<2006.09.23 K.Kotani>「ピピアめふアニメーション教室」特別講座 23


毎月読める日本で唯一の自主アニメ情報誌

月刊近メ像インターネット


2006年09月23日

「ピピアめふアニメーション教室」特別講座 23



動きと表現について

 アニメーションは「動き」を主体とした芸術である。多くのアニメーション入門書のかなりのページが「動き」の作り方に割かれている。また、多くのアニメーターたちは「動き」がアニメーションそのものであるように考え、著名なアニメーターの発言や著述したものをみると、「動き」以外の要素、音楽や背景や絵柄、カメラワークなどは「大事ですよ」と言いながら、アニメーションという表現方法の中では「添え物」として見ているようだ。

 かって、日本アニメーション学会の大会で、演出家の押井守氏が「アニメなんて動かなくていい。止め、止めの絵を観客に見せて行って、観客の頭にイメージを残して行けばそれで表現できる。」というような内容の発言を講演の中で行い、後でアニメーターの教員が学生達に「あれは押井さんの作家としての発言で、皆さんはどんどん動かす事を考えないといけない。」と取り消してまわったというエピソードがあった。

 この話は考えさせられるものがあって、確かに最近のテレビアニメは昔の半分くらいの枚数で作られている。(30分もので1500枚程。CM、主題歌部分をのぞいた本編が22分程度である事を考えると、アマチュアでよくある3分位の作品だと200枚程度の枚数で仕上げている換算になる。)しかし、ものにもよるが、結構面白く、「動かない」というイメージはない。カメラワークやセルの「ズラシ」による表現などが極度に発達し、「見せる」方法論が確立したようだ。

 それにひきかえ、従来の大作家達による劇場大作群が、物凄い作画枚数と精密な書き込みを行いながら、作品としてはいまひとつ面白くない結果に終わる、という事が続いている。最近「ハウル」と「トトロ」が相次いでテレビ放送されたが、作画技術としては「ハウル」の方が文句なく(文句のある方もいるとは思うが)高い上、細部の書き込みについては「そこまでせんでええやろう」というほどのものだが、作品としての面白さはまたまったく別のものだった。

 「スチームボーイ」のわくわくするような予告編とまったく違った本編など、例をあげるのにいとまがない。これならまだ「ドラえもん」や「クレヨンしんちゃん」の劇場板を見ていた方が面白い。

 ファンの間では宮崎監督の最高傑作としてあげられる「ルパン三世・カリオストロの城」がテレビスタッフ程度のスタッフで製作されたというのは有名な話で、作品の随所に作画陣の手薄さを補う工夫がされている。作画レベルが上がったのに作品レベルが下がるというのも妙な話だ。とどのつまりが「ゲド戦記」で、最高の作画と最低の出来、かつ大ヒットしているそうで、「角川映画」を思い出してしまった。

「表現」について

 「表現」とは、自分の思い、考え、感情その他もろもろを相手に伝える事であって、人間のやっている事ほとんどすべてが表現であるとも言える。アメリカの現代芸術家が東京の渋谷に行き、そのあたりを歩いている女の子(いわゆる「ヤマンバ」系)を見て、「日本には現代アートの街頭パフォーマーがいっぱいいる」と驚いたそうだが、本人達にはアートの表現としての意識はまったくない。が、ひとつの「表現」である事には間違いない。

 「カラオケ」は言うまでもなく音楽であって、形の上ではまぎれもない芸術の一つなのだが、要はストレスの発散で、大音量でシャウトして「ウォォォォ」という事なので、歌詞に自分の思いを託して「表現」としている方はあまりいらっしゃらないと思う。

 ここで、ユーリ・ノルシュテイン氏による「作品」の定義を紹介したいと思う。

「作品」の定義
* 「物語」がある−起承転結(序破急)
* キャラクターが成立している
* 物語の背景(歴史性)がきちんと考えられている
* 絵コンテ/モンタージュがきちんと考えられている
* 手法を最低限マスターしている

 かってNHKの番組でノルシュテイン氏が、ラピュタアニメーションフェスティバルの入賞者の作家たちにその作品について「この作品には終わりがありません」「作品になっていません」などと辛口そのものの批評をなした。その作家たちの多くは学生で、教員の皆様は、高い品質の作品と考えていただけに大きなショックを受けたそうだ。そのショックから日本にも作品を作る学校を作ろうという話になり、ノルシュテイン氏による上記の定義にそった作品を作らせるそうである。
 その作品群については神戸の上映会で観る機会があった。絵はうまく、きれいな画面が作られている。手間もかかっている。しかし、どの作品も作家の「想い」が伝わってこないのである。

 これらの作品は、何を表現しようとしていたのだろうか、と考えると、「何も表現していない」のかもしれない。アニメーションを学ぶ学生たちの多くは映像業界への就職を考えており、就職に必要な成績証明書の代わりとして、卒業制作の作品と、なになにコンテストの入賞歴は立派に役に立つ。映像業界は商業ベースにのる作品を作れるスタッフを求めているのであって、CMで自己表現をされては困るのである。そして業界に就職された皆様のほとんどは二度と自分の作品を作る事はないのである。

 その状態で「アニメーションの作品を作る学校」を作って上記の条件に合う作品を作った所で、やはり「何も表現されていない、上記の条件に合わせた作品」ができるだけ、なのではないか。そして、「ノルシュテイン」印の映像業界人が誕生するのではないか。

 作品は「人」が作るもので、「人」はそれぞれの地域・歴史の中で生きてそれぞれの世界をしょっている。その「人」が自分の想いや何かをきちんと表現する時、出来上がった作品には自然に上記の条件は満たされているはずだ。ノーマン・マクラレンや相原信洋氏の一連の抽象作品は上記の条件を形式的にはクリアしていないが、素晴らしい作品である事に間違いなく、ノルシュテイン氏もそれを否定しないだろう。

最後に「動き」と表現

 「言いたい事」は何か、という事をはっきりさせるのは難しい。特に現在のように多種多様な刺激が満ちあふれている時代にそれらの影響を免れるのは困難だし、そもそもその影響を受けたところの自分が自分であるからだ。それでも「何も表現していない作品」を作らないためには、まず、「作品を作る」という事が目的でなく、「表現をする」という事が目的である、という事を意識する事が必要であると思う。「素晴らしい作品を作って発表してみんなに誉められている私」をイメージして、「その素晴らしい作品を作るにはどうすればよいか」「どういう作品が評価されているか」「どの手法が評価されやすいか」「どんなテーマで作るとウケるか」という風に戻って行くと、全然自分の作品でない作品が出来上がってしまう。そういう作品を作るのは苦痛だが、「作るのは苦しいが、出来上がった時の喜びは素晴らしい」という言葉に置き換えられてしまう。本当に自分の作品を作っているのであれば、作るプロセスも楽しいはずだ。「自分の言いたい事を表現する」という事を原点にもてば、たとえ世界で10人しか自分の作品を評価してくれる人がいなくても何も問題はないはずだし、結果としていい作品ができるはずである。
 「動き」と「絵」については、「自分の作れるものの範囲でしか表現できない」という事を心得て作って行く必要がある。「言いたい事はわかる」というのと、「言いたい事がわかる」というのは大きくちがう。アマチュアの上映会でよくあったのが、「これは、あのアニメのあのシーンみたいのをやりたかったんだな」という部分である。アニメではなんでもできるが、なんでもやるためには技術と才能が必要である。技術は伸ばして行く事はできるが、無限大に伸びるものではないし、たいていその必要がない。普通の個人が言いたい事を表現するのに、スタジオ・ジブリの全スタッフの力を結集する必要はない。「観客動員数100万人・興業収入10億円」を狙うなら別だが、たいがいの個人の表現は自分の描ける範囲でおさまるのである。というのは、個人の作品作りは「自分の目の前に出来たもの」に触発されて表現が広がって行く部分があるからである。

アニメの作り方のページ 特別講座レジメのページ 近メ協のページに
もどる
近メ像のページに
もどる
アニメのページに
もどる
ホームページに
もどる

kotani@mx1.nisiq.net