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「ピピアめふアニメーション教室」特別講座 40
毎月読める日本で唯一の自主アニメ情報誌
月刊近メ像インターネット
2010年3月24日
「ピピアめふアニメーション教室」特別講座 40
「アニメーションの発想」
アニメーションの発想
現在、実に多くのアニメーション作家が「アニメーション作品」を製作している。ところが、この「アニメーション作品」というものは、どういう発想から生まれているのだろうか。
アニメーションも「芸術」のひとつである以上、作家の「表現」として作られているというのが本来的あり方なのだろうが、アニメーションの多くがテレビ・映画などで実写映画などど同じく「大衆商業芸術」として消費されているという現実を無視はできず、むしろ大衆商業芸術としてのアニメーションを普通の形態として認識し、そこでの製作活動に参加する事を目標とする若者がほとんどというのが実情である。さらに、テレビ・映画の「本編」でなく、挿入される「CM」を作る事を目標としている若者の数も少なくはない。しかし良く話を聞くと、「映像のCMを作りたい」のではなく、「CM製作を職業とする生活をしたい」という事が多く、なにやら華やかな生活にあこがれているだけ、という事らしい。
作品制作の「動機」
個人が、「アニメーションを作りたい」という動機は、多く、素晴らしいアニメーション作品との出会いから生まれている。昔、ディズニーのフルアニメに憧れてアニメーション製作を志したプロ作家の数は数知れない。
自主制作が始まった頃は、TVアニメに憧れてアニメを作り始める人が多かった。ところが、事を初めて見ると、なにしろ一枚一枚動画を描かねばならず、昔はさらにそれをセルにトレスして、ペイントしなければならなかった。そのセルが1枚50円くらいするのである。たちまち挫折の山となり、完成した部分をつなぎ合わせて「予告編」を作ったり、途中からセルアニメを断念して白黒のペーパーアニメに切り替わったりしていた。
この、「観る方」から入って、「製作面の大変さ」に驚愕し、「挫折する」というパターンは現在でも変わっておらず、特に最近はパソコンが普及しているせいもあって、何か適当なソフトを使えば簡単にポンポンとすごいアニメが作れるのではないか、という誤解が蔓延しているようだ。(確かにある種のソフトを使うとポンポンとアニメが作れるが、そういうアニメでは満足されないのである。)
ところが、「挫折せず作品を完成させる」というグループもあり、「挫折した」グループから見ると、「意思強固で性格がきちんとしていてひまな時間があって金がある。」人々に見えるようである。その実このグループには実生活ではいいかげんな人が多く、金もない事が多いのである。しかしこのグルーブに共通して言える事は、比較的若い時期に数ヶ月寝食を忘れて(実際にはよく食べよく寝ているのであるが)製作に没頭した体験を持つ事の様だ。
こちらのグループの場合は、「作った作品を評価してもらう」とか、「困難を克服して作品を完成させる事に達成感を感じる」というような事は二次的なものとなり、「作品を作る事自体が楽しい」「作品を作るプロセスに苦痛を感じない。」状態を維持しているか、それに近い状態にあると言える。
この「アニメを作る事自体が楽しい」という状態がある、という事は、「アニメータと乞食は三日やったらやめられない」という言葉や、年収50万程度に甘んじながらそれでもなかなかやめない若いアニメーターが一杯いるという事実で裏付けされている。また、アニメ教室の受講者でも、ごく短期間だが、大人子供を問わず「モノを動かす」という事にはまってしまう人は結構多い。
また、他ジャンルの造形や絵画、実写映画、演劇などである程度表現に親しんでいる方が参入される場合も長続きするケースがあるが、これは「表現」という事に対する基礎がすでに出来ており、テクニックとしてのアニメーションをその上に積み上げた結果と思われる。このグループに属する作品は、あまりアニメらしくなく、動きもなめらかなフルアニメではなく、限定された動きになる事が多い。
表現された「作品」
さて、このように完成・未完成の作品が出来上がるわけである。まず商業的に制作された作品であるが、ほとんどの作品はマーケティング・会議の結果「売れる」ものとして製作されているので、商業作品としての水準をクリアーさせる事が最優先となる。ここに作品に関わったスタッフが、何らかの「想い」を作品に込めるのは大変困難なはずであるが、この世界はこの世界で、要求される水準をクリアーした上でなんらかのメッセージや自分のやりたい事を作品に刻みこんでいく人たちはいる訳で、そういう作品は「異色作」とか「早すぎた傑作」として、後日再放送やビデオ化されて評価される事が多い。
次に、自主作品で、「観る側」から入って、よれよれになりつつなんとか完成、未完成になった作品であるが、ストーリーものであればなんとかストーリーが完結していたり、あるいはタイトル部分でいろいろ説明されていたりで、「言いたかった事はわかる」レベルに留まる事が多い。
イメージ表現系で、ストーリーの無い作品は厄介である。シュバンクマイエルやクエイ兄弟、フレデリック・バック風の画面が出てきてチョコチョコと動いて終わる。まあこれも、「やりたかった事はわかる。」事が多い。
次に、「動かすことにはまってしまった」グループであるが、結果としてストーリーが終わらず、「続く」になるケースや、軽いオチをつけて終わらせてある事が多い。ただ、とにかくよく動くので、アニメ好きには楽しめる作品になる事が多く、作品を制作し続けるうちに作家性を獲得していくケースも多い。
他ジャンル参入組の作品であるが、表現の基礎が出来ている為か、第一作からある程度の作品が完成するケースが多い。ただドローイング系の作品では、一枚一枚の絵のクォリティにこだわる傾向が強く、先に述べたような「あまり動かない、画面と構図で見せる映像作品」が多い。
「表現」から「発想」へ
かくして「第一回作品」は出来上がり、発表される。ここで、「アニメって作るの大変なんだ。」と実感し、消えていく人が非常に多い。特に、「観る側」から入り、劇場やテレビのような作品を夢見て製作した方は、完成した作品(現実)と、願望のあまりのギャップに驚愕してがっくり来る事が多い。山頂からの眺めを夢見て登山してみたものの、途中がちっとも面白くなく、下山がまた大変で、雨は降るわ滑ってどろどろになるわ、「二度と登山なんかこない」というタイプである。次に「動かす事を楽しむ」タイプであるが、これも次々にどんどん作るかというと意外にそうでもなく、「動いたからいい」と終わってしまう事もあるのである。人は「同じ事を繰り返してやる」タイプと「同じ事は一回しかやらない」タイプがあるようで、「ミサイルの乱射」の後は、「疾走するなんか」を描き、描きたいものが無い、と作らなくなるのである。イメージ表現系の作品であるが、芸大などの課題で制作されるケースが多く、「とにかくそれっぽいものを作って出す。」事が出来ると終わってしまう事がある。他ジャンル参入組も、「やりたいことはやった」と一本きりというケースも結構ある。
この「第一回作品」が終わった段階で、次の作品の方向が決まる。つまり、「第一回作品を作る前」と「作った後」では、作者の「位置」が変わってくる。「作業がどれだけ大変か」という事を知っているし、「自分がどういう画面を作れるか」という事もわかる。「これだけ苦労してこんなものならもう止めよう」という事もあるだろうし、「意外と面白い」と続ける事もあるだろう。また、周りに作品を見せる事によっていろいろな反応があり、それによっても変わってくる。
このプロセスはこどもが言葉を覚えるプロセスにも似ている。つまり、子供が初めて何か意味のありそうな事をしゃべると、まわりの大人は驚いて注目する。子供は注目されると喜んでまた何かをしゃべる。そして、「この言葉をしゃべるとこうなる。この言葉をしゃべるとどうなる。」という繰り返しで言葉を覚えていくのである。
作品を制作して発表する、という事は「表現」である、と言う事をあらためて考えてみる。最初に作品を作る時は、この事への自覚があまり強くない。アニメを見た。感動した。同じようにやってみよう。何かが出来た。
ここから、次の作品を作るときには、「こんなものが出来るだろう」という事を予想しつつの製作がある程度可能となってくる。「どうせたいした作品は出来ないから止めだ」という判断も出てくるだろうし、「前よりいい作品が出来るだろう」と先に進む事もできるだろう。特に、作るプロセス自体を楽しみつつ作る人は格別である。
ここでの作り手の変化は、「何かを作ってみる」という状態から、「作っている作品の向こう側に受け手を意識して製作する。」という状態への移行である。
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