98.9.15 K.Kotani>
関西アニメ戦争史 2HEAD>
決戦自主講座!アニメ塾 VS AWS 大阪夏の陣
78年6月24日、大阪の北市民教養ルームにおいて、アニメ自主講座の説明会が開催されていた。この北市民教養ルームは当時堂島小学校の校舎の一部を利用していたが、現在は阪急エスト1の横に移転している。HAG、AFG、ふうせん、アニメーション80なども利用した施設である。さて、この説明会はアニメーション作家の相原信洋氏が講師として、幻覚工房の今泉了輔氏が主催者として開催した。この自主講座はアニメ塾といい、その後8年間に渡って関西自主アニメ界に大きな影響を与え続けたのである。
さて、同じ年、京都から3名の女性が東京へアニメの自主講座を受講するため上京していた。この自主講座はアニメーションワークショップといい、日本アニメーション協会の主催によって、数々の自さて、この年の夏に東京と大阪で開催された2つの講座は、それぞれその受講者による継承者を生み出した。これが、アニメ塾とアニメーションワークショップである。
2つのサークルは、初め目的を別々にしていた。アニメ塾が、受講生を中心としてアニメ作家を目指す制作者集団としてスタートしたのに対し、アニメーションワークショップは、自主講座を大阪でも開催することを目的として、アニメーションワークショップ京都としてスタートしたのである。
79年春、アニメ塾の第1回上映会には、アニメーションワークショップ京都の作品も出品され、会場の時間を超過してしまうほどの規模の上映会になった。
79年夏、大阪でワークショップは、大阪デザイナー学院、ビクタービデオセンターなどの協力を得、同志社アニメ研、アニメ塾のお手伝いスタッフに助けられて、史上最大の規模で開催された。わざわざ東京から受講した人もいるくらいである。(この方、野地朱真さんは、現在CGデザイナーとして活躍している。)この年には、東京・名古屋でもワークショップは開催された。東京のワークショップにはプロの漫画家も受講したこともある。(グループえびせんの片山雅博氏だけではない。)どちらかというと、今日の国際アニメーションフェスティバルのイメージに近い、メジャーなイベントであった。こんなメジャーなイベントが自主サークルの規模で継続して開催されて行く訳もなく、この年以後アニメーションワークショップは次第にマイナーなイベントになっていく。メジャーなイベントである事の最大の利点は、アニメ関係者以外の一般の人々に参加しやすいという事である。人に聞いた話によると、アニメの自主イベントは雰囲気が異様で、普通の人は中々中に入りにくいそうだ。普通のOLの女性などは会場の前まで来てもまず絶対に中に入れないそうである。これは自主アニメのイベントを開催しようという方は考えた方が良いのではないだろうか。そしてメジャーなイベントである事の最大の欠点は、とにかくお金のかかる事である。国際アニメフェスでいえば、ポスター、チラシ、チケットをちゃんと活字で印刷し、ロゴの入った看板をたて、きれーなコンパニオンのおねーさんを受付に雇い、TVCMを打ち、新聞に広告を掲載する。スタッフも手弁当でなく、要所要所にはちゃんと金を払って専門家を配置する。金がいくらあっても足りはしないのである。大体マイナーなイベントの千倍位かかると思って間違いはない。
話はそれたが、この年は、コマ撮りビデオ、ビデオロト・スコープなど、最新機器を使用してワークショップは開催された。5人のプロ作家の講師が入れ替わり立ち替り2日ずつ講座を受け持ち、講座が終わると受講生共々夜の大阪の飲み街に繰り出した。
なにしろ短い講座なので、受講生ひとりひとりがそれぞれの作品を作るというわけにもゆかず、全員がひとつのテーマで作ったパートパートを繋ぎあわせて、数本の作品が出来上がった。このうち1本が、ビクターのビデオ大賞に入賞した。
この年、現在のアニメーションワークショップの継承者である秋山好正氏も受講生として参加している。現在自主アニメ界の重鎮として世界をまたにかけて活躍中の氏も、当時は特撮マニアのひとりとして、自主特撮映画「レッドハラー」のタイトルを作るために参加し、「アニメも特撮だ!」と怪気炎を吐いていた。
さて、このワークショップにはアニメ塾のメンバーもお助けスタッフとして参加していたが、アニメ塾の目的とするアニメ作家として自立するという目的のためには、ワークショップの形式ではうまくゆかないのではないか、と、翌年は独自の講座を京都勤労会館で開催した。内容はワークショップとはまったく対照的で、ワークショップのハイテク短期決戦主義にたいして、手作り長期戦体制であった。半年にわたり、2週間一度の講座を開き、前回の作画と、前回宿題として渡した作画を、8ミリで撮影して上映し、次のステップにすすむという内容であった。作業が期間的に広く分散するので、スタッフの負担もそれほど重くなく、長期間作業を続けるというアニメ制作のリズムを受講生に体感していただくというねらいもあった。講座終了時には、短いながら全員がそれぞれの作品を作り上げていた。
この年、ワークショップも前年の受講生、同志社アニメ研などを中心として開催された。この年は五百万円のビデオディスクなども登場し、まだまだメジャーなイベントとしてのイメージを残していた。会場としてビクタービデオセンターVICが使えたのも大きい。VICとしても、アニメーションワークショップの作品がビクターのビデオ大賞コンテストに入賞することによって、協力したVICの宣伝にもなり、双方にメリットがあった。だが、アニメ作品がある事情によって簡単に入賞できなくなってから、VICも簡単には無料で使用できなくなってしまった。
翌81年には、アニメ塾はなく、(自主制作と上映活動専念のため、自主講座は隔年開催とした)アニメーションワークショップが会場を山西記念福祉会館に移して開催された。この年もワークショップは5講座と、まだまだ盛況であった。
翌82年にはワークショップは3月に大阪府青少年会館で2講座が開催された。そしてアニメ塾は、大阪府立労働センターで7月から前回とほぼ同じ内容で開催された。この年より、アニメ塾もワークショップもマイナー化がめだってきた。(アニメ塾はもともとマイナー志向だったけど。)ワークショップは受講生募集のパンフがチラシになり、会場も安い所へ移り、講座数も減少した。アニメ塾はスタッフ以外の上映会への作品出品がほとんどなくなり、作品の上映時間が短くなった。イベントとしてほとんど維持できるレベルを割っていたといえる。
翌83年、アニメ塾は、毎週一回土曜日または日曜日に集合して、共同で作品制作をする事になった。作品制作のレベルが低下し、もはやこういう手段を講じないと、スタッフの作品制作すら維持できない状態になっていた。しかし、この対策にもかかわらず、アニメ塾は83年をもって実質的活動を停止し、ふたたび立つことはなかった。この共同制作の場で、新人育成をすべきところ、そこまで手が回らなかったため、しだいに活動が沈滞化した。新人を入れるという事は、従来のメンバーの活性化にもなるし、サークル自体の活性化にとって欠くべからざる要素である。その新人も、何のメリットもない場に入ってくるわけもない。「そこへ行くとアニメを教えてもらえるから」「機材が揃っていて便利だから」「そこにいると楽しいから」「気分が盛り上がって制作が進むから」理由は人によっていろいろだが、何かを与えて呉れる場所に人は集まり、何のメリットも無くなった場所からは、人は去って行く。83年にはアニメワークショップよりも久しぶりに作品が参加したが、それでも作品量はわずかなものであった。
この年のワークショップはわずか1講座。(講師は2名)ビデオコマ撮り機も姿を消し、普通のビデオで一時停止ボタンを瞬間的に操作して疑似的にコマ撮り的に使用するという状況であった。受講生募集のチラシは活字からとうとう手書きになった。
この年の11月、近メ協が発足した。アニメ塾、ワークショップ、HAG、グループSHADO、同志社アニメ研が中心になり、関西自主アニメ界の再編を目指した。
翌年、アニメ塾の姿が見えなくなった。スタッフは定期的に集合していたが、講座を開催する事もなく、上映会をするに足る作品も集まらなかった。
ワークショップは神戸で1講座(1講師)のみが細々と開催された。この年は翌年に国際アニメーションフェスティバルが予定され、ワークショップからも出品しようという意気込みで、実際に2作品が出品された。しかし、この年、スタッフはわずか1名しか残っておらず、受講生が自主的に開催したという形で、翌年にもう一度やってやろうという受講生もでてこなかったので、この年でアニメーションワークショップの関西の講座は終わった。
その後、アニメ塾は残ったメンバーが地球クラブに合流し、地球クラブ大阪・京都支部という形になった。アニメーションワークショップは、83年のスタッフ秋山好正氏が、東京、仙台、広島国際アニメフェスを転々として開催しているが、大阪では昔のメンバーが時々会ってお茶を飲む程度である。
アニメ塾2回の講座は、結局もくろんだ自主アニメ作家を後に残さなかった。アニメーションワークショップは、プロとしてアニメの世界に残ったものが何人かいるが、それだけが目的だったとは思えない。
現在、日本における唯一のアニメーションワークショップは秋山好正氏が運営している。しかし、何分ひとりでやっているもので、緒外国において、公的機関がやっているようにはうまくいっていない。自主講座でない、アニメ学校や、大学・短大の映像関係の講座からは、そこそこのレベルの制作者が生まれている。現在すでに自主講座の存在価値はなくなったのだろうか。そうとも思えないしるしに、たまではあるが、自主制作を始めるにはどうすればよいかという問い合わせが近メ協にもある。
アニメーションワークショップも、アニメ塾もスタートしたときはメンバーのほとんどが学生だった。金はないけどひまとエネルギーのありあまった連中が情熱を傾けて自主講座を維持していた。スタート時のメンバーが卒業し、社会人になっていくにつれ、アニメ塾もアニメワークショップも他人の世話を焼くより自分自身の面倒をみるのが精一杯になっていった。あの夏の自主講座はもう帰って来ないだろう。しかし、なんらかの形で、これから自主アニメを始めようという人の受け皿は必要なはずである。
(文責小谷)
CXJ10161@niftyserve.or.jp K.KOTANI