Self-introduction

自己紹介


もくじ

はじめに
近代の自己紹介
中世の自己紹介
自己紹介の機能
自己紹介のパターン
自己紹介からわかること
最後に


はじめに

自己紹介というタイトルだから、おにりんの自己紹介かというとそうじゃない のです。「自己紹介」についての話。自己紹介ってなんだろうってことです。

あなたが、もし、初めて会った人に、自分がどういう人間かというのを示すと したら、どうしますか?っていうのが最初の質問です。たとえば、「私は、A 社営業のものです。」といったところで、A社というのが相手がわかればよい ですが、A社というのが、それほど有名な企業でもないなら、相手の人は、そ のA社がどういう種類の企業なのか、とか、そういうのを知りたくなるかもし れません。たとえば、精密機械の製造販売をしているA社とかいえば、相手も 「なるほどなぁ、」と思ってそこで、納得するかもしれません。

じゃあ、納得する自己紹介っていうのは、いつでもどこでも同じなのか、って 考えると、そうじゃないでしょう。インターネットの発達とかで、インターネッ ト上での活動が、自分の会社での仕事や大学での専攻みたいなのと無関係な趣 味のことだったりしたら、その趣味の話における自己紹介があってもよくて、 たとえば、ゲーム、それも、美少女ゲームなんてやっているオタク系の人たち が集まる場で、自己紹介するなら、「私は、エルフ系で、同人やっていて、CG だと、ロリ・プニ系はだめですねぇ。やっぱり、ムラムラくるような系統じゃ ないと。」とか「私はリーフ系で、ダークな方向のサイドストーリーで同人やっ てます。」 なんていう一般人には意味不明なものが自己紹介としてふさわし い場合もあるでしょうしね。もちろん、そういう場でそんな自己紹介をしてい る人でも、会社の仕事で、初対面の相手にいきなり、「やっぱり、ウサミミよ りは、エルフミミでしょう。」なんて話をしているなら、よほど変な人で、た ぶん、そういう場では、ごく普通に、「精密機械製造販売のA社の営業のもの です。」なんていう当り障り無いような自己紹介をしているに違いない。

で、もちろん時と場合に基づく自己紹介があるんですが、これが日本のずっと ずっと昔、たとえば、平安時代の終わりから鎌倉時代ごろ、ってことだと、当 時の武士たちが、戦場などで、名のりをあげているわけで、これまた一つの自 己紹介です。「垣武天皇N代の皇孫、Xの子のYとは我のことなるぞ!」なん ていう名のりが、平家物語などに出てきますね。この当時の人は、もちろん、 企業に所属していたはずはないので、会社名と職種などを名のってもしょうが ないですが、たとえば、「Xの国、Yの荘の代官」とか、そういう名のりもあ りえそうですが、どうも、当時こういうことよりも、「X天皇から数えてN代 の皇孫」とかいうほうが、通用したようですね。

まあ、結局のところ、時代、時代それぞれで、自己紹介の方法も違うんですけ ど、でも、なんか一つ非常に簡単な原則だけは貫かれているような気がするの で、その辺を、見て行こうと思うわけです。


近代、現代の自己紹介

近代、現代の自己紹介。まーず、相手の趣味も立場もわからず、とりあえず、 自己紹介するときに、どうしましょう?最近では、いろいろな理由から自分と いうものがなにものなのかを、いったんは隠したほうが良いという可能性もあ るので、警戒して、あんまり自分の身を明かさないという場合が多いかもしれ ません。「ええ、東京で学生やってます。」とか、「いちおー、社会人なんで すけどね、仕事のほうは、まあ、その適当でぇ。」なんていう無責任な自己紹 介をしている人も多いかも。

まあ、じゃあ、それほど警戒する必要もないってことだと、なんとなく最初に もってくるのは、会社員なら、会社の名前を名のり、その会社のどういう部署 で、どういう仕事なのか、っていうのを簡単に説明するのが一番無難っていう ことはあります。会社といっても、有名企業だと、相手がすぐにわかりますが、 そうでない場合は、まず、自分の会社がどういう会社かを説明する必要もある ので、どーんと有名な企業の名前をいって、その会社の孫会社だとか、あるい は、その有名会社にたいして、何かを独占的に取引している、とか、そういう 説明が必要になることもあるでしょうし、会社の種類、事業内容を説明するの も良いでしょう。会社員でない場合、たとえば、学校の先生だったら、「X県 で、公立高校の教師です」なんていうと、結構わかりやすい自己紹介になるで しょうか。

日本では、とにかく、名刺交換って結構しょっちゅうやることなので、だいた い、こういう自己紹介の内容が、名刺に刷り込まれているわけです。有名企業 だと、社名だけで、そのあと部署名や役職がかかれている。小さい会社だと、 それでは意味不明なので、扱っている商品がかかれていたり、事業内容などが 簡単に紹介されていて、一種広告のような形にもなっている。だから、社会人 が仕事上のお付き合いで、初対面の人にたいして、名刺交換をするのは、非常 に簡単な自己紹介方法でもあるわけです。

とりあえず、名刺にかかれているようなものが、その場において、一番わかり やすく、無難な自己紹介法だとすると、結構恐い話もあるわけです。なんてい うか、その名刺にかかれている内容などは、結構社会的な意味での、その人の ランク付けみたいなものに関わってきます。有名企業の社員であるか、その企 業の子会社の社員であるか、あるいは、孫会社なのか、無名だが、非常に重要 な事業をしている企業の社員なのか、などといったことで、その人のランクが わかってしまう。あるいは、ランクだけでなく、信頼度みたいなものまで変る。

で、こういうことだから、名刺に書くようなことは、一般にいろいろな規制が あって、子会社の社員が本社社員であるかのようにみせかけるようなことはで きないし、それは、本社が許さないだけでなく、自分からもそういうことはし ないとか、そういう社会的な規制があって、暗黙のうちにそれが守られていて、 かなり絶対的ななんていうか、権力構造みたいなものすら見えてしまうわけで す。

まあ、人間の上下関係なんて本来ないとかなんだとかいうけれど、こういうこ と一つで、その人間の社会における位置づけっていうのがきちんとされてしま うわけで、これは、やっぱりちょっと恐い話ではあるような気がします。

もちろん、これは会社員に限ったことではなくて、もろもろで、そういう肩書 きというものが、それぞれ組織の中でのランクと、そして、その組織そのもの のランクを示して、それが、社会の中でのランクみたいなものを示してしまう。 公務員でも、学校の先生でも、そうです。たとえば、専業主婦とか、家事手伝 いの女性なんていう場合でも、専業主婦ならその夫の職業、肩書きが、また家 事手伝いなら、父親の職業とか肩書きなどが、その女性個人のランクに影響す るようなことがある。

結局、自己紹介というのは、きちんとやってしまうと、その人の社会における 位置づけをきっちり明示してしまうわけで、だから、曖昧にしたくても、曖昧 にすることを許さないような社会的な規制すらある。もちろん、状況によって は詐称することもあるでしょうけれどね。でも、詐称はやっぱり許されないと いう規制が社会的にあって、しかも、それが心理的にも作用するから、人にた いして、自己紹介せよと命ずること自体も、結構大変な残酷なことである場合 もあるということです。


中世の自己紹介

では、中世だとどうだったか、というと、最初にのべたように、平家物語など では、どうやら、中世の武士は、基本的には系譜にあたるものを示すことで、 自分の自己紹介、っていうか、名のりを挙げていたわけで、だとすると、そう いうことが、逆に中世武士社会の社会におけるランク付けみたいなものと直接 につながっていた、と考えられるわけです。

つまり、その時代において、当然自分の仕事としての、荘園領主とか、どこぞ の代官とか、そういう役職名もあったかもしれないが、それ以上に、社会的に 重要な意味をもっていたのは、むしろ、「X天皇のN代の皇孫である」とかい うのが、その人の社会的位置づけに重要だったということになります。

だから、平家物語の中でも、互いに戦場で名のったときに、相手にたいして、 「おなじように、皇孫といっても、こっちのほうが、天皇から数えた代数がす くないから、より天皇家に近いぞ!」なんてことで、相手を罵ったりするよう なことがあって、これは、現代的な場面に置き換えれば、「おれは、有名企業 本社直属の子会社の社員だが、おまえは、たしかに有名企業の系列ではあるが だいぶはずれたところの社員じゃないか」なんていって、相手を愚弄するよう なのと似た話で、まあ、はたから聞いていれば、どっちでもいいじゃないか、 それが本人の資質や能力と関係あるのかい?といいたくなるようなこともあり ますけどね、でも、そういうことはわかっていても、やっぱり無意識に名のり を挙げた相手、あるいは自己紹介した相手の社会的なランク付けをしてしまう というのが、あると思います。

で、実際、中世において、「X天皇から数えてN代の皇孫」なんていう名のり にたいしては、かなり規制があったはずで、勝手に、適当なことをいえば、文 句がくるのは当然で、心理的も、社会的規制としても、本当のことしかいえな いとか、そういう残酷なことがあっただろうと思います。

で、時代はだいぶ後になって、江戸時代になって、江戸幕府が開かれてから、 大名たちに、系図を提出せよという命令が幕府から下る。そうすると、正直な ところ、江戸幕府の大名なんて、中世末、戦国時代に成り上がったような武士 がほとんどなので、まともな系図なんて、自分の祖父とかそのせいぜい2代、 3代前までしか届かないし、その祖先なんてものは、しょーもない普通の人だっ たりするので、結局、有名人にくっつけて、捏造された系図が膨大に江戸幕府 に提出されたわけです。

しかも、その江戸幕府を開いた徳川氏にしても、結局のところ、家康の若いこ ろに、いろいろな適当な資料をくっつけて、清和源氏の新田氏流の得川氏に結 び付けておいたので、それで、本来の松平氏はどうやら清和源氏とは関係がな さそうだけど、なんとか、清和源氏ということにして、それで征夷大将軍の地 位を手に入れたりしています。

そんなわけで、鎌倉時代くらいまでは、偽系図とか書くことに対してそれなり の心理的、社会的規制はあったけれど、江戸時代にはいったら、もうそういう のは、互いにわかった上で、適当に作って、それらしくしたということになる わけです。まあ、たいがいの武士は、源平藤橘という有名な4氏のどれかに適 当にくっつけていたのですが、それぞれの本家筋の家もまあ、藤原氏が天皇家 と結び付いていた以外は、ぜんぜん勢力もなくなっていたので、とくに文句も なく、加藤清正が藤原氏にしようが、みんなが大目に見たということでしょう。

逆にいえば、江戸時代になって、大名のランク付けには、その大名の出自や系 図というものがあんまり意味がなく、で、偽系図が横行したのは、「実際のラ ンク付けにふさわしい程度の系譜をもっているべきだ」というような意識があっ て、それで偽系図でそれらしいものを表現しておいて、しかも、その偽系図に たいして文句をいう立場の人もいなかったということです。

ま、そんな中で、たとえば、忠臣蔵で敵役となる吉良上野介の吉良家というの は、鎌倉時代を開いた清和源氏の傍流にして、室町幕府を開いた足利氏の傍流 です。大した勢力もない大名ではあったけれど、それこそ偽系図の臭いがぷん ぷんする徳川氏にくらべても、確実に本当の清和源氏につながる名家であった ために、本来の勢力から考えられるランク以上に高いランクが与えられていた ことはたしかです。

とはいえ、とにかく、江戸時代になると、かなり現代に近づいていて、それぞ れの武士にとっては、どこどこの藩のどういう地位のものである、ということ のほうが重要で、それぞれの藩は、その大名の石高に応じてランク付けされて いたので、その大名が、たとえ古い古い家柄を引き摺っていようが、そうでな くて、戦国時代に成り上がったものであろうが、社会的にあんまり影響はなかっ たわけです。で、それぞれの藩に所属する武士たちは、たしかに、系図をもっ ていたりしたことはあったけれど、その系図が偽でも本当のものでも、それほ ど社会的に意味があったわけではないといえます。

もちろん、現代において、一流企業の就職試験の面接の場で、「私は、垣武平 氏でして、その97代目の皇孫です。」などと言ったところで、それはほとんど 無意味にちかく、せいぜいその人間のみょうちくりんな個性を表しているにす ぎないといえるでしょう。


自己紹介の機能

でまあ、ざっと近代現代的な自己紹介とか名刺の内容とか、中世っていうか、 そういう時代の武士の名のりとか、そういうのを見てきました。何度ものべて いるように、それらは、その自己紹介している個人の性格とか趣向とか、生活 パターンとか、そういうものを示しているわけではなくて、一番重要なのは、 社会における位置づけであるということです。さらに、社会における位置づけ は、どうしても、社会におけるランク付けになっていて、その個人が、社会に おいて、どういう「地位にあるか」をかなり如実に示しているのが、いわゆる 名刺にかかれたことであったり、あるいは、鎌倉時代の武士の名のりであった りするわけです。

もちろん、現在において、中学や高校でクラス替えがあったときに、新しいク ラスで自己紹介する、なんてときは、趣味やらクラブ活動やら、好きな音楽の 傾向やら、そういう社会におけるランクや地位とは無関係な話もするし、また、 大人同士でも、そのようなことを、「一般的な自己紹介」の後にくっつけて、 自分自身の趣向、性格などを話す場合もありますが、でも、それは、少なくと も、社会人になってから後は、やっぱり「つけたし」であって、メインではな い。

自己紹介、名刺の内容、中世武士の名のり、それらすべては、やはり、社会に おける位置づけ、とくに、社会における地位やランクを表していて、その結果 が、恐ろしいことに、その個人の個性や趣向、性格というものとは無関係に、 その個人に対する信頼度や、社会的影響力といったものを示していると言える でしょう。たしかに、社会的に地位の高い人間は、それなりの責任を負ってい て、その責任遂行能力があるというのは、おそらく一般的にはかなり正しい推 測だし、そのような責任遂行能力があることは、その人間がそれほどちゃらん ぽらんではないだろうと推測するのに十分な根拠にはなり得るわけですけれど も、それは、絶対に一致するわけでもなくて、すっごい偉そうな地位の人でも、 たとえば、酒乱であるとか、女癖が悪いとか、個人的な趣向とか性格はまた別 問題かもしれないわけですね。

もっとも、逆にいえば、そういう自己紹介の内容に対してある程度そこから、 その個人の社会における地位やランクが推定できて、さらにそのランクや地位 に応じた信頼度、社会的影響力が推定できて、さらにそれが、その個人の性格 をも推定できるのだ、と多くの人が思っているならば、自己紹介の内容は、そ の個人の性格、趣向といったものとも深く相関していて、それが社会的に機能 しているということなんですね。

だから、現在において、自己紹介で、「私は、清和天皇のN代の皇孫で、、」 というのが、ほとんど無意味なのは、結局、そういう天皇との近さ(それも千 年近い昔の天皇との関係なんで)なんてものは、その個人の趣向や性格とも関 係ないし、また、それが社会的影響力にも直接つながらないということを、多 くの人が思っていると、まあ、そういうことになります。つまり、無意味だと いうのは、無関係だということで、無関係だから、機能を持たないと。

もちろん、今の時代でも、こういうのが好きな人はいますよ。私は「さる高貴 な生まれでして、、」とか。そしてまた、現在においても、企業に就職すると かいうときに、そういう「高貴な生まれである」ということが、全く影響しな いわけではない。

で、現実問題として、今の日本の社会構造の中で、ある人の社会的ランクと、 その人の古代、中世以来の系譜上のランクというものは、弱いながらも、ある 程度は相関があろうと思います。まあ、このあたりは、感覚的な話になります が、文化系、とくに、歴史などをやっている研究者、学者の中には、その名字 からも、またその名前からも、有名な家系であることを表すような人が結構い たりします。奈良時代の貴族との関係はないまでも、中世以来の名族、名家の 系統を引いているような人が、どこぞの旧帝大の教授であったりなんてことは 結構多いことではあります。

ただ、相関があることと、積極的にそれが社会的に意味があることとはだいぶ 違うので、その意味では、現在においては、高貴な生まれであるかどうか、と いうことが、直接、その人の社会的な地位やランクを表すことはなく、むしろ、 現在においては、どういう企業のどういう社員か、どういう公務員なのか、と いったことが、その人の社会的地位やランクを直接表し、それがその人の信頼 度や社会的影響力を表しているということなんです。

で、一方で、特定のコミュニティにおいては、社会的地位や影響力、ランクと いうものが無関係であることも多く、最初のところでのべた、オタク系の人た ちが集まる場合などは、その人が、有名企業の課長なのか、四流大学の学生な のか、そんなこととは無関係に、「私は、リーフ系でずっと同人やってきまし た。」と語ることのほうが、そのコミュニティにおいてはずっと意味があるし、 その自己紹介こそが、その人のそのコミュニティにおけるランクや地位、影響 力を表していると言えるかもしれません。

で、多くの人は、どういう「時と場合」なのかを察知して、それに応じた自己 紹介をしているわけで、それによって、自己紹介が、相手に対してパワーをもっ て、機能するというわけです。


自己紹介のパターン

では、自己紹介の機能についても、わかったので、パターンを調べてみると、 古代中世における系譜を名のる場合も、そして、現在の社会人の名刺に書かれ ている内容も、一見違うのに、共通するパターンがあります。

結局、初対面の人に対して、自分を紹介するには、基本的にまず、相手の頭の 中に自分自身を位置づける情報を与えなければならないので、そこで、まず最 初に、相手が確実に知っているだろうことを持ってくるわけです。そして、そ こから、自分への系統を述べるわけですね。

古代においては、まず、その時代のだれもが知っている、過去の有名人をもっ てきます。そして、その有名人から自分までの系譜を述べるわけです。この良 い例が、埼玉古墳群の稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文です。5世紀末から6世紀 初頭に作られたと思われるこの鉄剣には、ヲワケ臣という人物が、自分の祖先 が、オホヒコであると述べ、そこから、直系で、自分まで、どういう形でつな がるか、というのを、系譜を記述する形で表現しています。オホヒコは、おそ らく、古事記や日本書紀にかかれた祟神天皇の時代の四道将軍であった大彦で あろうと思われます。実在の人物として、3世紀から4世紀の人で、その間が 8代。時代的に考えても、3世紀から5世紀末のおよそ200年ちょっとの間 で、8代ですから、一代25年から30年で結構合います。つまり、5世紀に おいては、3世紀後半に活躍した大彦という人物が、おそらくだれもが知って いるくらい有名な歴史上の人物で、「私は大彦の子孫だ」ということが、その 時代において、社会的地位やランクを示すものであったと言えそうです。

稲荷山古墳の鉄剣は、雄略天皇の時代か、その後ですが、そのちょいと前の允 恭天皇の時代に、その時代に活躍していた貴族たちがそれぞれ適当に自分の祖 先はだれそれと主張して、争いになったので、盟神探湯(手を熱湯に入れて、 その手を入れた人が正しいことを言っているかどうかを調べる、古代の裁判法) をして、きちんと定めたということがあったようですので、かのヲワケ臣とい う人のお祖父さんくらいが、そのときに、かの有名な大彦の子孫であるという ことを、その盟神探湯で勝ち取ったのかもしれないと言われています。

で、中世、って鎌倉時代の初期くらいにおいては、当時すでに、名族として、 源平藤橘というのがあったので(といっても、たとえば、源氏には、いろいろ な別系統のものがあったし、藤原もいろいろな系統にわかれていたけど)、だ いたいはそのどこかから自分への系統を述べるということになります。

そうそう、平家物語に登場する武士たち、源平の合戦といわれているから、い かにも、平氏と源氏が争ったようですけれど、そうじゃありません。源頼朝に したがった、源氏側の下にいた多くの武士は、実際には平氏の系統を引く武士 が多かったし、また、関東一円には、同じ源氏でも、頼朝の清和源氏とは別系 統の、嵯峨源氏渡辺党の一派もたくさんいたので、結局、源平合戦というのは、 垣武天皇の正当の伊勢平氏を中心とする西日本の武士軍団と、いろいろな系統 の関東地方の武士たちの集合体が合戦したというほうが、遥かに正しい表現で はないかと思うのです。でもって、たとえば、源頼朝側についている平氏の系 統を引く武士たちも、別にそれを隠して名のりを挙げているわけではないので、 自分が垣武天皇の子孫の平氏なのか、清和天皇の子孫の源氏なのか、はてまた、 嵯峨天皇の子孫の嵯峨源氏なのか、というのは、源平合戦の両軍どちらに所属 しているかではなくて、まさに、社会的な地位、意味付けとかランクを表して いたのだと言えます。で、実際上、頼朝から三代で、清和源氏嫡流が跡絶える と、一応平氏の傍流といえる北条氏が執権として鎌倉幕府を握るので、後は、 どっちかというと、清和源氏の足利氏や新田氏は結構冷遇されていくという状 況にもなる。

あ、話はそれました。では、その後の自己紹介のパターンは、というと、やっ ぱり、相手が確実にしっているものを最初に挙げて、そこから自分への系統を 説明するというパターンにかわりはありません。江戸時代なら、武士は、どこ の藩の藩士であり、その藩の中でどういう役割をもっているのか、というのが、 浪人武士を除けば、もっとも全うな自己紹介だったと思うわけで、この場合、 有名な藩の藩士なら、だれでも、「ああ、あそこの藩士ですか」とわかるでしょ うけれど、そうでない場合は、何何の国のなんとか藩という具合いに地域を示 して、もうすこし相手にわかりやすくする。

現代だったら、まず相手が知っていそうな、有名な企業とか、あるいは地域名 として、県の名前とか、そういうの言って、それと自分との系統的なつながり を述べる。あるいは、有名でない企業の社員は、地域名以外にも、どういう業 種かを述べたりして、それで、相手に自分の社会的地位、ランクというものを 示すことになるわけです。

そういう目でみると、社会の中の地位やランクといったものが、その人の家系 で決定されていた時代は、まず自分以前の、そしてだれもが知っている有名人 の名前をあげて、そこから自分までの親子関係を説明する、つまり、系譜を示 すことが、自己紹介であって、現代のように、企業や職業が重要な時代におい ては、だれもが知っている県の名前、有名企業の名前などを最初にあげて、そ れから、自分までの系統を、部署やなにかを示して、明示するということにな ります。

ところで、社会での地位やランクという点とは直接結び付かないのですが、系 図をながめていると、結構おもしろいものがあります。たとえば、戦国時代の 九州肥前の名族である有馬氏は、平安時代の瀬戸内海の海賊の頭で、反乱を起 した藤原純友の子孫であることになっています。最近、いろいろな文献学から、 有馬氏の祖先は、藤原純友ではなくて、おそらく、平氏の庶流の子孫であろう とされています。その意味で、有馬氏は、どっかで、この天下の謀反者である 藤原純友を自発的に祖先として選んだわけす。とすると、自己紹介が社会的地 位やランクを示すという機能面は別にして、結局自分を位置づけるためには、 まず、有名な人物を祖先において、そこからの系統を述べるという基本パター ンがまず最初にあるというか、それが重要ということになると思います。

そういう意味では、日本の名家の中に、中国の秦始皇帝の子孫とする人たちも いたり、さらには、古事記や日本書紀に残る、朝鮮半島新羅の王子であった天 日槍(アメノヒボコ)の子孫であるとする人たちもいます。それが本当かどう か別にして、結局、歴史上の有名人から自分までの系譜をたどるというのが、 系図のもっていた基本的な意味であり、機能であったと考えることもできそう です。


自己紹介からわかること

というわけで、どの時代も原則的な自己紹介パターンは共通で、相手にわかる 有名な人、地域、組織を示し、そこから、自分までの系統を説明するというも のであることがわかります。だとしたら、古今東西のいろいろな文献などにの こる、それぞれの人物の紹介記事というものは、そのまま、その時代がどうい う社会体制だったかを、結構明確に表しているとも言えます。

古代の名族の系譜が残っているのは、その時代は、やはり人物の祖先がだれで あったかが、その時代における社会的地位やランクを表すものだったからであ り、平安時代の貴族が署名のときに、貴族としての官位を使っているのは、回 りほとんどの貴族が、藤原氏か、あるいはせいぜい(何系統かの)源氏か垣武 平氏でしめられていた時代においては、祖先から系統も重要であったが、それ 以上に、官位が重要だったということでしょう。

室町時代や戦国時代の武士たちが自分の肩書きとして、上総介とか、武蔵守と か、そういう平安時代の下級地方官吏(国司など)の名前を使っているのは、 結構おもしろいことで、これはたぶん、平安時代の末から鎌倉時代にかけて武 士社会をつくった武士たちの出が、まさにこういう受領階級(国司などを含む) であったことを、表していて、それがたとえ中央の貴族たちとは全く張り合え ない程度のしょーもない肩書きであったとしても、権力をもった武士階級の中 では、十分に意味があったということでしょう。このことは、なんと江戸時代 の大名や、藩士にも使われていて、しかも、国司の位であっても、その本来の 司る国、地域とは無関係に、国司の名称がつかわれています。織田信長は、千 葉県あたりとは、無関係だけど、上総介を名のっていて、しかも、全く根拠も なしに、若いころは、藤原信長と署名していたり、天下をとったころからは、 これまた根拠もなく平信長となのっていたりする。

江戸時代に幕府が各大名に系図の提出を要求したのは、これは決してそれが社 会的に意味があったからではなくて、せいぜい、大名の格付けにふさわしい先 祖の子孫であるというのを明記するためのものだったのではないかと思います。 だからこそ、そのチェックも甘くて、文献に残らない勝手な貴族の子孫とした り、有名な武士の御落胤としたり、まあ、やりたいほうだいの偽系図がたくさ ん作られたわけです。

で、江戸時代には、家系をたどるよりも、どこぞの藩士というのが重要だった ようなんですが、江戸時代が終わって、明治維新で明治新政府が立ち上がった ときに、これまたおもしろい現象が起る。明治2年から明治4年の資料には、 当時の政府の人々の名前が、なんと、本姓で書かれているのです。たとえば、 大久保利通は、「従三位守藤原朝臣利通」と書かれていて、木戸孝允は、「従 三位守大江朝臣孝允」とか、伊藤博文は、「従五位守兼民部少輔越智宿祢博文」 とあって、もちろん、これだと誰が誰やらさっぱりわからないのですが、とに かく、天皇制が千年ぶりくらいに復活したということで、この氏姓制度まで復 活しようという試みが、なんと明治の始めにはあったようですね。このときに、 自分の系譜が、平安時代まで遡っている人などは、京都の公家出身の人くらい しかいなくて、江戸時代の下級武士の出だった伊藤博文あたりが、なにがかな しうて越智宿祢なんて名のったのかよくわかりませんが、まあ、おもしろい話 です。ま、これも、すぐに廃止されたのですけどね。


最後に

ま、なにはともあれ、それぞれの時代に、その社会において個人を位置づける 方法、相手に対して自分の社会的地位、ランクを示す方法、それが自己紹介の 基本的機能であり、それは、相手がまずわかるモノ、人物(祖先)から自分ま での系統を述べるというパターンを持つということがおわかりいただけたかと 思います。

で、そういう目でみれば、それぞれの時代、古今東西の自己紹介がどのように 行われているかを見ることで、その社会における重要な要素がなんであったの かがわかる。

で、そのことがわかってくると、古代人や中世の人にとっては、系譜を示して 祖先から自分までの系譜をたどることが、現代人にとって、会社の肩書きを示 すのと同様の意味をもっていたのだということもわかる。だから、古代人や中 世の人は、その系譜を大事にし、自分がどういう系統のどういう人物なのかを、 ほとんど暗記していたわけです。源平合戦のときには、自分の系譜を諳じるこ とができたわけです。

今の我々は、せいぜい祖父母の名前を知っていれば良いくらいで、自分の系譜 を5代、10代と諳じることなどできるのは、よほどそういうことに興味があ る人くらいですが、一方で、自分が自己紹介するときに、自分の会社の部署名 は、ちゃんと正しく言えるでしょうし、その部署がたとえば、本社の中のどう いう位置づけなのかも、かなり正確に知っているはずで、そのあたりは諳じる ことができるはずです。たとえば、有名企業であるX社の販売リース部門の子 会社のXリース社の営業部第三課の係長であるとか、そういうことは普通、自 分の名刺をわざわざ見なくても言えるわけです。で、しかも、その最初のX社 がどういう企業で、Xリースはどういう事業を専門におこなっているか、そし て、その中の営業部第三課はなにをしているところか、それは、ちゃんと説明 できるわけです。その知識量は、おそらく、10代、20代前の自分の祖先か ら自分までの系譜の知識量と結構似た量ではないかとすら思う。そして、その ことが、自分の社会的位置づけを明確にする方法だとしたら、古代や中世の人 たちは、そのために、なんの苦もなく、自分の系譜を諳じることができたので しょう。今の会社員が、自分の所属する会社についていろいろ知っているのと 同じような理由でね。

だから、古代の系譜は、いろいろな形でしっかり残っている。天皇家の系譜が、 神武天皇から、現代の天皇にいたるまでしっかり残っている。もちろん、中に は、妙な具合いにくっつけちゃったり、つぎあわせたりした作為的変更なども 加えられているかもしれないけれど、その断片としての系譜は、おそらく文字 があろうがなかろうが、きちんと数百年は残っただろうし、8世紀になって日 本書紀や古事記などのf歴史書の編纂が行われたときには、多少の不整合があっ たにせよ、かなりきちんと残っていたものがあったのだろうと思います。げん に、中国の古代、殷代の王の系譜については、千年以上たった漢代に司馬遷が 史記をまとめたときにちゃんと残っていて、その系譜は、やがて殷虚から甲骨 文字資料が発見されたときに、その中に書かれていた系図と本質的に一致した という話があります。また、文字のなかったポリネシアの島々でも、東南アジ アから、それぞれの島々への移動があったあとの系譜が、口伝えで伝わってて、 いろいろな家族のそれぞれの系譜が、それほど不整合ではなく、年代もふくめ て、おおむね正しく伝わっていることも知られています。

結論はどってことないんですが、まあ、簡単にいえば、日本の歴史を考えると きなどに、歴史書としては、古事記、日本書紀とその他いくらもないわけです し、それらが書かれたのは、8世紀に入ってからのことではありますが、おそ らく、そこに書かれた物語、系譜といったものは、その数百年前まで遥かに遡 り得る内容であってしかるべきで、7世紀後半から8世紀にかけての歴史書編 纂事業を行っている時代においては、現代の人が、自分の所属する組織、企業 の事業内容や規模、人員、それぞれの部署がなにをやっていて、自分がどうい う位置づけなのかを、ある程度正確に記憶し、必要なときにいつでも説明でき るようになっているのと同じように、古代の人々は、自分の祖先のやってきた こと、英雄伝、そして、その祖先から自分までの系譜をたどることができたの だと思います。それらは、ところどころに不整合があるかもしれないし、現代 の人が興味あるような、絶対年代でいつごろ誰がどうしたというような話では ないけれど、物語のモチーフ、系譜の概要は、数百年を経ても十分に伝わる内 容だっただろうと思うわけです。

そういう目で見れば、日本書紀や古事記に書かれていることが、すべて後世の 捏造であるなんていうのは、やっぱりおかしな考え方です。それは、まさに、 現代社会において、学歴詐称や自分の経歴を詐称したり、関係ない会社の社員 であるかを装うごとく社会的にも心理的にもタブーであったと考えられるわけ です。

天武天皇(7世紀末)の時代に歴史編纂が始まったとすれば、そこで活躍して いた貴族たちは、多少自分たちの先祖の業績を高めにすることはできたかもし れませんが、それを完全に捏造したり、あからさまな作為的なことをすれば、 それに対して、かならずボロがでるし、また、たとえそれらしく作ったとして も、落ちぶれた古い勢力から批判がでて、それは、そういう捏造などする人の 見識が疑われ、逆に権威を落すきっかけにもなりかねない。

で、結局、そういう意味で、古事記や日本書紀にかかれていることも、しっか り信頼できる部分はあるんだろうと思って、その上で、考古学の成果や近隣諸 国の歴史との整合性を考えて、古代の歴史を復元するのが、やっぱり正しい姿 であろうと思います。

ってことに話をつなげるのに、なんか物凄い遠回りをしたんですが、言いたかっ たことは、古代において系譜とか先祖の英雄伝とかは、今の人が自分の所属す る組織について、いろいろ語れるのと同じような意味があり、だとしたら、そ の先祖の英雄伝などを勝手に作り替えたりするのは、現代において企業や組織 の事業や人員、規模などについて嘘をつくのと同じくらいタブーなことだった だろうという認識をもって、古代の歴史書をよんだら良いのではないかと、ま あ、そういうことを思ったわけです、、、ってことです。


トップページへ戻る