<98.9.15 K.Kotani>関西自主アニメサークル史 2 

 グループSHADO 80-84?


 元代表の庵野秀明氏が「エヴァンゲリオン」で大ブレークしたせいもあり、「DAICON FILM」以降の庵野氏については、かなりくわしい記述が各所にでているようだが、庵野氏の宇部時代の所属サークル、「グループSHADO」については、ほとんど記述がないようである。
 グループSHADOは、1976年に誕生した。そのころの宇部市のアニメーション好きの高校生などが集まったサークルだったようである。「アニメブーム」と呼ばれたこのころから80年代初めにかけて、各地でアニメサークルが続々誕生するが、その中でもSHADOは歴史の古い部類に属する。
79年の第5回PAFのおり、当時高校生だった庵野氏は、わざわざ大阪まで自主製作の8ミリアニメを見にやってきた。そして、感動したためか、「だいぶつ宝島」を見て、これなら勝てると思ったのかは分からないが、翌年のPAFに向けてかねてからのアニメ仲間を集め、アニメーションの製作を開始したようだ。「グループSHADO作品集」は翌年80年ののPAF6で好評を博する。庵野氏のデビュー作はペーパーアニメの「みず」だった。実は、庵野氏の「グループSHADO」における作品は、この作品と、翌年の「バス亭にて」「丈夫なタイヤ」の3本のみである。

その翌年、庵野氏は大阪に出、大阪芸術大学に入学する。そして製作した特撮(?)作品「ウルトラマン」「ウルトラマンDX」は、神戸の全国総会で上映され、一部で大受けしたが、朝の反省会のおり、「実写が多かった」という声があり、「実写のどこが悪い」と本人はむっとしていた。その後の活躍はご存じの通り。
 さて、庵野氏以外のSHADO作品というと、新矢みつひろさんの「ミーチャン going to hoikuen」シリーズが上がる。「夜はクネクネ」のBGMとしても有名な曲をバックに、クレヨン描きのキャラクターが動くユニークな作品だった。故・永山竜叶氏(SHADOのプロデューサー)が全国総会で「実はミーちゃんがハンナ・バーバラに企画が通り、アメリカに行くことになりました」とほらを吹いたところ、みんな「ほー」と一瞬本気にしたというエピソードがある。永山氏自身は実際のアニメ製作はしなかったが、ご自慢の出っ腹に絵を描いて「腹アニメを作りましょう」と言ったところ、飯面雅子嬢に「やめてください」と言われたと本人は言っていた。

この他、端正な動画の「ロボットがやってきた!」(神川充明さん)も、印象に残っている。
 さて、PAFを最大の発表の場としていたSHADOであるが、PAF6から9までの作品集は84年のSHADO自身による上映会、84年のPAF10の後、85年の「第1回きんめまつり」でまとめて上映された。PAF10に出品していた作品集が主催者のぐうたらで返却されていなかったためである。いろいろあってPAFは10で終り、SHADO自体もメンバーが各地に散ったため、その後の作品製作は確認されていない。PAF10のパンフの作者コメントによっても、次第に活動が低迷してきたという事がのべられている。過去にSHADO上映会を四国で行った「阿法連」の木内氏によると、現在は作品も非常に風化が進み、上映が困難な状態になりつつあるそうである。
 さて、「グループSHADO」の名前の由来であるが、当時放送されていたSFドラマ「謎の円盤UFO」の地球防衛機構の名前「SHADO」と同じではあるが、故・永山竜叶氏によると、初代代表の庵野氏のネーミングで、「「おい庵野、いったいSHADOって何だ」と聞いたところ、あの普段にこりともしない庵野が、顔をくしゃくしゃにしてにかーと笑って「撮影・8ミリ・アニメ・動画・オーガニゼーションの頭文字だ」と言った」そうである。

(文責小谷)
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