2010.9.20 K.Kotani>
「ピピアめふアニメーション教室」特別講座 42
毎月読める日本で唯一の自主アニメ情報誌
月刊近メ像インターネット
2010年9月20日
「ピピアめふアニメーション教室」特別講座 42
関西自主アニメ40年史
自主アニメとは、スポンサーの依頼や収益を上げる為の商業的な意図からではなく、純粋に作者の創作意欲によってのみ作られたアニメーションを言う。従って、学生の課題作品等は厳密に言えば自主アニメに含まれない。また、プロと看做される作家であっても、川本喜八郎氏の一連の人形アニメはほぼ自主制作と言っても間違いではない。
40年史、という事なので1970年に話は遡る。当時はまだアニメブームは遠く、TVまんがは子供の観るものであり、大人向けのアニメーションはごく一部に限られていた。その当時のお金持ちのアマチュアの趣味の一つとして8mm映画があり、関西では、関西アニメーション協会という同好会が活動していた。この8mm映画というもの、パソコンもビデオもない当時としてはとてつもないハイテク機器であり、初心者用からハイアマチュア用まで豊富に機材がそろい、専門誌が毎月発行されていた。その8mm映画の一部としてアマチュアのアニメーションが存在していた。デパートのカメラ売り場の一角に「アニメ用品コーナー」があり、セル、アニメ用絵の具、アマチュア用2穴タップなどが販売されていた。販売されていたという事はある程度売れていた、という事だろう。そのコーナーでは、「童画社」という会社の出していたアニメの作り方の本も販売されていた。
アニメブーム来る。72年に「海のトリトン」放送。75年の「ヤマト」にブームの始まりを持ってくる事もあるが、中学生以上が「熱狂的」にアニメーションを観だしたのは「トリトン」からであり、番組の「ファンクラブ」が作られたのもトリトンからである。ちなみにこの番組は大阪がキー局であり、海のトリトンファンクラブも活動の中心は大阪支部で、「続編を作れ」というデモまでやっていた。若者達にアニメーションに対する関心が一気に高まった。
PAF襲来。1975年、プライベート・アニメーション・フェスティバル始まる。元々は現在まで続くアニメ全国総会で上映された自主作品を一般にも公開しようと始まったそうだ。第一回PAFの大阪会場は「心斎橋パルコ」だった。アマチュアでもこんなものが作れる、という事が知れ渡り、アニメブームで各地に出来たサークル・ファンクラブや、個人が一斉に製作を始めた。ほとんどが8mmフィルム、一部が16mmフィルムだった。PAFに続いて「ぴあ」も自主アニメの上映会を始めた。
自主アニメ講座始まる。1978年、大阪で相原信洋氏を講師とする「実践アニメ塾」開講。同年、東京で日本アニメーション協会の主催する「アニメーションワークショップ」開講、大阪京都から4人の美大生が上京して受講する。この美大生達は79年に大阪でアニメーションワークショップを企画開催、受講生達に運営は引き継がれつつ84年まで続いた。アニメ塾受講組は80、82年に独自の講座を開催、この時期の盛り上がりは後日、「私もその中にいたかった」と羨ましがれ、相原信洋氏に「あの頃の連中は目の色が違っていた」と言わしめた。初期のアニメーションワークショップの参加者には、プロのマンガ家、デザイナー、画家なども多数含まれており、アニメーション製作が時代のトレンドだった事が分かる。
アニメ講座の盛り上がっていた時期はPAFの全盛期と重なり、全作品上映をモットーとしていたため、「朝から晩まで」8mmアニメを上映するイベントとなった。
82年の講座を最後に、実践アニメ塾終了。83年9月、PAF9を神戸で開催、関西地区の上映終了(PAF自体は翌年のPAF10まで続いた。)。84年夏、最後のアニメーションワークショップが神戸で開催された。この頃から関西の自主アニメサークルはまとまるべきだという声があがり、84年秋に近畿アニメーション協議会が発足、アニメ塾、アニメーションワークショップ、HAG、グループSHADOなどが参加した。
翌年、1985年に第一回の広島フェスが開催されるという情報が流れていた。
広島フェス始まる。広島フェスに便乗して近畿アニメーション協議会では85年の5月に、各サークルのイベントをかき集めたイベント「第一回きんめまつり」を開催、同時に作品の16mm化を行って広島に応募した。が、かってのPAFの大入りを夢みた「きんめまつり」は恐怖の不入り、16mm作品は公募作の「風 1分40秒」が奇跡的に予選通過・デビュー賞を獲得したが、全体には「世界の壁」の厚さを実感させられた。近畿アニメーション協議会は順調に衰退し、87年末にはほぼ事務局のみの存在となった。
冬来る。87年に京都で「地球倶楽部」スタート。みんなで集まってアニメーションを作るというサークルだったが、95年にはほぼ活動を停止している。88年には「アマチュアCGAコンテスト」の第一回が行われた。これは現在まで続き、「ほしのこえ」の新海誠監督を生んでいるが、最初は大学のマイコン研究会の作品発表会のようなものだったらしい。89年、徳島アニメ学校スタート、作家を招いての講座はかってのアニメーションワークショップを思わせるスタイルであり、公共の豊富な予算をバックに機材も充実していたが、かっての自主講座の「熱気」のようなものにはやや欠ける部分があった。徳島市財政悪化の為、2000年に終了。80年代後半から90年代にかけては、8mm機材の終焉とアニメーション自体に対する関心の低下などで「もう、自主制作アニメーションはなくなるのではないか」と思われる時期だった。
春来る。95年、Windows95発売、パソコンの低価格化と高性能化により、かっての8mm機材に代わる製作手段が生まれた。また、日本のアニメーションが国際的に認知され、有力な輸出産業として政府の後押しもあり、大学などでアニメーションを教える学科が続々と新設された。また、シュバンクマイエルなどの海外作家が国内で紹介され、芸大の学生などでアニメーションを志す人が激増。「パプル」とも言われる状態になった。2000年、animation soupスタート。2001年、「ピピアめふアニメ教室」スタート。アマチュアCGAコンテストは「マイコンサークルの作品」が姿を消し、ほとんどの自主アニメがパソコンを使う様になった事もあり、普通の自主アニメ上映会と見分けがつかなくなってきた。アートアニメーションと呼ばれる芸大系の作品上映会は大入りが続いた。2004年にはKAVCで「ぱらぱら漫画クラブ」が行われ、また、KAVCでは映像ワークショップてアニメーションも行っていた。
秋風吹く。日本アニメーション学会の会員は2010年に前年より減少、大学における「アニメバブル」は終わったのではないかと思われる。京都造形芸術大学では通信制の学生の新規募集停止、在学生の卒業を持って通信制は閉鎖となる予定。ピピアめふアニメ教室でも一日体験含めた受講者数は減少、年一回の上映会の入場者も減少している。
一方、90年前半の「冬」の時代と異なり、機材が入手困難になったという事はなく、作っている人は作っているし、作品発表もされている。アニメーション学会の大会の発表でも一時のような怪しげな発表は姿を消し、着実な研究の成果が発表される様になっている。
どうも、一時熱にうかされてアニメ作りを始めた人がいなくなっただけで、正常にもどっただけ、という見方が正しいようだ。
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