒の最初に描いた動画を撮影して上映してみせると、皆、一様に喜んでいるので、普通は感動がある方が正しいようである。
それで、「なるほど、こういうものなのか。判った。」と満足してしまうと、もう2本目は作らない人もいて不思議ではない。では、2本目を作る人はどういう人か。まず、何か作りたい作品があって、1本目は「腕試し」で作った人。「なるほど、こういう風に作るのか、よし。」といよいよ本来の作品にとりかかる。また、1本目でいろいろとうまくいかない事があり、「今度こそ」ともう一度やってみる人。さらに、1本目を作ってみて意外と楽しく、「もう1回楽しんでみたい」という方。1本目の評判が意外に良く、「次回作はどんなものを作られますか?」などと言われて舞い上がってしまい、「ハイッ、作ります。」と引っ込みの付かなくなった人などである。
ここで、2本目の途中でやめる、あるいは作りかけてやめてしまう人が結構いる。では、なぜやめてしまうのか。
最近はパソコンで製作ができるようになって、アニメ製作もだいぶん楽にはなってきた。楽にはなってきたが、それなりの作品一本作るとなると、今も昔もそれなりに手間・時間・費用はかる。1本作品を作り上げると、それらの手間・時間・費用が大体見えて来る。これを作品制作の「山」と呼ぶ事にする。その目の前に見えている「山」を超えるだけのなにかが無ければ、しんどいから途中で止める、又は、最初から作らない、という事になる。人によっては、1本目の製作中に「山」が見えて来る。「これはえらい手間がかかる。とても完成にこぎ着ける事はできない。」という事だと、製作を途中で断念する事に相成る。しかし、「山」を小さくする、という手もある。昔、自主アニメの最高峰がセルアニメだった時代がある。しかし、動画をセルにトレスしてペイントする、という作業は大変である。(動画だけ描いて力尽き、トレス・ペイントを外注しようとした自主アニメサークルがあった、という話を当時読んだ事がある。)よって、動画用紙に直接彩色して撮影する。あるいは、彩色もせずに鉛筆描きの動画をそのまま撮影する。昔は、最初はセルだが、途中から紙の動画になった作品もあった。こうすると、「山」は小さくなって超えられる。また、紙の動画も全部は出来ない、となると、途中まで出来上がった動画を撮影して、「何々、予告編!」という形で発表しておしまい、という作品も結構あった。(本編は永遠に完成しない。)「山」の途中まで登って、くたびれて下山する、という形である。
では、その「山」を超えるだけの何かは、何なのか。
ここで自主製作にこだわらず、プロの作品について考えてみる。プロの場合、「山」を超えて作品を納品しないとお金がもらえない。スタッフは給料がもらえない。また、劇場公開日、放送日にはなにが何でも間に合わせないといけない。プロの製作がほぼ必ず山を越えられるのは、こういう外的要因が大きい。ここでは、この外的要因を、作品を作るための「外的必然性」と呼ぶ事にする。これに対して、「作品を作りたい」という内的要因を「内的必然性」と呼ぶ事にする。
しかし、プロの作品だからと言って、「内的必然性」がまったく無い訳ではない。大体アニメーションを職業として選んだ時点で、お金よりも作品作りを優先しているのである。出世して作りたい作品を選べる立場になったエラい先生は、自分のやりたい作品しか作らないではないか。もちろん、外的必然性が最優先の上、の話だが。
自主製作に話を戻す。自主製作は、自分の作りたいものを作っているのだから、「内的必然性」だけで作られているのか。そんな事はない。自主製作にも、「外的必然性」はあるのである。最近はあまり姿を見ないが、昔70年代から80年代にかけては、自主製作サークルというものが各地にあり、年に一回くらい合同作品発表会をやっていた。この発表会を開催して出品をメンバーにうながす、ということは一つの外的必然性である。発表会の日時は決まっているから、それに間に合わさなければならない。常日頃からバンバン作品を作っている人は別にして、普通の人は発表会がせまると大慌てでバタバタと作品を作り、ぎりぎりでフィルムを現像所に放り込み、音入れは上映会当日の朝、という事もしばしばと聞いている。作品を作って発表しないとサークルに居づらくなるから一生懸命作るのである。前回に書いた「学生の課題製作」も外的必然性だ。
この他、「多くの人に作品を観てもらいたい。」「いい作品を作って高く評価されたい」というのもあるが、これは「内的必然性」に含めて良いのではないかと思う。この点で、かってのPAF(プライベート・アニメーション・フェスティバル)の果たした役割は絶大なものがあると思う。会場は観客で超満員、しかも出品すれば全作品が上映される。観てもらえるのは確実で、上映されている作品を観ると、「ちょっと頑張れば、この程度なら作れそう」という作品のオンパレード。(PAFの作品レベルは高かった、という事を語る人もいるが、本当に高レベルの作品はほんの一握りだった。あの熱狂の雰囲気は確かに凄かったが、想い出として美化されている部分も大いにあると思う。)全国の若きアニメファンが一斉に自主製作に走り、年々作品数が膨れ上がって行った。その中から今日第一線のアニメクリエーターとして活躍している人も結構出ている。量・質転換の好例ではないか。
さらに、純粋に「作品を作りたい」という、作家の内的衝動、というものがある。これが、どうも自分の作品としてアニメ作品を作らない方には理解しづらいようだ。だいぶ以前に、自分の贔屓の作家が最近作品を作らない、と嘆く方に「では、どうしてあなたは自分の作品を作らないのか」と尋ねたら、「私は作家じゃないから作らない。」と返された。「自分の作品を作る人」が作家なのだから、「私は自分の作品を作らないから、自分の作品を作らない。」という禅問答みたいな話だ。
さらに以前、「鯨おいしいね」をリクエスト上映された上映会で「なんで作品を作るのか」と聞かれた時に、「人間には、金銭欲や権力欲と同じようなレベルでの欲望として、「表現欲」というものがある。」と話した事がある。人間の基本的欲求として、生存本能、食欲・性欲・睡眠欲があるが、その一つ上のレベルとして金銭欲や権力欲、出世欲、ギャンブル欲などがある。この中に「表現欲」というものがあると思う。ごくまれに起こる、作品を作りたくてたまらない、という気持ちである。私の場合であれば、頭の中にワーッと映像イメージがあふれて来て、出さないとたまらない。懸命に作画して具象化するが、追いつかないと手が空回りを始める。懸命に描いて描いてなんとか描き終えた動画用紙を積み上げると、ちょっと収まる。しかもこのプロセスに快感があるのである。何に似ているかというと、昔8ビットパソコンのゲームに嵌っていた時期の感覚に近いものがある。たぶん、ギャンブルにはまっている人の感覚にも近いものがあるのではないか。昨年の緊急事態宣言下で、開いているパチンコ屋をネットで懸命に探して店の周りに行列を作っている人たちをテレビで観て、なんとなく気持ちがわかるような気がした。この「表現欲」というもの、「表現意欲」と何処が違うのか、と言うと、言葉としての美しさが違う。「表現意欲あふれる作家」というとカッコいいが、「表現欲にまみれたおっさん」というと不細工きわまりない。実はこの表現欲というものはかなり強烈になる事があり、「面喰い」を作りかけた時に、作品製作の妨げになる行動を取った方に、軽い殺意を覚えた事もある。前の会社の退職する時にも、「今辞めたら今作りたい作品が作れる。」という思いが後押しした事は間違いない。
「作家はみんなそうなの?」と聞かれると、全員そうだとは言えないとおもう。しかし、作品を作り続けている作家の人には、多少なりともこの「表現欲」なるものがあるのは間違いないと思う。
大分前に作品を連続して発表していた方で、現在は作っていない方が、「作品なんていつでも作れる」と豪語しておられた。それは、技術はある、機材はある、時間もあるのだから、いつでも作れるだろう。ただ、技術があって、機材があって、時間があるのに作品を作らない、というのは、「表現欲」が乏しい、という証左でもある。そういえばその方が昔作っていた作品も、学校の課題のような作品だった。作品は良く出来ていた。才能の有無と、作品製作に向かう情熱とは別物だ、という事だろう。
「時間があれば作りたい」という人も多い。しかし、よほどの事でもなければ、時間はあるのである。それが証拠に、アニメーション以外でどうしてもやりたい事があれば、万障繰り合わせ、周りに多少の迷惑を掛けつつ、みんななんとかして時間を確保するではないか。しかし、「アニメ作り」より楽しい事が世の中にはいっぱいある。よってそちらの方に時間を取られて、アニメ作りに回す時間は残らないのだ。しかも、「アニメーション製作は、大変根気が必要で、時間がかかる苦しい作業が続く。しかし、だから、完成した時の喜びは大きい。」などという事を信じている人が世の中には居るのである。いくら、「作っている間の方が、よっぽど、楽しいですよ、面白いですよ。」と訴えても、「はあ、そうですねぇ。」とまるで信じてもらえない。
ここまで、「外的必然性」と、「内的必然性」、作品製作の「山」についてぐちぐちと述べて来たが、結論的に言うと、「外的必然性」「内的必然性」の合計が、「山」の大きさを超えた時に、自主アニメ作品は出来上がる、はずである。
ならば、「山」を小さくすれば、作品はドンドン出来るのではないか。最近ではスマホのアプリなどで、簡単なイラストを入れると勝手に動かしてアニメにしてくれるものもあるそうだ。(昔、パソコンソフトでも同じようなものがあった。)しかし、出来ない。何故か。「そんなもの、作っても仕方が無い」からだ。スマホやタブレットは誰が使ってもパッと見栄えのするものが作れたり撮れたりするが、誰が作っても同じような仕上がりになる。それ以上はない。よって、1-2回作ってみて、「ああ、面白いなぁ」と飽きて放り出しておしまいである。作り続ける事によって徐々に上達していいものが作れるようでなければ、続けて行く楽しみはないのである。「山」が小さくなる代わりに、内的必然性も縮小してしまうので、だめである。
しかし、パソコン・スマホタブレットの高性能化・低価格化が急速に進み、作家はフィルム代やセルなどの素材費用の負担から解放された。昔膨大な費用と手間を要したセルアニメも、最近はスキャナーで原動画を取り込んで、パソコン画面上でカチカチクリックするだけで彩色が出来る。こういう山の小さくなり方は歓迎すべきだし、現に2000年頃以降の自主制作の急速な拡大はその結果である事は明白だ。
その一方、「内的必然性」を大きくする方法はないのか。この点については、昔からあらゆる芸術ジャンルでの悩みの種だった。「締め切りに追いまくられる流行作家」や、「アイデアが思いつかずに悩むなにかの作家」はそれ自身が創作のネタである。
この話は、作品のアイデアやイメージがじゃんじゃん沸いて来て作る速さが追いつかずに困っている人には「なんじゃそれ」と言われるだろうし、まったくアイデアもイメージも湧いてこずに平穏な日々を送っている人にも「なんですか、それ。」と言われるかもしれない。多少なりとも時々イメージやアイデアが出て来る程度の人間だから、ある程度はわかる事がある。
昔、TVアニメ「ファイトだ! ピュー太」のツルリ博士は、毎話、ピンチの局面で、頭に何かで衝撃を受けるとファンファーレが鳴り、「ひらめいたどー」と叫んで大発明を作って悪党を退治していた。最後の方では、衝撃と発明の関連に気付いたピュー太君が「博士ごめん」と言って、バットで博士の頭を殴って発明をさせていたが、良い子の皆さんは決して真似をしないように。
内的必然性を高めるには、ある種の使ってはいけない薬物も一定の効果はあるようで、芸術家が時々使用しては捕まってニュースになっている。刑事罰をくらうのは勿論、社会的制裁もあり、しかも、段々脳みそが溶けて行くという副作用がきついらしい。これもやめておいた方が良いようだ。
作家などというものは、百人いれば百人とも違う事を考えて作品を作っている。しかし、最大公約数的に共通な項目もあると思う。いままでの経験から言うと、いろんな経験をすると、そういう物事のかけら・カスが徐々に溜まって、なにかの弾みにまとまって作品のアイデアになる。さらに作品のアイデアが具体的に映像化すると、作品のイメージになり、作品のイメージを具現化したい、という気持ちが高まる、という事のようだ。ただ、単に毎日ボーッとして生活しているだけではなく、ある程度は、意識しておく必要もあるようである。
私は動画を描くのが好きである。しかし、ただ何も無いのに動画を描く訳にはいかない。私の画力でアニメーターとして私を使ってくれる人はそうそうはいない。だから、動画を描くために作品を作る。順番が逆ではないか、と言われるとそうかもしれない。私はアニメを観るのも好きである。しかし、自分の観たいと思っているアニメを誰も作ってくれない時がある。よって、自分で作って自分で観る。そういう作家がいてもいいではないか。(次回は、「自主制作アニメの経済性)