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「大地の子ら」エイラのシリーズ + アリューシャン黙示録

「大地の子ら」エイラのシリーズ
はじめに
だいたいのお話
原作者について
21世紀の目でみた科学的考証
小説としてみたエイラのシリーズ
その他の情報
「アリューシャン黙示録」シリーズ

「大地の子ら」エイラのシリーズ

はじめに

英語版 第5部読み終わりました!

映画版見ました!

さて、Novels ページにも書いたように、エイラのシリーズ、一応、評論社から出版されている「始原の旅立ちシリーズ」日本国内翻訳販売分全部読みました。最初は「大地の子エイラ」の上中下を近所の本屋で注文して買いましたが、それを読んだかぎりでは「うーん、まあこの程度ならこれだけにしておくか」という感じがありました。非常におもしろくできてはいたんですが、さらに読むかどうか、悩むところ。それでも、書店でおいてあれば、と思っていましたが、新宿の紀伊国屋で、それなりに発見。さらに、ちょっと前、梅田堂島のジュンク堂で、「大地の子エイラ」上中下をのぞく全部を発見、ただ、全部買うと、結構な値段になるので、ちょっと悩んでから、下の居酒屋で飲んで、気が大きくなったところで、9冊まとめて、キャッシュカウンターにどん!とおいたら、店の女性店員の方に驚かれました。それなりに、長いこと書棚にあったようで、かなりほこりがたまっていて、「汚れていて、すみません!」とかいわれて、一応、拭いてくれたり。

さて、なんのことかわからない人が多いかもしれませんが、よーするに、原始人小説です。Topics に書いた、「アイデンティティに悩むネアンデルタール」という公開講座に参加したときに、「ネアンデルタール人を描いた小説」の紹介があって、その中で紹介されたものが、これ。ようするに、ネアンデルタール人を描いた小説なんですね。そういう意味では、最近「ネアンデルタール」という小説もでました。この作品は、現代にも、生き残るネアンデルタール人を、人類学者が訪ねるというもので、ネアンデルタール人に関する考古学的なものもなにもかもかなぐりすててのトンデモものでした(会社の人から借りて読んだ)。っていうか、どうも、ネアンデルタール人を超能力者扱いすることが多いんですね。たとえば、なんらかの動物において、テレパシーとかそういうのが存在する、っていうなら人間にはないがネアンデルタール人にはあったとかいうのもいいですが、そうでないのなら、やっぱり普通生物にはそういうのはないんだということで。というわけで、「エイラ」のシリーズも、どうかなー、と思えなくもなかったんですが、ちょっと気になっていました。

でまあ、一応、このページでは、このシリーズを紹介しまして、新訳版もでるとのことなので、それにあわせて、盛り上げて、やがては、ピーター・ジャクソンあたりに監督してもらって、一気に5本の映画でで作ってもらえたらおもしろいかと。


だいたいのお話

第一部 大地の子エイラ(原題直訳 洞穴熊の氏族 "The Clan of The Cave Bear")

いまから約3万年前の東欧黒海沿岸、今の世界史地図でいえば、ウクライナとか、ロシアとかグルジアとかそのあたりに相当する地域が最初の始まりです。そのあたりに住んでいた、クロマニョン人の女の子(5歳くらい)が、自分の家族の住む洞窟から、ちょっと離れて水遊びなどというときに、突然の地震がおきて、家族と離ればなれになり、一人、とぼとぼと歩いているうちに、ネアンデルタール人の一族(氏族)に拾われます。この一族も、地震で洞窟がつぶれて、新しい洞窟を探す最中でした。

さて、ネアンデルタール人の中で、「醜い子」といわれつつも、独創性を発揮して(醜いアヒルの子がはいっている)、次第に重要な役割を演じるようになる彼女エイラ。特に、一族の中の女性としては高い地位である薬師のイザが母親がわりとなったため、薬師として仕込まれます。やがて、一族のリーダーの息子に犯されて、ネアンデルタール人とクロマニョン人との混血の子デュルクを産み落とします。しかし、やがてイザをはじめ、彼女に目をかけていたものたちが死んだり、一族の中で勢力を失うなか、ついに、我が子デュルクを残して一族から放逐される、というところまでを描いています。

第二部 恋をするエイラ(原題直訳 馬の谷 "The Valley of Horses")

エイラは、一人ネアンデルタール人の氏族から別れ、やがて冬を越すために、現在のウクライナあたりの谷に、落ち着きます。

ジョンダラーとソノーランの兄弟は、現在のフランス東部あたりの、ゼランドニー族の少年で、とあることから、二人で、大河の果てまでいこうといって、旅立ちます。彼らは、クロマニョン人です。二人は、途中、いろいろな部族と交流しつつ、黒海沿岸までやてきます。

エイラは、一人で暮らす寂しさの中、自分の狩で殺した雌馬が、直前に産んだばかり仔馬を洞穴につれてかえって育て、さらには、狩の最中にみつけた、瀕死の仔ライオンを自分の洞窟につれてきて育てます。仔馬は育ってエイラにヒンニーと呼ばれるようになりますが、やがて馬の群に戻り、また、ベビーと呼ばれるようになった仔ライオンも独り立ちします。しかし、ヒンニーは妊娠して戻ってきます。

ヒンニーの出産が始まるか、というころになって、谷の近くで人の悲鳴を聞き、いってみると、人をおそっていたのは、ベビーで、おそわれていたのは、ジョンダラーでした。ソノーランはすでに死んでいました。エイラは、自分と同じクロマニョン人であるジョンダラーを自分の洞窟につれてきて、治療します。ヒンニーが出産するとき、ジョンダラーは目覚めます。そこからは、ネアンデルタール人の氏族の言葉を話すエイラと、ジョンダラーとのコミュニケーションの問題からはじまって、さらに、エイラがクロマニョン人が平頭と呼ぶネアンデルタール人に育てられたことをしったジョンダラーの驚きと葛藤なども描きます。第二部では、それらを克服して、二人が愛し合い、ちょっとした旅行にでるまでが描かれます。

第三部 狩をするエイラ(原題直訳 マンモスの狩人 "The Mammoth Hunters")

ジョンダラーとエイラは、小旅行の最後に、近くに住むクロマニョン人のマムトイ族のライオンキャンプの人々と出会い、そのまま、ライオンキャンプに滞在します。

そのキャンプには、アフリカの黒人とクロマニョン人との混血のラネクという好青年がいて、ジョンダラーと張りあいます。さらに、そのキャンプでは、平頭(ネアンデルタール人)とクロマニョン人の混血の子ライダクもいて、エイラは驚きます。 マムトイ族のライオンキャンプでは、馬に乗るエイラはモテモテ。さらに、近くから仔狼までつれこんで育てるしまつ。一人暮らしのときや、ジョンダラーとの生活での大発明なども手伝って、エイラの活躍が描かれるという感じ。 さて、ジョンダラーとの間には、誤解が誤解を呼んで、結局、エイラはラネクと婚約までしますが、、。

結局、恋に破れた(と思いこんだ)ジョンダラーが、マムトイ族のライオンキャンプを後に旅立ったとき、エイラも追いかけて、そして、二人はジョンダラーの故郷をめざして、狼のウルフ(ままやんけ)、馬のヒンニーとその子のレーサーを伴い旅立つのでした。

第四部 大陸をかけるエイラ(原題直訳 旅路の平原 "The Plains of Passage")

ウクライナあたりのマムトイ族ライオンキャンプから、黒海沿岸、ドナウ川デルタを通り、ドナウ川をさかのぼってルーマニアやボスニアとかあの東欧あたりを通って、さらに、オーストリア、ドイツのあたりを経て、ジョンダラーが少年時代をすごした、今は一族から独立した父の住むランザドニ族の洞窟(ドイツ、フランス国境あたり)に至るまでの話です。

途中、以前のジョンダラーの旅で知り合った部族や、ネアンデルタール人との関係、悪い女が支配するぼろぼろの一族、さまざまな人々と知り合い、そして、厳しい旅を経て、ようやく、ランザドニー族の洞窟にいたります。その後、ランザドニー族のもとから、ついに、母の住むゼランドニー族の洞窟までの間に、ついに、エイラにもジョンダラーとの間の子が身ごもり、そして、ヒンニーもまた二人目の子を宿し、なんてことが語られますが、、、。

いろいろな部族とあったりする話はありますが、その間の旅はというと、エイラとジョンダラーとの愛の営みがかなりラブラブで(とても児童文学とは思えないほど)描かれるほかは、氷河時代のヨーロッパの地理、動物や植物についての話がえんえんとかかれています。二人のラブラブは「もうたくさん」と思えるほどあります。

第五部 ???エイラ(原題直訳 岩のシェルター "The Shelters of Stone")

日本語訳はまだでていません。来年あたりだそうです。たんなる子育て日記なのか、それとも、ジョンダラーとの夫婦不仲、倦怠期を描くのか、さらには、母のマルソナとの嫁姑問題に発展するのか、エイラは再び、デュルクを探して、東へ旅立つのか、はてまた、ドーバー海峡(当時はちょっとした川)をわたって、イギリスへいくのか?それとも、大西洋をこぎだして、アメリカ大陸に至るのか、あるいは、地中海わたってアフリカへいくのか、、。

あまりにホームドラマ化しますと、スタートレックの原始人版になりそうな気もしますが、、。原題を「岩の隠れ家」と訳すならば、嫁姑問題がこじれたエイラが、大西洋沿岸に隠れ家をもって、そこで、今度は、羊でも育てつつ、、、違うかな。

英語版 第5部読み終わりました!(2004年11月12日)

ってことで、ここ書いちゃいます。題名の、The Shelters of Stone ですが、でっかいオーバーハングした石灰岩の屋根みたいなのの下の岩の壁のへっこみが、家として使われている、っていうのが、どうやら意味として正しいので、シェルターを「隠れ家」と訳すと、なんか、エイラが、周囲の目を避けて隠れているみたいなんで、違うようです。だから、どっちかっていうと、「岩陰の住処」とかいうのが、正しい訳になろうかとおもいます。で、評論社版のこれまでの題名に対応するとしたら、一番ふさわしいのは、「結婚するエイラ」とか、「お医者さんのエイラ」とか「偉くなるエイラ」とかそういうのがよいかと思いますね。

日本語版にしたら、やっぱり三冊くらいにはなりそうな、英語版ペーパーバックで、900ページ弱というところなんで、かなりの文量です。ですから、話もめいっぱいありますが、まあ、概ね、エイラはつつがなく、ってことです。ストーリーについて、心配する必要はありません。エイラはしっかりジョンダラーと仲良くやっているし、ジョンダラーの家族も、みんなみんないい人たちだし、なんの問題もありませんです。

上のほうで、ホームドラマになるんでは、ということを書きましたが、まあ、かなりそうなっていますね。イメージとして近いのは、アメリカのテレビドラマシリーズ「大草原の小さな家」かな。古いけど。なんか、古き良きアメリカの開拓民が、豊かではないが、貧しくもなく、慎ましく、清く正しく美しく生活する、みたいな。でも、毎日の生活には多少のトラブルはしょうがないし、そういうときには、頼りになるお父さんが、みたいな話です。まあ、お父さんではなくて、ジョンダラーの元恋人だったという、いまでは、いわゆるシャーマンのような存在であるゼランドニなんですが。

ストーリーは、まず、エイラとジョンダラーが、ジョンダラーの故郷であるゼランドニー族の第九洞窟に戻ってくるところから始まります。お約束で、馬に驚き、狼におびえ、というのがありますが、それから、エイラが、ジョンダラーの家族に、その生い立ちを語り、ジョンダラーが、「実は彼女、平頭(ネアンデルタール人のこと)に育てられたんだ」とかいうところで、一瞬みんなはっとして、でも、エイラが賢いので、まあ、そえれもまた人生さ、というような感じで納得、みたいな。でも、もちろん、多少は、そういうのを気にする連中もいて、エイラに意地悪するジョンダラーの元婚約者とかも登場。まあ、いろいろあって、エイラも大活躍で、夏のキャンプに向かい、そこでさらにいろいろと活躍。うーん、馬二頭(ヒンニーとレーサー)、狼(ウルフ)の三頭のうち、一頭くらいは、死んじゃったりするのでは、と思ったけど、ウルフが大怪我した以外は、特につつがなく。で、夏のキャンプで、エイラとジョンダラーが結婚すると。でもって、ついでといってはなんですが、もともとジョンダラーのことをあこがれていた、ランザドニー族のジョプラヤ(ジョンダラーの異母妹になるんだけど)が、平頭と人間のハーフのエコザルと結婚することについて、意地悪連中が反対してみたり。

うーん、下のほうにある、アリューシャン黙示録とはえらい違いで、出てくる人たちの中にぜんぜん悪人がいない。多少の意地悪なやつとか、意固地なやつはでてきますが、そういうのは、偉くもないので、所詮はてーれべるなやつで、終わってしまう。飲んだくれのララマーとか、平頭の血が1/4まざっているブルークヴァルとか。まあ、そりゃトラブルはありますね。

さて、エイラは、夏のキャンプでジョンダラーと結婚して、それからジョンダラーが新たにこしらえた洞窟の家をみて感激。それから、やがて二人の娘がうまれ、名前は、ジョンダラーとエイラの娘だから、ジョネイラというあたりが安直です。それから、ヒンニーもまた仔馬を産み落とします。今度は、グレイって名前で、これまた単に灰色だから、というあたりが安直です。

やがて、ゼランドニ(シャーマン)が、エイラのことをとても賢く、すごい能力があるってことで、エイラに弟子になるように勧める、ってあたりで終わります。

とにかく、話のあっちこっちがかなりわくわくするようになってはいますが、原則として、エイラはつつがなく、かつ活躍しまくり、ってところでしょうか。

まあ、英語版はさすがによむのに時間がかかりましたが、面白かったです。


原作者について

ジーン・アウルというフィンランド系アメリカ人の女性が書いたもので、カバーでの紹介によりますと、18歳で結婚、25歳までに5人の子供に恵まれ、28歳ごろから、お仕事。半導体回路設計技師とかになって、最後には、会社で部長の立場まできたところで、40歳で退職、そこから、グリーンランドだかカナダだかの洞窟に一人こもるなどして、氷河時代の原始人生活を実体験して楽しみ、10年近い構想のもとで(洞窟に10年いたわけじゃないらしいが)、1980年代から、「大地の子」シリーズとして、発表しはじめ、まだまだ続くぞ、という状況。1936年生まれというから、御歳68歳(2004年末)となりますかね。横長テレビ画面のワイドモードでみたようなアスペクト比の丸顔の女性ってことです。

実際に書き始めるまでに、かなり膨大な科学的考証を行っているし、また3万年前の人類についての考古学的な部分もかなり押さえているので、むちゃくちゃトンデモっていうわけではありません。ただ、かかれはじめたのが、1980年代はじめなので、ネアンデルタール人に関してのここ20年くらいで飛躍的に高まった研究成果は入っておりません。それから、ネアンデルタール人が、「過去からのすべての記憶ももつ」というあたり、ちょっち超能力な感じもしないでもないです。


21世紀の目でみた科学的考証

ネアンデルタール人について

まず、なんといっても、ネアンデルタール人の扱いです。まず、この作品の中でのネアンデルタール人は、徹底的な男尊女卑な感じで、女には狩が許されず、また炊事洗濯家事仕事はすべて女、リーダーは絶対的な権利をもち、というようなことがあります。このあたりは、うーん、難しいところ。ネアンデルタール人の社会生活は、現代人とはかなり違うとは思うんですが、こういう方向だったかどうか。最近のチンパンジーやゴリラなどの類人猿の観察に基づく進化社会学的な研究からすれば、チンパンジーの集団内での権力闘争とか、殺し合いとか、集団間の戦争のようなものもふくめて、むちゃくちゃいろいろわかってきたので、チンパンジーと人間のもっている要素の多くはそのままネアンデルタール人に当てはまると思います。婚姻のありかたなども、ネアンデルタール人は、人間に近い複数の夫婦と子供からなる集団を形成し、婚姻は基本的に「嫁入り型」であって類人猿でないサルが「婿入り型」であるのとは違うでしょう。集団のリーダーは、たぶん、男であって女ではないというあたりもある程度あてはまりそうです。

それから、過去の記憶を全部持つというあたり、知識や行動の多くが遺伝的生得的であって、後天的なものが少ない、という意味にとれば、まあ、それほど問題はありませんが、でも、ちょっとやりすぎかな。超能力があるような。このあたりの最新の古人類学からの知識でいえば、ようするに、独創性がないということで、それは、ネアンデルタール人は、登場(一応15万年前ごろで、現代人の祖先と同じころに進化してきたとされていますが)以来、石器作りのパターンも変化せず、ずっと同じような生活を続けてきたという意味で、かなりいえているのかも。

たとえば、道具を使うのは人間だけじゃあないし、家をたてるのも人間だけじゃあない。けれども、たとえば、ビーバーがダムを造るのは、もちろん、それぞれの川の流れの様子や、周囲の環境に合わせることはするけれど、基本的に同じダムを数万年も数十万年も作り続けているわけで、ところが、人間の家は、ずっと昔の洞窟生活から、皮張りのテント、さらには掘っ建て小屋から、鉄筋コンクリートまでどんどん進歩している、このあたりの違いをみてもらうと、なんかやっぱりビーバーのダム造りと、人間の家造りでは根本が違うっていうことがあるでしょう。どうやら、ネアンデルタール人は、たしかに、ルヴァロア技法による高度な石器作成の技術をもっていたが、一方でこの石器は数万年にわたってほとんど変化せず、なわけです。当時クロマニョン人をはじめとして、現生人類につながる祖先たちは、後期旧石器時代に入り、多数の装飾品を作り出し、また、石器から金属へという方向で数万年で大きく変化してきたわけで、その意味で、ネアンデルタール人の石器造りは「遺伝的、先天的に与えられた種族の知識」によっていて、変化できなかったのでは、というのは正しいかもしれない。だとしたら、その生活も、そういう形で変化の乏しいものであったといえる。けれども、現代人よりも大きな脳を持っていたのだから、その種族としての遺伝的、先天的に与えられた知識は膨大で、チンパンジーなんかよりもすごい、ということになります。

ネアンデルタール人の言語が手話のようなものだった、というあたりは、現状では、まだ答えがでていません。ただ、おそらく間違っているでしょう。手話のようなものであっても、このシリーズにあるような表現が可能ならば、現代人なみの思考力をみせるかもしれない。現在知られているかぎり、音声言語については、母音が、二つくらいしかつくれないという可能性が指摘されています。しかし、進化の速度から考えても、子音を多数作れたことは間違いないし(現代人型の舌骨をもつことが判明したなど)、また、肺の横隔膜をコントロールする神経(脊髄内の神経束の太さからわかる)なども、現代人なみなので、母音の発音をのぞくと、かなり音声言語が話せたと思います。ただし、話の内容や、それをささえる文法構造などは、かなり現代人とは違っていた、と思われます。私は、「社会生活のための言語の発生と発達」というのが、かなり関係していたと思われますので、一つの集団の成員は、集団内の一人一人を識別し、一人一人に名前(人に関する固有名詞)をつけ、それに、人間関係などを表す動詞類をもつのが原始の言語ではなかったかと思っています。

文化的な面でいうと、ネアンデルタール人の生活においては、芸術的なものはほとんどないというのは事実で、ただし、フランス東南部を中心とした地域では、シャテルペロン文化があり、これは、当時の現生人類の祖先(つまり新人)の後期旧石器文化と近いレベルであったとされますが、この文化は現在のところ3500年前ごろから数千年続いただけで終わっていて、また、その地域も、当時のネアンデルタール人の生息地域全体の中ではかなり小さいこと、さらに、ネアンデルタール人が滅亡したとされる3万年前ごろにおいては、この文化もなくなり、最後のネアンデルタール人は、スペインやフランスの東部、大西洋沿岸地域の洞窟で、本来のムスティエ文化を伴って発見されています。また、ネアンデルタール人の食生活については、わかっている範囲では、陸生動物の狩猟が中心であって、漁労の形跡はありません。ということは、エイラのシリーズの中でのネアンデルタール人は、部分的には、シャテルペロン文化でありますが、他方、かなり遅れている部分もあって、そのあたりはやっぱり、1980年代かなーと思わせるところがあります。黒海沿岸となるとたしかに、ネアンデルタール人の生息域ではあったけれど、シャテルペロン文化はなかったと思うので、うーん、ちょっと違うかな。ただし、漁労については、氷河時代の海面の水位が現在よりも百メートル以上低かったことから、いまんところ、当時の沿岸部の遺跡がほとんどでてきていないので、まだまだ、今後いろいろ状況は変わってくるかもしれません。

一つ感心したのは、このシリーズの中で、ネアンデルタール人の成長速度は当時の新人よりも、早かったので、早熟だったという点です。これは、ある程度予測はされていたものの、判明したのは、つい1年前かそこらであったことです(BBCニュースのページ)。平均寿命が30歳前後だろうというのは、かなり以前からわかっていましたけれど。

さて、最後に、洞穴熊の氏族の薬師イザのもつ薬草に関する知識です。うーん、まず、人間以外でどうかというと、チンパンジーなどは、体の状態にあわせて、薬草を噛むなどしているそうです。体の状態にあわせて、いろいろな薬草を使うというのはアリ。で、その知識がどれほどか、というのは、うーん、すごいんでしょう、あれだけ頭がでかいから。でも、シャテルペロン文化においてはおいといても、そうじゃあない場合は、一人がもつ薬草の知識がほかの交流されることがあるかどうかは不明。ただ、集めておいた薬草を必要に応じて使う、っていうのがあったかどうか、難しい。だから、イザは、ちょっとやりすぎ、以上。

クロマニョン人について

うーん、感動したのは、どっちかというとこっちですね。3万年前の現生人類型人類、つまり、ヨーロッパにおける「いわゆる」クロマニョン人は、後期旧石器時代でして、文化が爆発した時代です。さまざまな新しい道具が考え出され、かつ、場所によっては、非常にこった衣装をつけた人が埋葬されていたことが遺跡からわかっているし、道具に、さまざまな芸術が施されていることもわかっているし、また、3万年前ごろには、フランスなどでは、洞窟壁画も描かれはじめている時期です。当時のいろいろな発明を、エイラが全部やったことにした、っていうのはおいといて、このあたりはそうとうよくできた作品でしょうかね。ようするに、現在発見されているこの時代の遺跡からのさまざまな生活道具、石器、小像などから、最大限の想像力で、非常にあでやかなクロマニョン人の文化を描き出していると思います。

エイラや恋人のジョンダラーが、金髪碧眼とされているところは、それほど問題ないでしょう。ただ、エイラの出身地が近東に近い黒海沿岸だとしたら、そのあたりは、民族の十字路でしょうから、いろいろな顔形のひとたちがいたと思いますし、かならずしも、金髪碧眼とはかぎらないかもしれません。ジョンダラーは、金髪碧眼でいいです。

#ネアンデルタール人の少女の復元

むしろ、ネアンデルタール人の多くが、金髪碧眼であった可能性が指摘できます。上の写真は、BBCのニュースサイトにあるものですが、これがネアンデルタール人の少女の復元したものだというわけです。あきらかに金髪碧眼ですね。で、これというのも、現在のヨーロッパ人は、およそ4万年前までにアフリカから中近東をへて、ヨーロッパへ進出した新人の子孫ですが、ネアンデルタール人は、その10万年か、さらに数十万年前にヨーロッパに入ったと思われます。現代のヨーロッパ人は、アジア人や、アフリカ人に比べると、多毛であるので、ヨーロッパという環境が、おそらく多毛と金髪と碧眼を誘発する要素であったとすれば、ネアンデルタール人もまた、そういうものであった可能性が高い。ネアンデルタール人は、いまのところ、ヨーロッパ西部でもっともそれらしくなり(10万年前ごろ)、その生息域を、次第に東へとすすめて、中央アジア西部まで進出しました。おそらく、かなり色白で、金髪だったと思われます。

人類の肌の色っていうのは、おそらく千年か二千年で変化します。本来は明らかな白人系であるとされるエチオピア人も今ではかなり黒いし(顔の形はヨーロッパ人に近いとされるが)、インド人もかなり黒いです(ただし、これは、南方系との混血による可能性も高い)。非常に短時間で、肌の色は変わるようです。

で、この、現在におけるいろいろな人種の顔形というのは、案外最近できたようで、エイラのシリーズの中で、最後のほうで登場する(大陸をかけるエイラ下巻)ホシャマンという老人は、おそらく東アジアから旅してきたと思われるけれど、彼の顔がのっぺりしたアジア顔というのはおそらくあり得ない。いわゆるモンゴロイドののっぺり型の顔は、氷河時代末期のもっとも厳しい寒さだった2万年から1万年前に形成されたもので、実際、ミトコンドリアDNAなどからの研究では、この3万年前ごろは、まだ、ヨーロッパ人とアジア人の分離もそれほどしていなかったと思われる時期です(たとえば、ミトコンドリアDNA分類でX型は、ヨーロッパ人にもアジア人にも、さらにはアメリカ原住民にもあるタイプで、その時期は、二万五千年前)。で、どうも、5万年前ごろから3万年前ごろまでの人類というのは、現代でいえば、オーストラリア原住民であるアボリジンに非常に近いのでは、という話があります。どこの地域の化石人骨をしらべて、だいたい、アボリジンの人たちと似た感じで、それは、アメリカ大陸の初期の人々についてもいえるということです。

クロマニョン人の言語とされているものについてですが、これは、まあ、基本的に現代人と同じような音声言語であったということでよいでしょう。また、部族ごとに、言語が違うというのは、たぶん、正しい。現在のヨーロッパは、非常少数の例外をのぞくと、インド・ヨーロッパ語であり、しかも、スラブ系をのぞくと、いわゆるケントゥム語派が主流ですが、このような状態を作り出したのは、ローマ帝国と、キリスト教の結果であって、それ以前、紀元前1000年紀ぐらいまでは、実にさまざまな言語があったと想定されています。現在のところ、非インド・ヨーロッパ語というと、フランス、スペインの大西洋沿岸部のバスク語や、カフカス地域のグルジア語など、また、歴史時代以降にヨーロッパに入ってきた、フィン・ウゴール系の言語がありますが、ローマ時代には、ローマ近郊にまで、エトルリア語があって、ほかにも、いろいろあったようです。現在のような、大きな語族が登場したのは、農耕民と遊牧民が成立した新石器時代以降で、それも、多くは、大帝国のようなものが出現してからだ、ということになりましょう。現在、非常に多数の言語が存在している、パプア・ニューギニアや、中南米の状況などから考えると、それこそ、数十人の小集団ごとに、全然違う言語を話している、というのが実際のところ、正しいのではないか、と思えます。という意味で、エイラのシリーズに登場するのが、部族ごとに違っていて、しかも、同じ言語の部族は、互いに、夏のキャンプをともにし、かつ、婚姻関係などで結ばれている、という設定は、十分に考えられる話です。

あと、非常に重要なのは、家畜の問題。ヨーロッパにおける家畜は、すべてエイラが始めた、というようなことについてですが、うーん、いろいろあってんでしょうね。犬については、どうやら、アジア方面が原産で、現在のミトコンドリアDNAなどからは、四種類の犬属の動物(狼など)から、かけあわされていて、最初の犬は、おそらく一万五千年前ごろ、ということですから、エイラのころはどうだったか、という話になりますが、たまに、エイラのような物好きがいて、っていうのは、理解できます。馬についても、発掘された馬具や、馬具をつかった形跡のある馬の骨(たとえば、轡をつけた場合の歯の変形などの痕跡がある)などからすると、新石器時代ってことになって、氷河時代のものはないようです。馬が、狩猟の対象だったことは間違いないので、いたことはいた、と。ただし、エイラがするように、鞍もつけず、手綱もつけずに、裸馬に乗る、というのは、考古学的にはなにもいえない、というのが現状です。乗馬の風習は、案外遅くて、それ以前に、戦車なり馬車というのが登場しているわけですね。鐙をつかった乗馬は、紀元後であり、ローマ時代なども鐙なしの乗馬だったとのこと。

まあ、家畜についていえば、後期旧石器時代からずっと、たくさんのエイラみたいなのがいて、あっちこっちでいろいろ試されて、中には、鹿に乗ろうとしたり、犀に乗ろうとしたり、いろいろいたんでしょう。ホシャマンは「象に乗る人がいる」という話がありますが、それこそ、マンモスにのった人もいたのかも。

あと、当時の新人の医学的な知識などについていえば、エイラのような人がいたことは、かなり確実ではないかと思います。骨折に関する手術、頭が痛いときの頭蓋骨穿孔手術などは、ある程度考古学的にも検証されています。難産の場合の帝王切開もやっていた可能性がある。さまざまな薬草による治療はもちろん、そうとうすごかったはずで、農業の起源も実は食料のためよりも、薬草の栽培が最初だった可能性がある、という説もあります。エイラのようにネアンデルタール人の間で育った場合に、それがクロマニョン人よりもすごいというのは、ちょっと違うと思いますけれど。

最後に一つ。結婚と出産に関してですが、現在の先進国などでは、女性の初潮年齢は、12歳くらいですが、現在の狩猟民族などですと、16歳くらいとかなり遅い場合が多く、これは、子供時代の栄養状態とかいろいろなことが絡んでいるのですが、そのあたりは、昔ほど結婚年齢が早かったから、いまより早熟だったと考えるのはおかしくて、中世ヨーロッパの初潮年齢は18歳くらいだとか、平安時代の日本女性には結婚適齢期の概念はなく、30代で結婚する女性も多かったとか、そういうことを考えると、3万年前の氷河時代の女性がエイラのように11か12で出産というのは、たぶんあり得ない。ネアンデルタール人が早熟なのはいいかもしれませんが。

あと一人の女性は、移動生活をする場合は、上の子供が一人である程度の長距離を歩ける5歳から6歳にならないと、次の子供を産まないようにしていますので、最終的に30歳半ばくらいまでを出産可能年齢としてみても、初産が20くらい、次が27くらい、その次は35くらいっていう計算なので、だいたい生涯で三人くらいしか出産できません。基本的に移動生活では、子供は母親が抱いている時間が長いので、その間乳をくわえていて、男性の接近を阻むとかいろいろしているし、妊娠しにくくなっているとのことです。で、生涯に3回かせいぜい4回しか出産しなくて、さらに乳幼児死亡率が高いとすると、子供がちゃんと大人にまで育つのは、一人の女性からみると、せいぜい二人ってところで、これだと、人口はほとんど増えません。

ところが定住生活になると、それこそ毎年でも生まれるので、そこで、農業が始まると、農業の生産効率は悪くても、一気に人口が増加し、それで、むちゃくちゃな飢餓状態がおとずれて、多くの人々が餓死したわけで、結果、まず、新石器時代では、狩猟中心の移動生活をしていた後期旧石器時代に比べて、平均身長も、体重もなにもかもかなり貧弱になりました。そこで、宗教的に男女が間の関係を厳しくするなどの文化をもって人口抑制が可能になった段階で、ようやく豊かになる、ということで、そのあたりで、多数の民族、部族が淘汰されたのが初期新石器時代なのだと思います。その意味で、エイラは避妊薬など使っていますが、そうでなくても、移動生活中には、妊娠はしにくかったと思うし、結構うまくできていたんだな、と思えるふしがあります。

で、私的には、農耕が開始されたあとの初期新石器時代は、まだまだ貧弱な農業と、突然の人口爆発によって、人々が一番惨めだった時代といってもよく、だとしたら、それ以前の後期旧石器時代ごろに、一つの人類文明がもっとも栄えた時代があってもよいと思えます。なんせ、5万年前から氷河時代の終わる1万年前までに、人類は、莫大な数の生物を絶滅させているわけです。とにかく、どんな動物でも取り尽くす、という具合です。かといって、それほど人口が爆発したわけでもないので、狩猟はやりほうだい。魚もなにも取り放題。案外、人類の狩猟によるこの大量絶滅によって、一部の人々が、農耕をはじめざるをえなくなり、かつ、それが、人口爆発によって、悲惨なものを招いた、とすらいえるのかも。

英語版第五部読んでの感想

うーんと、まあ、クロマニョン人がいろいろ芸術性があったりするのも事実だし、また、今回は、ラスコーとかアルタミラみたいな洞窟壁画を描いた人の話も出てきて、いかにもクロマニョン人なんですが、ただし、生活水準としては、やっぱりクロマニョン人じゃあなくて、自体としては、うーん、氷河時代の後の、ナトゥーフ文化、ヤンガードリアス期前後の、終末期旧石器時代って感じでしょうかね。3万年前じゃあもっと生活レベルは低いでしょう。いやまあ、まだそういう遺跡がないだけ、って話もありますし、遺跡に残るのは、石と骨だけだから、考古学的にみて、エイラたちみたいな生活をしていた人もいるんだよ、ってこともあるかもしれませんが。それにしても、第五部になって、ゼランドニー族の生活は、まさに豪華そのもの。だいたいエイラが花嫁衣装をきて、鏡にうつして、まあきれい!みたいなシーンもあるんで、ちょっとやりすぎでは、と思ったり。

あともう一つ気になったのは、彼らの言葉ですね。やたらめったらギリシア語、ラテン語ベースの抽象名詞の類がぞくぞく出てくる。普通の会話の中にもですね。なんか、これがちょっとあまりにも哲学的すぎる。うんと私が思うに、もう少し日常語彙みたいなので、全体として深い哲学を示すようなそういう文章だったらもうちょっとらしいのに、と思いました。 ところで、出てくる人の名前。やたらたくさん出てくるので、なかなか整理がつきません。最後に一覧があるので、ちょくちょくみながら、こいつ誰だっけ?みたいな。で、名前として、エイラについては、たぶん、もとのもうちょっと長い名前があって、それは、「アウエラ」とか「アウル」とかなのかもしれませんが、それがネアンデルタール人の中で、なまってエイラになったというのはよいとして、ってあんまりよくありません。ネアンデルタール人は、たぶん、母音の i が発音しにくかったと思われますので、、、はおいといて、ジョンダラーの意味はなんでしょう?このあたり、実は、今のヨーロッパ人の名前などは、ほとんどが、もともとキリスト教関係だと、ユダヤ人の名前とか、あるいは、ギリシア・ローマの人たちの名前であったり、あるいはゲルマン人の名前であったりしますが、こういうのちょっと遡ると意味がある名前です。たとえば、ドイツ人のアドルフとかルドルフなんて、うしろに「ウルフ」がついて、狼ですね。それから、アレクサンダーなんて名前は、ギリシアのアレクサンダー大王ですが、これまた、Alex (光)と、andros (男)ですから、「光男」ですね。ユダヤ人の名前も意味があります。で、日本人の場合、漢字で書いて訓読みの場合は意味に分解できるわけですが、実はヨーロッパ人のこういう名前ももともとは分解できる。だから、もともと部族社会だったゼランドニー族なんて、たぶん、その名前は、意味がある名前だったと思います。その意味では、アリューシャン黙示録のほうで、「三匹の魚」とか「誰」とか、「黒曜石」とか「ナイフ」とか「血」とか「筋肉」とかいうのは結構ありそうなことで、まあ、英語版で読むと、これらはアリュート語でかかれているから、いかにも固有名詞ですが、その意味を分解して、「古に遡る」なんていう訳にした翻訳者は結構すばらしいと思います。だから、ゼランドニー語の名前についても、ジョプラヤとかウィルマーとか、ダラナーとかいろいろあるけど、なんか法則性なり、意味ありげ、っていうのが必要な感じがしました。

ネアンデルタール人とクロマニョン人の混血はあったか

さて、これは一番難しいのですが、現状の科学的にわかっていることからすれば、ミトコンドリアDNAや、性染色体であるY染色体の配列などからして、現代人の中に、ネアンデルタール人のものが混ざり込んでいる可能性はほとんどゼロです。で、考古学的に、混血の可能性のある標本はあるか、というと、怪しいのが、一つか二つ、でしょうか。あの、ポルトガルで発掘された、27000年前の幼児の場合、頭蓋骨が発見されていない(なんか、話がうますぎるように、発掘時の直前の工事かなんかで、こなごなになてちるようだとかいう)ので、なんともいえませんが、体格的には、ネアンデルタール人とも現代人ともつかないものだそうで。

実際のところ、見た目は、かなり違っていて、それこそ、クロマニョン人が「平頭」と呼んでいた可能性があるくらい、頭の形が全然違うとかありますが、眉上隆起という、眉のあたりの骨がでっぱっているのは、ネアンデルタール人の特徴であり、強調されているけれど、3万年前ごろだと、新人の中でも結構それっぽいのもいないわけではないので、かなり頑丈な顔の新人と、ネアンデルタール人で、どれくらい見たところ違ったかというと、微妙。まあ、かなり違うでしょうし、ネアンデルタール人にスーツ着せて、ニューヨークの地下鉄にのせたら、周囲の人は逃げるでしょう。

あと、文化的な違いという意味で、3万年前は、たしかに、後期旧石器時代なんで、そういう遺跡がたくさんあって、新人の遺跡は文化の花開き、なんですが、でも、中近東やアフリカにおける5万年前の「新人」の遺跡でも、文化的にネアンデルタール人とほとんど同じムスティエ文化の場合があるわけで、たとえば、3万年前のヨーロッパにおいて、ネアンデルタール人(シャテルペロン文化を持たない)と結構同じような生活パターンだった新人が、いてもおかしくはない。一方で、フランスあたりのシャテルペロン文化のネアンデルタール人だったら、それこそ、ほかの後期旧石器時代とくらべても、それほど大きな違いがあったか、というと難しい。

で、文化的な違いがあれば、互いに、混血は排除されるので、たとえ、少数の混血がいたとしても、それが、このエイラのシリーズにあるように非常に強い差別にあうような場合は、現代人にその痕跡を残すことがなかったというのが、かなり納得できます。

っていうわけで、この問題、このシリーズの中にあるような形で、ごく多少の混血があったが、混血の子供たちが非常に不幸であったという扱いは、かなりいい線いっているのではないかと。

ミトコンドリアDNAからは、ネアンデルタール人と現代人とは、共通祖先からの分離からおおむね100万年か50万年か、それくらい離れているということです。最近、ニホンザルとタイワンザルが日本各地で混血するという事件が起こっていますが、この二つの種の違いも、分離から同じくらい離れています。見た目の違いは、ニホンザルは短い尾だが、タイワンザルは長い、というあたり。ボルネオとスマトラのオランウータンは、300万年前ごろ分離したというけれど、みたところ全く同じで、混血も全く問題なし。チンパンジー(ふつうの)の東西では、これまた100万年から50万年離れていても、混血に問題はなし。文化は地域ごとに違うけれど。あと、種として違うとされる、チンパンジーとボノボ(ピグミーチンパンジー)は分離から300万年だけれど、混血は可能なようです。文化的に大きく違うし、社会集団の作り方も違うし、骨格レベルでかなり違うのに可能なわけですね。

つまり、ネアンデルタール人と現生人類との混血は、純粋に生物学的には、全く問題なさそうで、それを拒むとしたら、文化的な理由でしょう。染色体の数が違っていたとも思えないし、骨の数が違う(たとえば脊椎の数とか)とかもなさそうだし。ただ、ネアンデルタール人は頭がおそろしくでかいので、新人(現在よりは頭は大きかったが、そえれでもネアンデルタール人ほどでは、ないでしょう)の女性が、ネアンデルタール人との混血を身ごもるというエイラの初産のような場合は、かなり難産で、母子ともに危険というのはあるかもしれません。逆なら、結構ありえるというか。

氷河時代の描き方

うーん、かなりいいところいっていると思います。ただ、私は検証できるほどの知識がありません。特に、第四部「大陸をかけるエイラ」のあたりは、小説というよりは、氷河時代の紀行文に近い体裁なんですが、まあよくいろいろ調べたものだという感じでいろいろ考古学的、地質学的な内容がならんでいます。一部には、「だからどうした」というような部分もありますが、、。


小説としてみたエイラのシリーズ

これがなかなか、なんつうか、ありがちな話がかなりあるんですが、小説として、結構よくできていると思います。だいたい、第一部の終わりが、洞穴熊の氏族からエイラが放逐されるところで終わる。そうすると、「ああ、エイラ、これから一人でどうなるんだろう」と思うじゃあないですか。で、第二部の終わりは、エイラとジョンダラーの二人が小旅行にでて、そして、その旅行からもとの洞窟に戻ろうというときに、マムトイ族の人たちと出会う。「ああ、二人はこの人たちとどうなるんだろう」と思う。で、第三部の終わりも、ジョンダラーとエイラが、マムトイ族から離れて旅立つところで終わる。で、第四部は、ジョンダラーの故郷に二人が帰り着いた、「ただいまー!」ってところで終わる。つなぎはうまいです。

ストーリー構成としては、うーん、第二部、第三部がよくできていて、第二部は、ジョンダラーの話とエイラの話が三冊のうち、上巻中巻までは完全に別。ただし、話は、交互に語られているので、エイラの話で「おおおお、こうなるのかぁ?」と思うと、ジョンダラーの話になる、で、ジョンダラーのほうが「さーて、先はどうなる?」と思うと、エイラの話になる。その交互なところがすごくて、最後は、だんだんと交互の入れ替えが頻繁になって、二人が出会うところで、一つの話になる、っていうところですね。この構成はかなりにくい。それから、第三部では、ずっとずっとマムトイ族の中での話で、しかも、ジョンダラーとラネクとエイラの三角関係がベースでがんがん進む。これまた、どうなるどうなるで、「最後はジョンダラーとエイラがくっつくことはわかってんだから、早くくっつけろ!」といいたくなるくらいひっぱるひっぱるで、で、しかも、その間にいろいろな話が絡んでくるあたりが結構おもしろい。でもって、三角関係の中で、二人がそこから逃れようとする思いが、一方で、レーサー(エイラの洞窟でうまれた仔馬)の調教へとつながってみたり、あるいは、ウルフ(仔狼)を育てる話になってみたり、といろいろ複雑。これはこれでなかなか。

で、一方、第四部は、結構単調です。単調さを覆すために、あっちこっちで、いろいろな部族を登場させてはいるものの、いまいち納得性がない。アッタロアなんぞというかなり精神の病んだ女酋長などを登場させてみたりしてはいるものの、このストーリーも、そりゃないだろうと。

男と女が性行為をしてそれが子供を作るというような知識は、それこそかなり遺伝的、先天的といってよい話で、男なんていなくても子供が作れる!なんて思う場合があっても、それはあんまり納得できる話にはならないと思います。

ただ、まあ、その、氷河時代の中でも、後の戦争とか奴隷制度とかそういうのの萌芽となるようなものが新人の文化社会の中であり得た、というのは、結構うまくできているのかな。

で、第四部は、いろいろな部族との出会いはありますが、その出会いの間は、氷河時代の紀行文とエイラとジョンダラーの愛の営みが中心になるので、ストーリー性はいまいち。さらにいえば、最後のほうになると、ストーリーがはしょりまくりで、実際のところ、ランザドニー族の話は、もう少し長くしっかり描いたほうがおもしろいだろうし、また、ランザドニー族を離れて、ヒンニーが馬の群に戻ってしまうあたりは、なんか、エイラの反応がいまいち変。もっと必死になるかもしれないし、ヒンニーが戻ってくるにも、もっと時間がかかりそう。という意味では、最後の2章は、しっかり書いてほしい。4倍くらいあってもいいです。

っていうわけで、おもしろいのは、いまんところ第二部と第三部です。だから、第一部だけでやめてしまうのは、ちょっと惜しいかも。とにかく、読み出すと、先はどうなるのか、きっとこうなるだろうが、そこまでいたるにはどうなるのか、と思う要素はちゃんとあるので、結構楽しめます。ストーリーの構成要素そのものは、結構ありがちなものが多いのですけれど

第五部に関して

さて、第五部ですが、小説としては、まさに、アメリカのテレビドラマ的で、全体を流れるストーリーは、ゼランドニ族のもとにジョンダラーとともにやってきたエイラが、かれらのところで受け入れられ、やがて、夏のキャンプでの結婚の儀式でジョンダラーと結ばれ、そして、いろいろあるけど、キャンプからもどってきて、冬の終わりに女の子の赤ちゃんを出産、そして、やがて、、、っていう程度の話です。そこに、いろいろあって、狩りをするときに、運悪く死んじゃった人の葬式とか、エイラがきたときに意地悪する女の話とか、シャーマンであるゼランドニとエイラの哲学的な問答とか、さまざまな話がありますが、たぶん、ちょうどこれ一つ一つが、1時間くらいのドラマにできる内容ですので、全部で、だいたい10話くらいでドラマになるんでは。

英語で読むのはそれなりにつらいんだけど、まあ十分に読もうと思わせるだけの話のおもしろさはあるんで、いけると思います。あと、言語としては、ちょっと英語があまりにも、テクニカルライティング的で、文学的ではない。きわめて普通の英語ですね。古さやいかめしさや神聖さを出すような文章ではないです。ただし、ハリーポッターはまじで悪文って感じなのですが、こっちは読みやすいことは読みやすい。ただし、よくみると、なんか決まり切った言い回しが多いので、ちょっと単調な感じもする。

あと、第四部と共通して、話は最後になるとはしょりまくり、ってところがあります。っていうか、最後の百ページで、夏のキャンプからもどって、そして冬をむかえて、子供が産まれて、さらにヒンニーも子供を産んで、となるんで、最初のうちは、それこそ毎日が一つの話になるような感じなんですが、だから、最初の10日分くらいが、かなりのボリュームがありますが、最後は、どんどん話が進んでしまうっていうあたり。

それから、やっぱり、第4部までは、基本的に旅の話でしたが、第五部は旅じゃないので、その意味ではちょっと面白くない、っていうのがあったかも。ただ、まあ、エイラという存在はなかなかうまいキャスティングであって、つまり、エイラは、ネアンデルタール人によそ者として育てられ、すっかりネアンデルタール人の風習を身につけた上で、クロマニョン人の生活に触れる。そうすると、彼女が、ネアンデルタール人の目でみることもできるし、また、その比較もできるし、さらに、マムトイ族の経験もあるし、ってことで、つねにアウトサイダーとして、文化を語ることができるんですね。で、逆にアウトサイダーだから、内部のこまごました風習を破ることもできるし、また、それが許される。そうしていくと、そこにいろいろな発明も生まれるし、比較文化論も生まれるし、そこから真実も生まれるという形で、話が進むわけです。これはうまい設定です。もっとも、彼女のような存在が仮にあったとしたら、そしれあれほど賢いなら、もう、氷河時代が終わるころには、人間月にいっていたんじゃないかと思えるほどですが。まあ、このシリーズ。結局、最初の、エイラが、ネアンデルタール人に拾われて、しかも、育てたのが、そのネアンデルタール人の部族の、「薬師」だったというのが非常によい設定で、しかも、その薬師と、ネアンデルタール人のシャーマンたるモグールの存在などもあって、エイラが、最初から、「貴族」のようになっていくというあたりがあります。だから、マムトイでも、貴族的に扱われ、でも一方でよそ者で、というか、これが、このストーリーのすべての始まりでしょう。

さて、第六部で完結とのことですので、うーん、もうちょい旅してほしいですね。どうせなら、もとの黒海沿岸まで、家族3人の旅!みたいな。ジョンダラーの母の夫のウィルマーは商人ということなんで、だったら、またそういう長距離旅行をしてもよいじゃないですか。どうせ馬も増えるんだし。感じとしては、狼がもう一頭増えるんじゃないかと思うし、また、馬もさらに二頭くらいふえそうです。ゼランドニーの一部が、大騎馬軍団をつくって、やがて、それが、ローハンになったとかいうのもありかも。


そのほかの情報

新訳の情報

集英社から、新訳版がでるようです。詳しくは、リンクをごらんいただくと、音楽つき!ですが、つまり、エイラとジョンダラーの愛の営みについて、そもそも「児童文学」として訳された場合は、ずいぶんとカットされていたので(おいおい、本当か?あれでずいぶんカットされているのか)、今度は完全訳をしてもらうことになった、というもの。題名もずいぶん変わるし、たぶん、登場人物の名前なども変わったりするんじゃあないかと思います。

一応、新訳版の題名を書いておきますが、ことごとく、評論社のと変えようという感じがしますね。直訳には近い感じがしますけれど。

第一部の映画版について

イギリスで、1986年に映画化されています。みてみたいのですが、日本でふつうに見えるのでしょうか。うーん。映画も含めた英語のページもあります。題名は、"The Clan of The Cave Bear" で、監督は、Michael Chapman, Ayla 役の主演は、Daryl Hannah だそうです。DVDでも発売されているようですが、日本ではどうなのかな、手にはいるのか、、。

映画版入手!見ました

さて、どういうものかというと、しょーじきタルい。やっぱり、第一部は、ネアンデルタール人のもとで過ごすエイラの話ですから、うーん、ストーリーがない。いや、もともとストーリーはあるんですよ。ところが、それをビジュアルにするとなると、そうはいかない。小説で読むとおもしろいのに、映画になると、もうこれはなんつうか、やっぱり原始人映画になってしまう。まず、設定上、ネアンデルタール人の言語は手話中心というのがあって、結果として、映画でも、手話中心なんだけれど、で、そこに、字幕が入ると。それだけ。で、あとはナレーションで済ませることになる。

ストーリーは、原作にかなり忠実ですが、一部違っているところもあります。あと、作ったのは、1985年ということですが、やっぱり、なんていうか、SFX的には、古いのか、それとも金がかかっていないのか。だいたい、ネアンデルタール人があの程度の外観だったら、ニューヨークの地下鉄でも問題ないと思えるほどだし、あれじゃあ、クロマニョン人とまざっちゃいますね。

ってことは、やっぱり、第一部は小説におまかせして、非常にはしょったものにして、第二部から映画にすれば、おもしろい映画になったのでは、と思うんですが。

どうころんでも、原作のおもしろさは出てこないし、ビジュアルにならないということがよくわかりました。これじゃあ、日本で発売されないはずだわ。

今回は、元祖のアマゾンで購入しました。日本語版のamazon.co.jp では、全く手に入らないとのことでして、うーん、このあたり、互いに連携してほしいぞ。BBCのWalking with Cavemen のほうは、ちゃんと日本語版のamazon.co.jp から購入可能なのに、、、。 で、もちろん、リージョンコードがかかっていて、普通のDVDプレイヤーではかかりません。で、結局、パソコンで、PowerDVD で見ました。Walking with Cavemen も今届いたので、見よっと!



アリューシャン黙示録

とりあえず、ここに間借りです。まだ読み終わって24時間たっていませんので、一応、章立てもせずに、エイラのページに間借りして、ずらずら書きます。

エイラのシリーズで、感動したので、その手の小説ってことで、ちらっと本屋でさがしたら、あったので、読もうかどうしようか、といろいろ考えていましたが、とつぜん、近所のBookoffにいったら、全部そろっていたので、だいたい半額で買えるし、ってことで買いました。日本語版での題名は「アリューシャン黙示録」となっていますが、英語版では、"Ivory Carver Trilogy" というそうで。

エイラのシリーズは3万年前のヨーロッパですが、こちらは、9000年前のアリューシャン列島からアラスカ半島が舞台です。ヨーロッパを横断するエイラやジョンダラーに比べて、ちょいとスケールが小さいので、ストーリーはさくさく進む感じがします。

一応、年代としては、ちょうどヤンガードリアスが終わったころだから、温暖化が始まったころの時代ということでしょうかね。早い場所では、農耕が始まりつつあり、一応、新石器時代の曙という時代の物語です。物語は、三部形式で、日本語版では、それぞれが、上下に分かれているので六冊になります。英語版は三冊ですね。 まずは、ストーリー紹介から。

第一部 母なる大地 父なる空 -Mother Earth Father Sky-

第一等族の黒曜石と呼ばれる少女は、アリューシャン列島のとある島で平和に暮らしていたが、たまたま、村からちょっと離れて歩いていたら、その間に短身族の集団に村がおそわれ、自分と、幼い弟の坊やを残して、皆殺しにされる。村人たちの埋葬を終えても、生き残った弟がいる以上、死ぬわけにも行かず、村のある浜辺を離れ、別の島へと向かう。そこで、古に遡るという名の一人暮らしの老人に会い、しばらくそこで過ごす。弟の坊やは、すぐに死んでしまう。しかし、古に遡るとともに静かに暮らす生活は決して悪いものではなかった。古に遡るは、様々な動物の歯を材料に彫刻をするものだった。その彫刻のすばらしさに多くの者たちは、彫刻には命が宿ると信じている。

二人が暮らすところに、かつて黒曜石の村をおそったのと同じ短身族の殺し屋と呼ばれる男が来て、二人を監禁し、黒曜石には妻となるように強要する。なんとか殺し屋を殺して、自由の身になるが、黒曜石は殺し屋によって身ごもった子、ナイフを生む。

同じ第一等族の筋肉と呼ばれる男と、その一族がやってくる。この一族は、津波で崩壊した村の生き残りだった。やがて、筋肉の一族とともに、古に遡るの浜辺に村を作ることになり、黒曜石はナイフと、筋肉の子血を育てることになり、やがて二人は結ばれる。

短身族が、西の島に住むクジラ狩り族をもおそう計画を立てていることを知った黒曜石たちは、クジラ狩り族のところにいき、そして、ついに筋肉の一族(アザラシ狩りの一族)とクジラ狩り族が、攻めてきた短身族との壮絶な戦いをする。

第二部 姉なる月  -My Sister The Moon-

アザラシ狩りの一族は、そのまま古に遡るの浜辺に住み着いた。ナイフと血は、兄弟として育てられる。物語の主人公は、筋肉とともにやってきた、灰色の鳥と青い貝殻の夫婦の娘、誰に移る。父親である灰色の鳥から虐待されて育った誰は、初潮のときまで名前も持たない少女だったが、密かにナイフを愛していた。しかし、彼女が生まれたとき、彼女を殺そうとする灰色の鳥から彼女を守るために、筋肉は自分の息子血と彼女を婚約させていた。黒曜石の母が、クジラ狩り族の族長多くのクジラの子であったため、その縁で、ナイフは、アザラシ狩りの一族から離れ、クジラ狩りを習うために、クジラ狩り族へいくことになる。生まれたときの婚約によって、血と結婚した誰、しかし、クジラ狩り族の浜辺へ向かうことになったナイフのために、血は、一晩だけ誰をナイフと過ごすことを許す。

ナイフが、クジラ狩り族のもとに行き、クジラ狩りを学んでいるうちに、誰の弟、外にいる者は、姉を、セイウチ狩り族のところに拉致していき、奴隷として売りつける。それを知らないナイフにも、近くの火山噴火という災難にあい、それがナイフのもちこんだ呪いではないかと疑われ、クジラ狩り族のもとで結ばれた妻、三匹の魚と、仲良くなった子分のような子供、ちいさなナイフとともに、アザラシ狩り族のもとへ逃げ帰る。しかし、故郷の村も、火山にやられ、誰一人残っていなかった。しかし、ようやく、別の浜辺に逃げていたアザラシ狩りの一族と合流する。

誰は、もともと父の灰色の鳥が、古に遡るが彫刻をしているのをまねて彫刻をするのを見ていたため、自分でもいろいろ彫刻をすることができた。誰は、セイウチ狩り族のところで、双子の子、第一と第二を生む。第一はもとの夫であった血にそっくりで、第二は愛するナイフにそっくりだった。しかし、双子は呪われているため、どちらかを殺さなければならないと言われた誰は、弟の外にいる者とともに、セイウチ狩り族のもとを逃げ出し、交易商人の浜と呼ばれる浜辺に逃げ込む。そこに、誰を買い取ったセイウチ狩り族の大鴉が追いかけてきて、外にいる者を殺す。しかし、誰は見つかることはなかった。

そこに、火山と津波の被害から、さらに逃げてきたアザラシ狩り族がやってきて、誰は、ついに、ナイフや血、そして自分の一族のものたちと再会するのであった。しかし、それもつかの間、大鴉はまたもその島にやってきて、ついに、誰の夫である血との決闘になり、そこで、血は殺される。ナイフもまた大鴉と対決するが、そこに誰がやってきて、自分は大鴉のもとにいく、といって、浜辺を去る。

第三部 兄なる風  -Brother Wind-

交易商人の浜辺で暮らすアザラシ狩りの一族であったが、誰の父灰色の鳥は、シャーマンになるといって他の村人から盗みをするようになり、ついに村を追放される。その後知り合った商人たちと、クジラ狩り族のもとにいき、自分を追い出したアザラシ狩り族、とくに、すでに族長の立場にあるナイフを殺そうと策略を練る。

誰は大鴉のいるセイウチ狩り族のもとにいくときに、息子の一人第二だけは、アザラシ狩り族のもとにおいていった。第一だけをつれた誰は、戻ってみると、大鴉の妻から疎まれ、さらに、大鴉がシャーマンになるべく、北の川辺族のシャーマンのもとに交易にむかったあと、セイウチ狩り族のもとから追い出される。そして、なんとか故郷に戻ろうと、第一をつれ、徒歩で、交易商人の浜辺をめざす。

ナイフは誰を奪還するために、大鴉との勝負の機会をうかがい、そして戦いの鍛錬をつむ。大鴉は川辺族のシャーマンに、彫刻とシャーマンの才能がある誰を売り込もうとし、誰をつれに戻ってみると、誰はすでに追放されていたことをしり、自分の妻、レミングの尾を誰だと偽り、かつ、レミングの尾との子、ネズミを第二と偽って、さらにハマウド族(第一等族の一派)のところで、赤ん坊を買い、それを第一として、シャーマンに売り込む。たまたまハマウド族のところまで到達し、行き倒れになっていた誰と第一は、大鴉が来ていることを知り、隠れているが、たまたま第一がレミングの尾にみつかり、拉致される。誰はなんとか単身、アザラシ狩り族のもとに戻る。

大鴉は川辺族のシャーマンのところで、自分の妻、レミングの尾を誰と偽り、シャーマンに売り込み、ようやく、川辺族のシャーマンからシャーマンの秘術(たんなるトリック)を学ぶことができた。大鴉はすでに誰は死んでいるものと思っていたが、自分がつれてきた赤ん坊の一人が第一であることを知り、誰も生きていると知り、奪還を目指す。そのころ、犠牲をはらいつつも、ナイフと父の筋肉は、なんとか川辺族のシャーマンのところから、第一を取り返す。レミングの尾は、大鴉が去ったあと、シャーマンに自分が誰でないことがばれたため、シャーマンの家に火を放って、焼き殺す。これに怒った川辺族は、大鴉のセイウチ狩り族の村をおそうことになる。しかし、そこには、かつてアザラシ狩り族のもとを追い出され、クジラ狩り族のところに身をよせていた灰色の鳥、改め哀れみが、クジラ狩り族を挑発して、アザラシ狩り族をおそうために、仲間をあつめに来ていた。大鴉は、誰がアザラシ狩り族のところにいるとしり、クジラ狩り族とともに、交易商人の浜辺へ、向かう。川辺族はセイウチ狩り族を襲うが、大鴉はいない。

こうして、最後に、アザラシ狩り族の住む交易商人の浜辺に、クジラ狩り族とセイウチ狩り族の大鴉の手下たちからなる連合部隊が襲いかかる、、、。やがて、、。

感想

どひゃー、悪い連中ばっか。エイラに登場する人たちは、もうその中の最悪の部類のひとでも、かなり人がよかったと思えるほど、凶悪な悪人が大量に登場します。その中で、本来、殺し屋の血をひく子であるナイフは非常に正直な人間として育ちますが、しかし、筋肉の子であり、兄弟として育てられた血とは、かなりの争いを経験することになるし、また、健気に生き続ける誰も、ときには、かなり強烈な個性を発揮するなど、人間のもつ善悪が非常に強烈にでている作品でしょう。

先史時代を舞台にしていますが、最初、古に遡ると黒曜石が殺し屋に監禁されているところなどは、アメリカのB級映画によくあるようなシーンで、ちょっと「現代的っぽい」かな、と思ったり。読んでいて、かなりイタイ小説でした。

ストーリーは、最初の出だしからして、殺人が炸裂なんですが、なんとなく、エイラのシリーズの冒頭とも似たところがあって、一族が死んで、黒曜石一人だけが生き残るというのはそっくりだし、また、自分の意にそわない男に犯されて、その子を身ごもるというあたりも似ているわけで。ただ、第二部になると、そこから先は、つねにほのぼので良い人たちに囲まれて、次第に美しい女性になっていくエイラと比べると、凶悪な人間たちに囲まれる誰のストーリーは、かなり強烈です。読んでいてイタイです。でも、イタイ中で、誰が、父の虐待でもった心の傷が逆にいやされて、強い女になっていく、っていうあたりはなかなか壮絶。でも、やっぱりイタイ話だな。

ストーリーは、やや整合性がなく、子供がいきなり育っていたり、なかなか育たなかったりとちょっとわかりにくい。また、翻訳でも、妹と姉とかが間違っていたりするので、読んでいて面倒。とにかく、いろいろな人がいろいろとからみ、かつ、その一人一人が、後の伏線になっているので、ストーリーは複雑です。

最後の「大戦争」は、まったくどうなることかと思いましたが、あっけなく、うーん、実は、この小説に期待していたのは、ここんところで、つまり、先史時代の「壮絶な戦い」とはなにか、というのを知りたかったところがあるんですが、でもやっぱり、たかだか、数十人の人たちの戦いってば、いまいちかも。まあ、当時の人口密度からすればそういうものかな。

強烈な印象をもつ登場人物の中でも、誰の父である灰色の鳥(改名後は哀れみ)は、その中でも最たるもので、自己中心でなんでも人のせいにしつつ、ペテン師としては一流で、最後は、クジラ狩り族全員を説き伏せて、アザラシ狩り族を攻撃するようにし向けます。

セイウチ狩り族のもとに嫁入りした第一等族のおばさん、おばあさん姉妹のようなちょっと超能力があるような人が出てきたり、また、それぞれの登場人物が自問自答するときに、精霊との会話という形式になっているあたりが、若干超常現象ですが、これも、まあ、とくに超常現象としていうべきほどのものではありますまい。

新石器時代初期って意味では、十分現実的な設定で、考古学的な内容と矛盾するものでもなく、まあ、このあたりはしっかりやっていますね。エイラのシリーズとも共通する、アメリカの「原始時代小説」の流れがここにも見えます。

エイラが日本語版12巻(英語版では4巻に対応で、現在は5巻めが出ている)に対して、こちらは、日本語版6巻(英語版は3巻)なので、テンポはよいし、無駄な描写もありません。そのくせ、詳しいシーンはかなり詳しくなので、小説としての完成度はこちらのほうが高いでしょう。

とはいえ、やっぱり、話はイタイなぁ。 関連ページとして、著者のページがあるようです。 スー・ハリスンのページ なお、このアリューシャン列島の第一等族については、どうやら日本語版は出ていないようですが、ほかに、Story Teller Trilogy というのもあるようです。

うーん、もうちょっと明るい話で、楽しい氷河時代の小説がほしいな。

ちなみに、ですが、この小説での人名は、たとえば、第一部のヒロインは黒曜石という名前で、日本語版の字面では、<黒曜石>となっていますが、こういうカッコがないと、どれくらいわかりにくいだろうと思って、カッコなしで書いてみました。で、そうなると、英語版は黒曜石にあたる Obsidian という名前なのか、と思ったら、Chagak というのがヒロインの名前で、たぶん、これは、アリュート語かなんかでしょうかね。とすると、たとえば、ナイフの妻の三匹の魚も、最初は、three fish かと思ったけれど、その部分、もしかしたら、英語ではないのかも。とすると、英語の人はいかにも固有名詞で読んでいるが、日本語版は、チャガックとかにならず<黒曜石>だからかなり印象が違うように思います。誰も、who じゃないのかな。まあ、今後みつけたら、一応原作も部分的に読んでみようかと思います。


Last modified: Fri Nov 12 02:16:55 JST 2004