<98.9.15 K.Kotani>関西アニメ戦争史 1 

KAP VS アニドウ


KAPについて紹介したいと思う。KAPとは京都アニメーションプラントの略称で、近メ協に先立って京都の自主アニメ関係者の親睦・連係を図って設立された団体である。当時、同志社アニメーション研究会の創設者で、その年同志社大学を卒業しようとしていた大迫照久氏の提唱により設立された。その当時の同志社は「東のアニドウ・西の同アニ」と併唱されたほどの活発な団体で、当時の日本のアニメファンダムの中心となっていた(なにしろアニメ専門誌などひとつもなく長編アニメが年に一本作られるかどうかという時代に、月刊で活字のアニメ専門誌を発行していて、しかも現役のアニメーター(当時のアニメーターといえばアニメファンにとって神様みたいなもんだった。)の集まりだった)アニドウと連係して多くの上映会を開催していた。しかし大迫氏もいよいよ卒業という段になって後のことがそろそろ心配になったらしく、自分の後にしっかりとした組織を残したいという事でKAPを思いついたらしい。らしいというのはKAPの設立の理由を私自身ははっきりと聞いたわけではないからだ。また当時の同アニにはまだまだそうそうたるメンバーが残っていて、同アニ自身の事について心配する事は無かった。しかし京都にアニメーションワークショップ、大阪にアニメ塾という自主制作アニメーションのサークルが続々生まれて、お互いの間に何等かの連係をもつ必要は生まれていた。
78年のクリスマス、同志社アニメ研のメンバーが手はずをととのえて、クリスマスパーティーが京都市勤労会館で開催された。この当時はまだKAPという略称ではなく、LUCKという略称で集まっていた。KAPという略称はその後翌年のNFB上映会の時までに決定したものである。この時集まったメンバーは、大迫氏など同アニの面々、アニメーションワークショップ京都のメンバー3人娘、(嵯峨美短大アニメ研・亜似眼のメンバーで東京のアニメーションワークショップに参加した松本喜世子・福島敦子・高森郁子の3名)アニメ塾のスタッフ(代表の三吉健一、メンバーの山元るりこが京都在住、メンバーの梶山雅代・武藤清隆が京都教育大の学生だった関係で、アニメ塾も京都のサークルということになっていた。)などだった。KAPは名称のとおり京都のサークルの連係を図る団体で、ゆくゆくは全国的に各地区で自主アニメサークルのネットワークを作る場合にモデルとなるべく企画されたものだったが、KAPそのものが先にポシャってしまったためにこの企画は実現を見なかった。
 パーティの会場で各サークルの作品が次々に上映された。今はどこにあるかもわからない亜似眼の人形粘土アニメ「アップルマーダー」、大迫氏の人形アニメのテストフィルム(アップになると少しピントが甘くなり、バックが暗かったので人形が露出オーバーになったような記憶がある。)などが印象に残っている。そのあとわいわいと雑談になり、この日は終った。(いろいろな話が出た筈だが、よく覚えていない。)そのあと、NFBの上映会までよく河原町三条のピザ屋の「トレッカ」でKAPのミーティングがあった。アニメーションとは我々にとって何なのか、それは生きがいである。生きがいとはなにか、ゆでると貝が開くのが生き貝でとじたままのが死に貝だなどというバカ話をよくしていた。このころからKAPで京都のPAFをやるという話を大迫氏がしていた。
 そうこうするうちNFBの上映会も無事終わり、第2回の上映会としてアレクセイエフの上映会をすることになった。この上映会はNFBの上映会と違い、(NFBの上映会はカナダ大使館から直接フィルムを借りたはずである。)アニドウのフィルムを東京・静岡・名古屋・大阪で上映するというもので、大迫氏のアニドウとの人間関係をもってKAPでの上映が実現したようなものである。アニドウとの最初のトラブルがここで発生した。ずいぶん前の話なので詳しい内容はよく覚えていないが、アニドウからもらえるはずになっていた連絡が入らなかったかどうかということだったと思う。フィルム自体はアニドウの並木氏が持参して各地を回っていた。大阪の会場でアニメ塾の三吉が「困るじゃないですか」という訳でかなり抗議をしていた。並木氏にしてみればいままで仲間うちでナアナアでやっていたのにうるさいやつがでてきたなという印象をもったのではないか。後々PAFをめぐってKAPとアニドウが決裂する前兆がすでにここに見えていた。あとで並木氏は大迫氏に「三吉君というのはなかなかうんぬん」ということで話をしていたらしい。そしてアレクセイエフ上映会も無事おわり、いよいよPAFをKAPでやろうということになった。
 KAPにはHAGもオブザーバーとして会長の田原実氏が最初から参加していた。アレクセイエフの上映会の後、PAFの関西での打合せという事で、KAP、HAG、大阪のふうせんの椎原豊さんのミーティングがあったとき、以前からアニドウと付き合いの合ったグループの人々の話として、「アニドウというのは大変いいかげんなところでたとえばうんぬん」という話題になり、作品の締切がずるずるのびてパンフレットも作れないとか、いろいろ改善しないといけないのではないかということになり、改善すべき事項、疑問点をリストアップしてその年のPAFの後の全国総会のミーティングに持ち込んだ。もちろんこの話にはHAGもふうせんもいっちょかんでいたのだが、結果としてKAPだけがアニドウに逆らう不届きな輩という印象を与えてしまったようだ。これはのちの話である。とにかく大阪・京都・神戸の3都市でPAFは開催されていた。これがまたあとで問題になり、なんであんなに近くで3回もやるのか、1つにまとまれということで、関西のPAFは1ヶ所に縮小されてしまった。ちょうど仙台・北九州などにアニドウの小会社みたいなサークルが出来て、PAFの上映回数が増えて、フィルムの管理の点で心配になってきたころで、アニドウとしてもゴタゴタ文句をいってくるサークルよりもアニドウを盛り立ててくれるサークルの方が可愛いいのは心情的に当然だし、より広い観客にPAFのフィルムを見てもらうためには上映会場を増やしたいのも当然だし、フィルムを映写機にかける回数をそんなに増やせないとなればごく自然な対応だろう。そのへんで大人同志の話合いが出来ないところにアニドウとKAPの基本的問題があった。これもあとの話である。とにかくPAF(第5回)の上映はは無事にすんだ。(いろいろ小さなトラブルはあったにせよ。)このあたりからKAPのミーティングがだんだん盛り上がらなくなってきた。そもそもKAPに集まった人々というのは、大迫氏めあてで集まってきたという部分が大きい。その大迫氏が就職活動やカナダのNFB訪問などで関西にあまりいなかった。自分がいなくなることを予想してKAPを作ったのにうかつなと思われるかもしれないが、KAPのメンバーみんなそうとは思わなかった。KAPの組織としての目標のために集まっていると思っていた。ただなんとなくKAPの集まりに出席してもあんまり面白くないからこないとか、なんであいつはこないんだろうとかそういう風に感じてはいた。大迫氏の魅力はどういう点にあるかというと、大迫氏はさすが古くからのアニメファンであって、みんなの知らない作品をよく知っていた。そしてその作品がいかにおもしろいかという話をしてくれた。それだけでなにか面白い作品を見たような気分になったものである。実際作品をみるとたいした事はない場合が多かったが、これは大迫氏が針小棒大にオーバーな話をしているのではなく、大迫氏自身面白いと思っている事を話しているのだからしょうがない。たいへん得した気分になる。盛んに活動しているサークルのリーダーをみるとこういうタイプの人が多い。反対に理屈ばっかりいっている面白くないリーダーのサークルはリーダーの言っている事がいかに正しくてもいつのまにか人がいなくなってつぶれてしまう。自民党に共産党や社会党がなかなか勝てないわけである。逆に共産党や社会党の市長さんをみると理論だけでなく人格と人間関係で支持されているのがわかる。閑話休題。
 さてその年の夏にはアニメーションワークショップが開催された。この年のアニメーションワークショップは関西史上最大の規模で、5講座ほどの講座が開設された。このワークショップにKAPは、主催者、協力者として各サークルが参加した。KAP自体がなぜ主催しなかったかというと、KAP自体の組織がそれほどまとまっていなかった事、ワークショップ自体がアニメワークショップ京都のコネで東京から講師を招いて開催されたためである。翌年のアニメワークショップはこの年のお手伝いスタッフと受講生がスタッフとなってアニメワークショップ大阪という形で開催された。ではアニメワークショップ京都のメンバーはどうなったかというと、この年のワークショップでへばってしまった。なにしろ赤字が何十万というのだから経済的にとてももたない。多分近メ協の創立以来の累積赤字より多かったのではなかっただろうか。では翌年のワークショップはなぜKAP主催でなかったかというと、KAPが実質的に解体してしまっていたからである。翌年の時点でKAPに残っていたのはアニメ塾のメンバーだけで、京都PAF上映係になってしまっていて、アニメ塾ではワークショップに張り合って自主製作講座を開催していた。
 この夏のワークショップが終わって、いよいよ全国総会でアニドウと対決するというので、KAP(とはいってもアニメ塾とHAGのみ)のメンバーははりきっていた。結果は東部戦線のイタリア軍のごとく壊滅した。アニメ塾の三吉はHAGの田原は軟弱だといってなげいていたが、関西堅実派連合軍(アニドウのネーミングです。)はアニドウグータラ派(自称です。)の前に手も足も出ず、用意した問題点・改善事項への返答も一つももらえなかった。アニドウがKAPの改善提案をにべもなく否定したのには、並木氏の創刊した「ファントーシュ」乗っ取り事件も尾をひいていたのかもしれない。並木氏は日本で最初のアニメ専門誌「ファントーシュ」を創刊したが、スタッフの造反によりファントーシュの編集から身を引くはめになり、PAFまでとられてはかなわんと思ったのだろうか。ただひとつ、PAFのアンケートを集計して作者へフィードバックすることが、「これはKAPの負担でやりますから」ということで認められた。(このアンケート総集編は意外に各作者に好評で、「自主製作者の味方KAP」というイメージを与えたらしい。)このアンケート総集編の好評とアンケート総集編のまえがきにこめられたKAPの作者へのメッセージ(はPAFの問題点を作り手の立場から指摘し、改善の必要性を強く訴えていた。)が、アニドウとKAPとの亀裂をさらに深めるにいたる。
 この翌年はKAPは当初企画された姿はほとんどなく、PAF(第6回)をやるだけの団体になってしまった。そのPAFも当初予定された日程に、アニドウ系の別サークルが入り込んで来たために、京都神戸同日上映というウルトラC腸捻転上映となった。一本しかないフィルムをどうやって同じ日に上映したかというと、PAFのフィルムは短いフィルムをいくつもつないで大きなリールにし、大きなリール数本で上映していたが、その大きなリールを上映が終わるたびにスタッフが電車で京都と神戸をいったりきたりして運んだわけである。まったく当時のスタッフの3都市上映への執念がしのばれる。この年もアンケート総集編は発行されたが、アニドウが作品の出品料から経費を出すという話になり、東京のアンケートには一枚一枚並木氏の注釈がついていた。並木氏としてはKAPのまえがきと同じように自分のメッセージも全部載せてほしかったのだが、KAPのスタッフはそうは思わずに一部だけを載せた。あとで全部載せてくれなくっちゃ困るじゃないかーという事で人を通じて聞いたが、後のまつりであった。あとから人から聞いた事だが、アンケート総集編の意外な好評により、主催者のアニドウとしてもKAPの独走にだまっていられないということだったらしい。
 次の年のPAF(第7回)がKAP最後のPAFとなった。この年もあらかじめ決定していた日程(日曜)に別のサークルが割込み、PAFを同アニに委託して平日に上映してもらうはめになった。大迫氏はなんでKAPでやらないといってブツブツいっていたが、KAPはすでに形だけの存在となっていた。この年の全国総会でアンケート総集編をアニドウから次回PAFの案内などと一緒に発送すること、次回より京阪神は上映を1回とすることなどが決定した。アンケート総集編には出品者の住所録を毎年つけていたが、この年は出品票が各サークルへまわらず、住所がわからないので並木氏に聞くと、「送ります。」とのことだった。ところが編集作業がすんでも住所録は一向に届かない。催促の手紙にも返事はなく、同アニの青木氏のところへアニドウから総集編の原稿がこないという催促があったらしいが、そのへんの意図がよくわからない。KAPとしては作者の立場とすればアンケート総集編のようなものは、上映後なるべく早くもらわないと会場の熱気のようなものが残らないし、次回作のはげましにもならないという事で、年を越して2月にKAP版アンケート総集編を住所のわかっている各作者・上映団体へ発送した。その後アニドウより「アンケート総集編はアニドウの出版物としてアニドウのコメントをつけて発行するものが正式のものであり、KAPが勝手にやったものはPAFのものとしては一切みとめない。」という趣旨の連絡があった。こちらとしてはそんな話は聞いていないし、当然いままでのスタイルでよいと思っていた。その後2、3のやりとりがあり、KAPはPAFを離脱し、アニドウとは絶縁関係になった。KAP(アニメ塾も)はアニドウからフィルムを回してもらって上映会をしているサークルではなかったので、アニドウと縁きりになっても別に困らない。しかし、HAGの田原会長やアニメ塾の三吉、アニメ塾を通じて交流のあったアニメーション80の渡辺氏などから「どうしたのか」という話はあった。アニドウではKAPとアニメ塾がごっちゃになっているらしく、数年後、「PAFからアニメ塾を追い出したのはまずかった」という並木氏の談話が耳に入ったりした。また、KAPの創設者の大迫氏はこの騒ぎの間、カナダのNFBを訪問していたが、帰ってきたとたんにアニドウの態度がガラッと変わっているのでびっくりしていた。
 ここからあとは余談となる。その翌年はHAGで関西のPAFは運営されていたが、PAF10の時、アニドウから連絡がなく名古屋のTACと協議して日程・会場を決定したところ、アニドウからその会場(神戸)はやめて大阪でやるようにといわれ、頭に来てやめた。PAFのアンケート総集編はKAPで3回、KAP離脱後アニドウで一回出されたあとはなくなった。(このアニドウ編のアンケート総集編PAF9のパンフ兼用でオフセット印刷の大変よくできたものだったが、作者住所録のようなものはついていなかった。)その翌年にはPAFそのものがなくなってしまった。KAPはその後どうなったか。PAFを離脱してKAPの活動はまったく止まってしまった。PAF9の後、HAG、アニメ塾、グループSHADO、アニメワークショップ大阪などのメンバーが集まって近畿アニメーション協議会が設立された。この時をもってKAPは正式になくなった。
 KAPはスタート当時としては先進的ポリシーをもった集団であったが、全体をひっぱるリーダーに欠け、(KAPには会長というものはついにいなかった。)将来的展望とそれを実行する能力と人材にバランスを欠いていた。KAPの理念は近メ協に引き継がれた。
(近メ協・KAP関係者敬称略・文責小谷)
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