21世紀の邪馬台国論

素人的議論にならないようにするための

論争における基礎知識のまとめ

21世紀を迎えて、 一年が過ぎた。 ここ数年にわたって邪馬台国論争をいろいろな観点から、 素人なりに調べて来た。 そして、 最近になってある程度邪馬台国の輪郭と、 その歴史というものが見えてきたように思う。

ここでは、 最新の考古学の成果や、 文献史学の結果を基に邪馬台国論争について、 もっとも蓋然性の高い説を示してゆきたいと思う。


三国志の「魏志倭人伝」

中国では、 王朝が革命によって変わるごとに、 前の王朝の歴史を記すことになっていた。 その最初のものは、 司馬遷の史記である。 司馬遷は前漢代において、 地方をくまなく歩き、 そして、 資料を集め、 遠く中国の主流となる華民族の歴史を調べ、 そして自分自身が生きてきた前漢までの歴史を綴った。

後の王朝もこれにならった。 後漢帝国の崩壊(220 A.D)後、 中国には、 魏・呉・蜀の三国が鼎立する事態となった。 やがて、 蜀が魏に滅ぼされ(263 A.D)、 そして、 魏の王朝が宰相であった司馬氏に乗っ取られ晋が成立(265 A.D)。 晋は、 呉をも滅ぼし(280 A.D)、 ついに中国は統一を取り戻した。 そのころ、 晋の国では、 蜀出身の文官であった陳寿が、 後漢帝国の崩壊から、 三国の時代をあつかった三国志を著す。 そもそもこの三国志は、 正式な史書としてかかれたものではなかったが、 その内容がすばらしいことから、 史記に続いて、 正史の一つとして加えられるようになった。

後漢については、 晋崩壊後の南北朝時代の南朝宋の范曄が5世紀前半に記した。 内容としては、 三国志よりも、 前の時代を扱っているが、 成立は、 三国志に比べて百年以上後になっている。

その後も、 南宋の沈約より晋書が成立(6世紀初頭)。 以降も、 史書が書かれ続ける。 そうした中で、 陳寿の三国志は、 三国時代が終わった280年からほとんど間をおかずに書かれていて、 陳寿自信も、 三国時代にもっとも先に滅んだ蜀出身の人であることも絡んで、 歴史書というよりも、 まさにその時代を生きた人による記録として大きな意味がある。

こうした中国の史書の中には、 倭という国、 あるいは民族の名前が登場し、 これが、 当時の日本列島のことを表していることは、 昔から知られていた。 三国志の魏志の中には、 中国からみて東方にいる諸民族について書いた東夷伝があり、 その中に倭人について記したところがある。 およそ2000文字で書かれたそれには、 当時(3世紀前半から中葉)の日本列島には、 30余りの国が存在し、 その中の邪馬台国に卑弥呼という名の女王が居て、 魏と外交関係をもったことがかなり詳しく記されている。

邪馬台国と女王卑弥呼のことは、 三国志の後成立した御漢書にも、 三国志の内容をほぼ踏襲する形で書かれているほか、 晋書などにも同じような内容が書かれている。 しかし、 こうした中で、 三国志の魏志東夷伝倭人条(以降、 魏志倭人伝と記す)に書かれた内容は、 著者である陳寿自身の生きていた時代の記録であり、 大変貴重なものである。 また、 東夷伝には、 すでにかなり大きな国家として成立していた、 朝鮮半島北部の高句麗や、 朝鮮半島中部から南部にあった三つの韓国(馬韓、 弁韓、 辰韓)などについてもかかれているが、 東夷伝全体の中で、 倭人について書かれた部分が2000字程度ともっとも記述量が多いのも興味深い。

さて、 魏志倭人伝の内容については、 三国志の著者である陳寿が、 先行するなんらかの書籍の内容をベースに書いたものである可能性が高い。 そうしたものの中で特に重要とされているのは、 陳寿と同時代の人であると考えられる魚豢(ぎょかん)の記した魏略である。 魏略は、 完本としては現代に伝わっていないが、 さまざまな書籍に引用されたものが逸文として残っている。 逸文として残っている部分については、 内容も、 そして、 記述された内容の順番なども魏志倭人伝と類似している。 しかし、 一方で、 邪馬台国という名前は現れないなどの違いもある。 他にも、 いくつか魏志倭人伝に先行する倭について書いた書籍があることが知られている。

参考文献

石原道博編訳 新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 岩波新書
佐伯有清著 魏志倭人伝を読む 上下 吉川弘文館 歴史文化ライブラリー


邪馬台国論争

三国志の魏志倭人伝の内容が知られてから、 邪馬台国の所在地、 そして、 卑弥呼がいったい誰なのか、 といった論争が盛んにされてきた。

三国志が日本に紹介されたのは、 かなり昔のことであり、 日本で最初に成立した正史である、 日本書紀にも、 魏志倭人伝の内容が引用されている。 日本書紀の成立は8世紀前半であるから、 このころまでに、 他の大量の漢籍(中国の書籍)にまざって三国志も日本に来ていたことになる。 以来、 日本では、 魏志倭人伝にある邪馬台国の所在地はどこか、 そして、 女王卑弥呼とは、 日本の神話伝承に残るいかなる女性にあたるのか、 といったことが、 盛んに議論されてきた。

日本書紀においては、 魏志倭人伝にある中国三国時代を神功皇后の時代とし、 卑弥呼を神功皇后に比定している。 後述のように、 魏志倭人伝には、 倭の女王として、 卑弥呼の他に、 卑弥呼の死後即位した台与と呼ばれる女王についても記しているが、 日本書紀では、 この双方ともに、 神功皇后であるかのように引用している。 現在の日本書紀や古事記(以降両者あわせるときは記紀と記す)の内容に関する結果からすれば、 神功皇后が仮に実在の人物であったとしても、 それは、 4世紀後半から5世紀初頭の人物であると思われ、 卑弥呼の生きていた時代、 すなわち3世紀前半とは食い違う。 しかし、 なにはともあれ、 魏志倭人伝を読んだ7世紀末から8世紀初頭の日本書紀編纂者たちは、 いろいろと考えたあげく、 神功皇后を卑弥呼として考えるに至ったのだろう。

その後、 江戸時代においても卑弥呼がだれか、 邪馬台国がどこにあったのかは、 さまざまな学者たちによって研究され、 論争が起こった。 明治期から以降は歴史学の分野で、 卑弥呼をどう考えるか、 邪馬台国をどこに比定するかが、 問題となり、 そして、 昭和、 戦後は、 戦前の皇国史観にとらわれたものから、 科学的に解明しようという動きが加わり、 考古学的の研究成果なども取り入れる形で、 魏志倭人伝の解釈が行われるようになった。

魏志倭人伝には、 当時朝鮮半島にあった魏の植民地総督府ともよぶべき帯方郡から、 倭に至るまでのルート、 そして、 倭の中で、 女王の居所である邪馬台国まで至るルートがかなり詳細に書かれている。 ルート上に存在する国の名前(それぞれの小領域の中心となる都市的な集落を意味しているものと思われる)と、 その国に至るまでの方位や距離や陸路でいくのか、 海路(ないし河川)をいくのか、 ということも書かれている。 これをきちんとたどれば、 邪馬台国の位置はおのずと明らかになるはずである。 しかし、 どこをどう間違ったのか、 このままでいくと、 邪馬台国の場所は、 遠く赤道のあたりまで達してしまう。 そこで、 魏志倭人伝のこの部分の解釈をめぐり、 さまざまな議論がなされてきた。

一方で、 魏志倭人伝には、 当時の倭に暮らす人々の風俗や習慣などについても細かく書かれている。 そこで、 それらの内容と、 神話伝承に残る古代の日本の様子や、 あるいは、 考古学的に判明している当時の日本の様子とのすりあわせも盛んに行われてきた。

参考文献

岡本健一 邪馬台国論争 講談社選書メチエ
千田稔著 邪馬台国と近代日本 NHKブックス
小路田泰直著 「邪馬台国」と日本人 平凡社新書


古事記・日本書紀と邪馬台国論争

邪馬台国やあるいは邪馬台国に居た倭の女王卑弥呼について、 日本の神話伝承などに残っているのか、 それとも、 神話伝承が成立するころには、 すっかり忘れ去られていたことなのか、 なども議論されている。 日本でもっとも早くに成立し、 完全な形で伝わっている文献は、 古事記と日本書紀である。 ここには、 神話時代の話から、 初代天皇である神武が即位した時代、 そして、 記紀が書かれた8世紀初頭までの歴史が書かれている。 果たして記紀に、 卑弥呼に関する伝承が残されているのだろうか。 記紀は、 古事記がやや成立が早いが、 どちらも8世紀初頭から前半に成立している。 記紀にかかれた内容と、 中国の史書などの内容とが整合するようになるのは、 おおむね7世紀初頭以降のこととされている。 随書には、 倭と随との外交記録が書かれており、 随から倭に派遣された人の記録なども書かれている。 日本書紀には、 逆に随へわたった小野妹子らの話が書かれており、 両者は細かい点をのぞけばおおむね内容は一致する。

7世紀初頭ごろからは、 日本のあちらこちらの考古学的な遺跡から木簡や漆紙文書などと言う形で、 文字記録が見つかっている。 つまり、 日本では7世紀初頭くらいから、 文字の本格的な使用が始まったと考えられる。 とすれば、 当然7世紀ごろから後のことについては、 記紀編纂時に、 文字で書かれた記録が存在していた可能性も高い。 おそらく、 それが中国の史書における日本について書かれた内容と、 非常に高い一致を見る理由なのであろう。

7世紀初頭以降といえば、 ちょうど有名な聖徳太子の時代であり、 当時の天皇は推古天皇であったとされる。 まとまった完本としては、 記紀が日本最古の文献となるものの、 推古天皇の時代に書かれた書籍の内容は、 一部、 その後に成立した書籍に引用されており、 これらを総称して、 推古朝遺文という。 これらの内容と記紀の内容との関連についても研究されている。

また、 記紀は、 どちらも7世紀後半代において、 天武天皇が指示して編纂が開始されたとされているから、 当然のことながら、 天武天皇の意向というものが強く反映されている可能性があり、 その場合、 たとえ7世紀後半代に残っていた伝承などが意図的に変容させていたり、 改竄されていたり、 あるいは無視されているなどの可能性もある。 その意味でいえば、 邪馬台国論争で、 特にその内容を記紀と対応付けて考えようとしたならば、 当然、 7世紀の歴史について、 かなり詳細に考えてみなければならない。

7世紀よりも前のことについては、 どうだろうか。 推古朝のはじまる7世紀における推古天皇の親や祖父母にあたる世代のことは、 ある程度信頼できるとする考えが多い。 6世紀前半くらいからの継体天皇から後の時代である。 記紀の内容そのものも、 歴史書として具体的であり、 あまり伝承にたよったようでもない。 また、 日本書紀の中では、 7世紀後半に滅亡した百済人が大挙して日本に亡命してきた際にもたらされた百済における史料、 ないし亡命百済人が日本において記した可能性のある史料などをふんだんに引用している。 このことからして、 6世紀以降の歴史については、 記紀の内容もかなり具体的なものとして信頼できることになろう。

では、 5世紀はどうだろうか。 中国の史書で、 5世紀ごろのことを書いた宋書には、 5世紀の日本(倭)には、 相次いで即位した5人の王がいて、 彼らが、 南朝宋の起こった時期(420 A.D)から、 断続的に宋に朝貢してきて、 宋朝の爵位を求めたことが記されている。 記紀によれば、 この時代は、 仁徳天皇から雄略天皇の時代にあたると考えられるが、 宋書にある5人の倭王が、 どの天皇と対応するかについては、 わからない部分が多い。 倭の五王の最後に登場する、 倭王武については、 おおくの研究者の間で、 雄略天皇であろうとされているが、 他の王については、 まだ一致した見解が得られていない。 また、 仁徳天皇の前の応神天皇の時代から以降、 日本書紀には、 天皇が呉の国(中国南朝を示すと思われる)に遣使した記事が残っている。 この内容は、 中国歴史書における倭の五王の朝貢記事に対応するのかもしれない。 考古学的にいえば、 この時期、 大阪湾岸の河内地方などに世界的にみても巨大な古墳が築かれていて、 この時代の倭王が、 強大な権力をもつ王であったことがわかる。 巨大古墳の数から考えても、 おそらく4,5人の王が存在したことは間違いない。 しかし、 記紀に現れるここの天皇の時代のエピソードなどは、 伝承的なものが多く、 実際の歴史とどの程度対応するかはよくわかっていない。

では、 4世紀ごろの内容についてはどうだろうか。 4世紀のことになると、 もはや記紀の内容はほとんど伝承になっているとみてよい。 さまざまな研究によって、 この時代が、 崇神天皇の時代から応神天皇の時代に対応すると考えることができる。 そして、 記紀の内容からすれば、 崇神天皇の時代には、 天皇の宮殿が主に現在の奈良県の大和、 それも、 三輪山近辺にあったことが記されており、 そのあたりは、 崇神天皇陵に比定されている行灯山古墳や、 景行天皇陵に比定されている渋谷向山古墳などがあり、 これらは、 おおむね4世紀初頭から中葉にかけて築造されたものであり、 記紀の内容と整合する。 また、 この地域から多少北にある石上神宮には、 奇妙な形をした七枝刀が伝わっている。 この鉄刀は、 一度も埋もれたことのないものであるらしく、 ここに記された金象嵌の文字を読むと、 百済と倭との軍事同盟を記念して作られたものであることがわかり、 その時期は、 4世紀中葉から後半である。 このことについては、 部分的に記紀の記述と対応しなくもない。 また、 4世紀末のことについては、 朝鮮半島北方の高句麗の王である好太王の偉業を記した好太王碑文書かれた内容と、 記紀にある日本の朝鮮半島への出兵の記事が、 一部重なるとも言われている。 いわゆる神功皇后の朝鮮征伐というものである。 しかし、 細かい内容まで一致するわけでもなく、 さらに、 これまでの研究により、 神功皇后その人の実在性もかなり疑わしいとする。

こうなると、 卑弥呼の時代の3世紀前半については、 記紀編纂時においてかなり曖昧な伝承しか残っていなかった可能性が高い。 崇神天皇が3世紀末から、 4世紀初頭にかけての天皇であるとすると、 卑弥呼の時代である3世紀前半は、 崇神天皇の前の開化天皇やそれ以前の孝霊、 孝元天皇などの時代に対応することになる。 しかし、 初代天皇である神武天皇については、 伝承的なエピソードがさまざまな形で記紀に書かれているが、 その後の2代目の天皇とされる綏靖天皇からから9代目の開化天皇については、 系譜や婚姻、 皇子らの名前などが記されているだけで、 エピソードらしいものがない。 この2代目から9代目までの8代の天皇については、 歴史的エピソードが記されていないことから、 欠史八代の天皇と言われている。 また、 記紀の中で、 これらの8代の天皇の陵墓とされる古墳は、 考古学的な調査により、 古墳ではなくて、 自然丘であったり、 あるいは、 6世紀ごろの小型の古墳である可能性が指摘されており、 これら欠史八代の天皇は、 伝承上の天皇であったとしても、 その活躍年代が比較的新しい6世紀ごろの人物ではないかとすら言われている。

参考文献

井上光貞他校注 日本書紀 岩波文庫
倉野憲司校注 古事記  岩波文庫
川副武胤著 古事記の世界 ニュートンプレス 歴史新書
前田晴人著 神功皇后伝説の誕生 大和書房
神野志隆光著 古事記と日本書紀 講談社現代新書


神話伝承と邪馬台国論争

卑弥呼の時代、 3世紀前半は、 もはや記紀における各天皇の時代のことではなく、 それ以前の神代のことになるのではないか、 ということになる。 そう考えてみると、 記紀に残る神話の中で、 もっとも有名な神の一人として、 天照大神が気になるところである。 魏志倭人伝には、 卑弥呼が、 邪馬台国の遙か南方にある狗奴国の王、 卑弥弓呼と争っていたことが記されている。 そして、 その戦乱の中で卑弥呼が死んだとも書かれている。 さらに、 最近では、 魏志倭人伝において卑弥呼が死んだとされる247年あるいは、 248年に、 西日本において、 二年連続の日蝕があったことが天文学的な計算によって求められた。 ここで、 記紀に書かれた、 天磐戸伝説が気になる。 弟である素戔嗚尊の乱暴狼藉に怒った太陽神である天照大神が、 磐戸にこもったために、 世の中が暗くなり、 それを、 神々がなんとか外に出すために一芝居うって、 なんとか天照大神を外に出すと、 また世の中が明るくなったというものである。 この伝承の内容は、 魏志倭人伝にある、 邪馬台国の卑弥呼と、 狗奴国の卑弥弓呼の不和とそれに続く天文学的に立証された日蝕、 そして、 2代目女王となった台与の即位との関係で、 興味深い対応を見せる。

記紀の神代について書かれた部分の中で、 非常に大きく扱われているのは、 出雲である。 出雲のオホナムチ(一般には、 大国主命)やその祖先であるスサノオ(素戔嗚尊)の話と、 オホナムチによる天孫系の神々(天皇家の祖先となる神々)に対する国譲り神話などである。 従来、 記紀において出雲神話がなぜこれほどまで重視されているのかが、 わからなかった。 考古学的にみて、 出雲はそれほど重要な場所とは思えなかったからである。 古墳時代においても、 そこに特別な勢力が存在したとも思えず、 また弥生時代においても、 とくに出雲が特別に大きな勢力があったとも思われなかったからである。 そこで、 古代の神話の研究者たちは、 出雲神話の多くを、 かなり後世のものと考え、 6,7世紀ごろの歴史と対応するのではないかとしてきた。 スサノオの神話の中には記紀の記述の上では最初に現れる外国として、 新羅について書かれている。 また、 出雲を含む山陰地方は、 後の時代において、 鉄生産とからむことなどから、 スサノオの神話を6世紀ごろの鉄生産と、 それに関わる新羅との交流を軸に理解しようとしてきた。 また、 さまざまな考古学的な考察などとからめて、 出雲系の祭司が大和の祭司に影響を与えるようになるのも、 6世紀頃ではないかと考え、 この時代に、 オホナムチなどの原型を求めようとしたのである。

ところが、 1984年に島根県簸川郡斐川町神庭西谷の荒神谷遺跡から、 銅剣が358本も発見された。 さらに、 1996年には、 この荒神谷遺跡から数キロにある加茂岩倉遺跡から、 銅鐸が39個も発見された。 この二つの遺跡の時代は、 およそ弥生中期中葉から後半くらいと考えられ、 このことから、 弥生中期後半ごろ(およそ紀元前1世紀ごろ)において、 出雲に大きな勢力があった可能性が出てきた。 以降、 出雲神話の信憑性がかなり「高いのではないか」とする考え方をする人が増えてきた。 こうなると、 記紀神話全体が、 なんらかの史実を反映しているのではないかとすらいわれるようになってくる。

こうして、 記紀神話の内容が場合によっては、 紀元前にもさかのぼる可能性が示されたことで、 魏志倭人伝の卑弥呼や邪馬台国についても、 なんらかの神話伝承として記紀に残っている可能性が高くなったと考えられるようになった。

しかし、 現在もうすこし冷静になって考えてみると、 たとえ記紀神話の中になんらかの史実が込められているにしても、 それらは、 記紀に記載されるまでの数百年の間に大きな変容をうけているはずだし、 また、 神話伝承の史実的な意味での順序なども、 記紀にある時代順に配列されているわけではないとするべきこともわかってくる。

最近の神話伝承に関する研究成果をみると、 やはり記紀にある神代の神話伝承の多くは、 その史実の核となる部分が、 かなり歴史的内容としてわかる記紀の6世紀ごろの史実である可能性が高いとする見方が多い。 実際、 仁徳天皇の時代は、 5世紀初頭と考えられるが、 仁徳天皇が行ったとする河内平野の治水事業についても、 最近の考古学の研究によれば、 ほとんど7世紀初頭のことであり、 したがって、 推古朝、 聖徳太子の時代に、 河内平野の治水事業が推進されたものが、 5世紀初頭に仁徳天皇が行ったという伝承になっていたことがわかったのである。

そうなると、 やはり記紀に残る神話伝承と魏志倭人伝の内容とを安易に結びつけることはできないし、 記紀神話以外の、 風土記の伝承や、 各地の神社に残る神社縁起などと魏志倭人伝の内容を比較するというのも、 あまり科学的な研究態度とはいえないことになろう。

むしろ、 魏志倭人伝の内容が、 なんらかの大発見や詳細な考古学的な研究によって、 解明できたときに、 もしかしたら、 その内容と、 記紀の神話伝承との間におもいがけない対応が見いだされるというものではないかと思われる。 そうした中で、 一つ気になるのは、 日本の巨大古墳の中で、 最初期のものとされる箸墓と、 記紀にのこる箸墓に関する伝承である。 箸墓は現在の考古学における編年で270年ごろに築造されたと考えられる全長約280メートル、 後円部直径約160メートルの前方後円墳である。 この古墳については、 日本書紀において、 ヤマトトトビモモソ姫の墓とされている。 この古墳は7世紀後半の壬申の乱において、 後の天武天皇が陣をはった場所であり、 日本書紀編纂当時も箸陵という名前であったことがわかる。 魏志倭人伝によれば、 卑弥呼の墓は、 径が百余歩とあり、 これは当時の魏の単位から考えて、 直径が150メートルちょっとのものということになり、 箸墓古墳の後円部の直径約160メートルと一致する。 また、 日本書紀において、 この古墳の被葬者が女性であるとされていることも注目される。

伝承上、 被葬者とされるヤマトトトビモモソ姫は、 三輪山の大物主神と結婚した天皇家の女性とされている。 考古学的にみても、 箸墓古墳の作られた時代は天皇家(もっとも当時は大王家、 王族というべきか)の勢力基盤が三輪山近辺にあった可能性が高いことなどから、 王家の女性が三輪山の神に斉く巫女であったというのは、 かなり信憑性が高い。

魏志倭人伝の内容からして、 卑弥呼は鬼道と呼ばれる宗教における主催者であり、 巫女的な側面を見せるから、 このヤマトトトビモモソ姫と卑弥呼との関係も注目されるところである。 また、 さまざまな検討から、 ヤマトトトビモモソ姫に関する伝承、 三輪山の神との神婚譚には、 5世紀、 6世紀などの後世的要素がほとんどないとも言われている。

卑弥呼の死亡したのは、 魏志倭人伝からは、 248年以前であり、 247年か248年と推定できるが、 箸墓の築造が現在の考古学的編年で270年前後といわれている点でも、 これが卑弥呼の墓である蓋然性は高い。

さらに、 この箸墓より古い古墳で同じ規模のものはないし、 また、 箸墓以降、 渋谷向山古墳(伝 景行天皇陵)が築造される4世紀中葉までの間に、 箸墓をしのぐ古墳はつくられることが無かったこともわかっている。 築造時期、 古墳の規模、 そして、 場所、 さらに女性の墓として伝承されている点、 さらにその被葬者である女性が王家の女性で巫女的性格をもった人であったことが日本書紀の記載内容からわかるなど、 魏志倭人伝の内容、 考古学的な研究成果、 そして日本書紀の内容が、 非常にきっちりと整合する例である。 もちろん、 だからといって、 これが卑弥呼の墓として確定したといえるわけではない。

参考文献

松前健著 日本の神々 中公新書
松前健著 出雲神話 講談社現代新書
谷川健一著 日本の神々 岩波新書
前田晴人著 日本古代史の新論点 新人物往来社
平林章仁著 三輪山の古代史 白水社
上田正昭他編 古代出雲の文化 朝日新聞社


言語学から見た邪馬台国論争

邪馬台国と、 倭女王卑弥呼についてもっとも詳しく書かれているのは、 3世紀末に成立の中国の史書「三国志」の中のいわゆる魏志倭人伝である。 ここには、 当時の倭人の言語の語彙と思われるものが、 多数書かれている。 現れる地名のうち倭の地域の地名は、 30ヶ国の国の名前である。 次に、 朝鮮半島南部の狗邪韓国から、 邪馬台国に至るまでの間に現れる、 対馬国、 一大国(あるいは一支国)、 末廬国、 伊都国、 奴国、 不弥国、 投馬国、 とそして、 邪馬台国、 さらに、 卑弥呼と敵対関係にあったとされる狗奴国については、 それぞれの国の官(地方官と思われる)の役職名も現れる。 そして、 倭国の歴史を扱う段階で、 卑弥呼以外にも、 難升米など、 倭政権の重要人物が数名登場する。 魏志倭人伝に現れるこれら倭人の地域の言語の地名・人名は、 神話伝承や、 奈良時代、 あるいは現代までに残る地名や人名などとして解釈できないだろうか。 まず、 すぐにわかるのは、 狗邪韓国から最初に訪れる倭人の住む国、 対馬国である。 これは、 現在でも、 対馬と書かれる対馬そのものであろうと思われる。 日本語での読みは、 「つしま」であり、 これは、 本来「津島」となるべきだが、 魏志倭人伝に書かれた「対馬」をそのまま現在でも使っていることになる。 次に、 一大国(あるいは一支国)については、 一般に、 一支とするのが正しいと考えられており、 これは、 現在の壱岐に対応する。 「支」には、 現代の日本語の音読みでは「き」と読むことはできないが、 古代の韓国においては、 この文字を「き」ないし「け」と読むことがあったとされる。 もちろん、 現代の綴りである「壱岐」の「壱」と「一」は同じ発音である。 末廬国については、 唐津近辺に比定されており、 この地域は、 かつては松浦(まつら)と呼ばれてきた。 また、 伊都国については、 現在でも「伊都」と書かれることのある福岡県の前原市あたりを指すことばで、 日本書紀には、 「怡土」という綴りで現れる。 発音は「いと」である。 糸島半島は、 「いと」郡と「しま」郡が一つになってうまれた「いとしま」郡から派生している。

こうしてみると、 魏志倭人伝に書かれた地名のうちかなりの部分が、 奈良時代ごろの文献にある地名と同じである可能性がある。 さらに、 人名や、 官職名などについてもなんらかの手がかりがある可能性が出てくる。 特に、 邪馬台国の所在地をどこにするか、 ということを考える上では、 玄界灘沿岸と思われる、 伊都国、 奴国、 不弥国と、 邪馬台国の中間地点にあるとされる投馬国の場所をどこにするのか、 や、 邪馬台国よりも(中国から見て)遠くにあったとされる、 21ヶ国の位置や、 狗奴国の位置などは非常に重要である。 これらの地名が、 もし現在でもかすかに残っているとしたら、 それは邪馬台国の所在地を議論する上で重要な示唆を与えることになろう。 少なくとも、 対馬国、 一大(一支)国、 末廬国、 伊都国、 奴国については、 それぞれ、 文献上、 あるいは現代の地名との比較により、 対馬、 壱岐、 松浦(唐津近辺)、 糸島と前原市あたり、 灘津(あるいは那津)すなわち福岡市あるいは博多近辺という形で、 比定できるわけであるから、 他の国についても、 地名が現在まで残っている可能性がある。 人名についても、 対応する人名が古事記、 日本書紀などの奈良時代文献や、 神社の縁起などにある可能性も残されている。 しかし、 魏志倭人伝に出てくる地名・人名を、 その漢字綴りの字音をたよりに考えていくと、 いかようにでも解釈できたり、 またたんなる語呂合わせに終わることになる。 重要なことは、 これら魏志倭人伝に出てくる地名・人名・官職名は、 3世紀の中国人が、 3世紀の日本語の地名・人名・官職名を聞いて、 書き留めたということである。 そこで、 3世紀における漢字音を推定し、 かつ3世紀における日本語の音韻構造を推定し、 それらが現代の日本語とどのように対応するのか、 を考慮する必要がある。

古代日本語の音韻

まずは、 日本語をさかのぼることから始めよう。

江戸時代において、 古事記について詳しい研究をした本居宣長は、 古事記の歌謡の多くが一音節一文字で書かれていることから、 この漢字音の使い方を詳しく検討し、 結果として、 古事記成立時の8世紀初頭において、 日本語の音韻が現代(江戸時代当時)とは違う可能性があることを指摘した。 この研究は、 後に橋本進吉により「上代特殊仮名遣い」としてまとめられた。

「上代特殊仮名遣い」によると、 まず大きな特徴は、 現代の日本語では、 そのほとんどの方言を考えても(沖縄の諸方言などでは異なるが)、 母音が五つである。 a, i, u, e, o である。 しかし、 奈良時代においては、 イ段、 エ段、 オ段にそれぞれ2種類あることがわかってきた。 それぞれを「甲類のイ」「乙類のイ」などと著す。 ローマ字で表記するときには、 甲類については、 小文字を、 乙類については、 大文字を使うことにする。 よって、 奈良時代の母音は、 a, i, I, u, e, E, o, O の8種類ということになる。

この8種類の母音が奈良時代において存在した可能性が出てきたことで、 日本語における語源や、 動詞の活用などに関する研究が飛躍的に進んだ。 たとえば、 奈良時代の文献などによく現れる「コクワ」というものは、 鍬(くわ)の一種であることはわかっていた。 そこで、 従来では、 「小鍬」として解釈していたが、 奈良時代文献では、 kOkuwa と書かれている。 一方「小(こ)」や「子(こ)」については、 ko であるから、 小鍬ならば、 kokuwa でなければならない。 では、 kOkuwa はどう解釈されるだろうか。 kO というのに対応し、 鍬と関係ありそうなものとしては、 「木(こ)」である。 「木立」や、 「木っ端」における「こ」という発音である。 よって、 kOkuwa とは、 「木鍬」であることがわかった。 また、 この研究から、 奈良時代の四段活用動詞における命令形と已然形が、 命令形の場合は、 エ段甲類、 已然形ではエ段乙類であり、 発音上違っていることもわかった。 また、 語源解釈として、 それまで、 「神(かみ)」は、 「上(かみ)にいるからカミ」と言われてきたが、 神は kamI であり、 一方、 上は kami であることもわかり、 両者は全く異なる語彙であることがわかった。

こうして、 奈良時代における母音の仕組みがわかってくると、 次に同じ語彙において母音が交替する現象が見えてくる。 たとえば、 身体の部分を表す語彙に、 その多くの例が認められる。 まず、 「目(め)」は、 「瞼(まぶた)」「眼(まなこ)」「瞬き(まばたき)」など、 複合語の中では、 「ま」と発音されているのに対して、 単独では、 「ま」とは発音されず「め」と発音される。 同じように、 「手(て)」も、 「手綱(たづな)」では、 「た」である。 「爪(つめ)」も「つま弾く(つまびく)」では、 「つま」と発音される。 「毛」も、 「白髪(しらが)」においては、 「か」である。 「口(くち)」も、 馬の「轡(くつわ)」では、 「くつ」と発音されている。 身体部位ではなくても、 先ほどの例にあった「木(き)」も「こ」と発音されることがある。

これらの例から、 母音が変化する場合を調べると、 でたらめな関係があるわけではなく、 厳密な法則が成り立つ。 また、 この変化が認められるのは、 ほとんどが語末の母音である。 「つめ」が、 「ちま」と変わったり「たま」と変わるわけではなく、 「め」が「ま」になるといったものである。 よって、 まとめると、 母音の甲乙も含めて以下の法則になる。

単独形での語末の母音独立形での語末の母音
a E
u I
O I
この母音の交替は、 後に、 「独立形」となる語彙(名詞や動詞の連用形)では、 -i という接尾辞が存在した可能性が指摘され、 結果として、 乙類の E,I については、 複合母音、 二重母音の可能性が示唆されるようになった。 すなわち、

単独形での語末の母音独立形での語末の母音
a + i E
u + i I
O + i I

というわけである。 さらに、 動詞の活用などに関する考察から、 他にも、 母音の連続による複合母音、 あるいは二重母音の可能性のあるものが出てきた。 まとめると、 以下のものがある。

a + i → E
u + i → I
O + i → I
i + a → e
u + a → o

しかし、 e, o については、 必ずしも常にこのような母音の連続が想定されるわけではなく、 もともと e, o という母音が存在していた可能性が高い。 しかし、 その場合は、 別の発音として、 i, u に変化している場合もあり、 e, o, の二つの母音も比較的不安定である。 一方、 a, u, i, O の四つの母音は、 非常に安定しており、 語彙の語幹に現れるのは、 たいがいこの基礎的な4母音である。

多少話を強引に進めるならば、 奈良時代以前のある時期の日本語には、 安定的な母音が、 4つしかなく、 それは、 a, i, u, O であったが、 後に i の一部が e になったり、 また、 u の一部が、 o になるなどして、 6母音が成立し、 その後、 母音の連続による複合母音によって、 E, I が成立して、 全部で8母音になって、 奈良時代を迎えた、 と考えられるのである。 しかし、 奈良時代もすでに8母音が、 現代日本語の5母音になっていく課程にあったらしい。 そのことは、 奈良時代以前の6世紀の日本語の文献として残る推古朝遺文(前期参照)においては、 古事記・日本書紀・万葉集などの奈良時代文献(8世紀)とくらべて、 より一層明確なかき分けがなされているからである。 たとえば、 日本書紀では、 「も」について、 mo と mO のかき分けはなされていない。 しかし古事記ではかなり正確にかき分けられており、 また、 推古朝遺文でも正確なかき分けがなされている。 p, m, b などの唇で発生させる子音に続く場合、 オ段の甲乙 o, O のかき分けは、 奈良時代においてすでにかなり失われていたらしい。 一方で、 「こ」については、 平安時代初期の文献でも書き分けられていたし、 また、 甲類の「こ」ko を表す、 古、 固などと、 乙類の「こ」kO を表す、 居、 虚、 などの文字では、 現在でも音読みが、 「こ」と「きょ」で対立している。

次に、 安定母音である、 a,i,u,O についてもう少し詳しく見てみよう。 わかりやすいのは、 日本語の数詞である。 「ひとつ、 ふたつ、 みっつ、 よっつ」であるが、 このうち、 「つ」というのは、 数詞を表す語尾であるから、 これらを取り除き、 母音の甲乙を考慮すると、 fitO, futa, mi, yO, i, mu, nana, ya, kOkOnO tOfO となる。 倍数関係にあるものを、 見てみると、 fitO に対してその倍は futa であり、 mi に対して mu、 そして、 yO に対して ya である。 子音は共通している(ハ行音が、 f で表されていることについては、 後述する)。 そして、 母音の間に明確な交替の法則がある。 すなわち、 i → u で倍、 O → a で倍という関係である。 語幹に現れることの多い、 安定な母音四つの間にも、 交替関係がある可能性が示唆される。 多くの語彙を調べてみると、 意味の似通った語彙の間で、 この交替関係を持つものがいくつかある。 指示代名詞をつくる「彼方(かなた)」の「か」に対して「此方(こなた)」の「こ」も a と O の交替関係。 また、 現代語では、 「の」に統一されてしまった所属や起点などを表す助詞も、 奈良時代においては、 「な」と「の」が存在していた。 場合によっては、 「生きる」のiki(息とも関係する可能性がある)が、 「起こる」の OkO と関係があるかもしれない。 こうして、 母音の交替関係を整理すると、 a と O の交替がもっとも頻繁にあり、 ついで、 i と u の交替、 そして、 O と i の交替がある。 そして、 fitO → futa の例などからわかるように、 交替する際には、 語彙中の母音が丸ごと入れ替わることが多い。 闇雲に交替するわけではないらしい。

母音調和についてについても触れておく。 モンゴル語やトルコ語、 ツングース語など北方アジアのアルタイ諸語では、 複数ある母音が男性母音、 女性母音、 中性母音の3種類に分かれていて、 一つの単語の中で、 男性母音と女性母音が混在することはなく、 また、 膠着する助詞なども、 同じ意味を表すものに、 男性母音からなる助詞と女性母音からなる助詞の二つを用意して、 男性母音からなる語彙には、 男性母音からなる助詞を、 女性母音からなる語彙には女性母音からなる助詞をつけることになっている。 中性母音は、 どちらとも並び立つことができる。 日本語について、 奈良時代に8種類の母音があったことが判明したあと、 早速、 母音調和についても研究された。 結果としていえることは、 かなり弱いが、 母音調和的現象があるらしいということである。 そしてそれらはおおむね安定母音と関係している。 a,u を女性母音とし、 O を男性母音とし、 i を中性母音とすると、 だいたい日本語の母音調和は説明できる。 不安定な e, o については、 e を中性とし、 o を女性母音とする見方ができる。 先に述べた助詞の「の」と「な」の使い分けは、 アルタイ諸語における助詞の膠着での男性助詞、 女性助詞の使い分けと類似する。 「の」は、 nO であり、 語幹に O を含む語彙とのみ結合することが多いが、 「な」は、 語幹に a を含むものと結合することが多い。 しかし、 甲乙の違いが廃れる平安時代ごろには、 「の」が主流になり、 「な」は「まなこ」などの語彙に痕跡的に残るのみとなった。 他の助詞ではこのような区別はない。 母音調和は、 奈良時代において、 甲乙のかき分けが甘いオ段について、 いくつか示唆的である。 すなわち、 唇音の子音をもつ、 ハ行、 バ行、 マ行では、 オ段の甲乙が厳密になされていないが、 前後の音韻からどちらであるかがおおむねわかるのである。 百も、 桃もどちらも「もも」であるが、 百は、 mOmO であり、 桃は momo である。 この母音調和をつかって、 甲乙のかき分けのないものにすべて適応するのが妥当かどうかは、 問題があるが、 これを用いて、 推定した結果にあまり矛盾がないこともあり、 これによって、 母音のかき分けがすでに曖昧になりつつあった奈良時代よりもさらに昔の母音の状態を推定することは可能である。

以上のように、 奈良時代以前の日本語には、 8種類の母音があり、 そのうち、 a,i,u,O の四つは安定し、 語幹に現れることが多いが、 一方、 o, e は不安定で、 語尾に現れるものが多いこと、 そして、 安定な4母音については、 それらが一定の法則のもとで、 交替し、 意味の若干異なる語彙を生み出すことがわかった。 また、 奈良時代以前に二重母音か複合的な母音であった可能性のあるものとして、 I,E がある。 この8種類の母音は、 平安時代ごろには、 現代語と同じく、 5母音に収束したと考えられる。 また奈良時代においても、 すでに消滅傾向にあったことが窺える。

こう考えると、 奈良時代よりも遙かにさかのぼる魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の時代は、 おそらく、 安定的な4つの母音 a,i,u,O と、 不安定な、 e,o などの母音が存在した時代ではないかと思われる。

では次に子音について考察する。

現代日本語の子音は、 五十音図を考えた場合に、 カ行については、 k で統一されていて、 同じく、 ナ行は、 n マ行は m、 ラ行は、 r で統一されている。 サ行については、 「し」が si でなくて、 Si すなわち、 英語の shi に近い発音になっている(実際には、 英語の sh は、 反り舌音であり日本語の「し」の子音とは異なる)ほか、 タ行では、 「ち」「つ」が、 摩擦音を含むものになっている。 また、 ハ行音は、 「ふ」のみが、 唇近辺での摩擦音である。 ヤ行については、 イ段とエ段で、 子音が脱落しているし、 ワ行音についても、 「わ」以外では、 子音が脱落している。 「を」は正書法上残っているが、 発音上「お」と区別はない(ということになっている)。

旧仮名遣いを見ると、 ワ行音でも、 ウ段を除いてイ段「ゐ」、 エ段「ゑ」がそろっている。 その他、 平安時代には、 ヤ行のエ段の文字が存在した。 また、 ハ行については、 母音と母音に挟まれた場合には、 「川(かは)」などのように、 ワ行音で発音され、 語頭においては、 h の音になることもわかる。 文献的にさかのぼり推定すると、 ハ行音は、 奈良時代ごろにおいては、 p の音で表される、 pa, pi, pI, pu, pe, pE, po (pO) であったことがわかる(「ほ」の甲乙の区別はほとんど消えかかっている)。 これは、 平安時代ごろには、 語頭において、 f 音に変わり、 語中(母音と母音に挟まれた場合)には、 有声化して、 v か、 w に近い発音に変わり、 この場合は、 ワ行に合流した。 江戸時代初期段階でも、 語頭のハ行音は、 f に近い音であったと思われるが、 それが江戸時代の中期ごろから、 h 音に変化したと言われている。

次に、 サ行、 タ行についてであるが、 漢字音との対応関係から、 最近では、 サ行音は、 奈良時代ごろにおいては、 tSa, tSi, tSu, tSe tSo tSO であった可能性が高いとされている(イ段、 エ段の甲乙のかき分けはあまりはっきりしない)。 今の表記でいえば「ちゃ、 ち、 ちゅ、 ちぇ、 ちょ」というべきものである。 これが、 比較的すぐに、 Sa, Si Su Se So 、 現代的な表記では、 「しゃ、 し、 しゅ、 しぇ、 しょ」になり、 これが、 次第に、 sa si su se so に近づきつつある過程であり、 標準語においては、 「し」だけが、 現在でも、 Si という発音になっている。 ちなみに、 九州の方言では、 「せ」が、 Se (しぇ)になっている。 最近の首都圏の若い世代では、 「し」が、 si になることが多いといわれているが、 これは、 歴史的な流れとして当然のことかもしれない。 タ行音については、 現在「ち」が tSi で、 「つ」が tsu となっているが、 古くは、 すべて t 音で統一されていたと考えられる。

以上から、 五十音図にそって奈良時代における子音を考えると、 k, tS, t, n, p, m, y, r, w, であり、 濁音は、 g(あるいはng), dz3, d, b, ということになる。 日本書紀における漢字の万葉仮名の使い方から、 森博達は、 以下のように推定している。 この図では、 甲乙の区別の無いものは中間に書いている。

行\段ア段イ段甲イ段イ段乙ウ段エ段甲エ段エ段乙オ段甲オ段オ段乙
ア行 a   i   u   e    o  
カ行 ka ki kI ku ke kEko kO
ガ行 nga ngi ngI ngu nge ngEngo ngO
サ行 tSa   tSi   su   Se  so tsO
ザ行 dza   d3i   zu   3e  zo dzO
タ行 ta   ti   tu   te  to tO
ダ行 da   di   du   de  do dO
ナ行 na   ni   nu   ne  no nO
ハ行 pa pi pI pu pe pE po 
バ行 ba bi bI bu be bE bo 
マ行 ma mi mI mu me mEmo mO
ヤ行 ja     ju   je  jo jO
ラ行 la   li   lu   le  lo lO
ワ行 wa   wi     we    wo  

奈良時代における日本語の音節が、 このようであったとして、 邪馬台国時代はどうであっただろうか。 おそらく、 子音としては、 奈良時代と似たようなものであったと考えられるし、 また、 母音については、 前述のように、 安定した4母音 a,i,u,O, と、 やや不安定な2母音 e, o で6母音ということになろう。 すべての子音に対して、 すべての母音と結合したかどうかについてはなんともいえないが、 語源的な解釈として、 森博達が、 甲乙の区別のないとした、 サ行、 タ行、 ナ行、 ヤ行、 ラ行などのイ段、 エ段の甲乙の区別はおそらく存在した可能性は高く、 また、 ハ行、 マ行のオ段の甲乙も存在した可能性が高いと見る。

ここでは、 大胆に3世紀の日本語の音韻を推定してみることにする。 一般的に古い時代の音韻構造については、 どうしても理想的なものになりがちであるから、 この点も考慮した上で見てもらいたい。 エ段甲などは後の日本語(奈良時代)で対応するものがあることを示す。 また、 子音の推定は難しく、 各個の中の音素は、 多少の破裂性とか多少の摩擦性、 鼻音性といったものだと考えてもらいたい。 この音韻表を作るにあたっては、 後述の中国古代の音韻をベースに魏志倭人伝の人名や地名を考慮している部分もある。

行\段ア段イ段(エ段甲)ウ段(オ段甲)オ段乙(エ段甲)(オ段甲)
ア行 a i u O e o
(ア行) ha hi hu hO he ho
カ行 ka ki ku kO ke ko
ガ行 (n)ga (n)gi (n)gu (n)gO (n)ge (n)go
サ行 (t)Sa (t)Si (t)Su (t)SO (t)Se (t)So
ザ行 (d)3a (d)3i (d)3u (d)3O (d)3e (d)3o
タ行 ta ti tu tO te to
ダ行 (n)da (n)di (n)du (n)dO (n)de (n)do
ナ行 na ni nu nO ne no
ハ行 pa pi pu pO pe po
バ行 (m)ba (m)bi (m)bu (m)bO (m)be (m)bo
ヤ行 (3)ja (3)ji (3)ju (3)jO (3)je (3)jo
ラ行 la li lu lO le lo
ワ行 wa wi (w)u wO we wo

古代中国語の音韻

古代中国語の音韻構造を知る前に、 まず、 現代中国語の音韻構造の基本を知る必要がある。 中国語は、 古代より現代まで一貫して、 一つの音節を表す文字、 すなわち漢字を用いて記述されてきた。 よって、 中国語の音韻構造とは、 すなわち漢字のもつ音韻の構造、 体系である。 現代中国語において、 日本人にとってやっかいなことは、 声調である。 現代中国語には、 高、 低、 下、 上の四つの声調がある。 これは、 ほぼあらゆる中国語の方言で声調があるし、 また中国語と比較言語学的にみて近い関係にあるタイ語やチベット語などでも声調がある。 しかし、 中国語に限って言えば、 古代の中国語では、 この声調がかならずしも声の高い、 低いということと関係していたかどうかについては、 なんともいえない。 古代から中世にかけての中国人は、 音韻については、 平声(ひょうしょう)、 上声(じょうしょう)、 去声(きょしょう)、 入声(にっしょう)の四種類を考えていた。 このうち、 入声は、 音節の最後が、 p, t, k で終わるもので、 日本語でいうところの撥音のようなものである。 非常に短い音節だとされている。 もっとも長いのが、 平声であるといわれており、 以下、 上声、 去声と短い音節になり、 入声がもっとも短いという。

伝統的にみて、 中国語の一つの音節は、 音節頭にくる声母(子音である)と、 その後にくる介母音と、 韻母に分けられる。 韻母はまた、 主母音と、 韻尾の子音に分けられる。 たとえば、 「川」という文字は、 現代北京語では、 chuan という発音である。 これは、 ピンインと呼ばれる中国式のローマ字によるものであるが、 この chuan において、 まず、 声母は、 ch の部分である。 次に、 介母音として u があり、 そして、 韻母は、 an であり、 韻母は、 主母音の a と、 韻尾の n に分類される。 現代中国語においては、 声母は多数あるが、 介母音については、 無い場合、 i 、 u 、 i+u の四種類がある。 それぞれ開口(介母音無し)、 斉歯(介母音がi)、 合口(介母音がu)、 撮口(介母音がi とuの両方)という分類がされている。 次に、 韻母の主母音については、 体系的にみると、 現代中国語(北京語)では、 I,O,a の三つしかないとしてよい。 そして、 韻尾の子音については、 -n -ng, -y -w がある。 あるいは、 北京語独特のものとして、 児化という現象があり、 これを考慮すると、 -r や、 -ngr などの韻尾を考慮する必要もある。 細かいことは置くとして、 中国語の音節は、 声母と、 介母音と、 主母音と韻尾からなると憶えておけばよい。

中国では、 7世紀初等以降、 漢字の音韻に関する研究が始まり、 7世紀初頭には、 最初の韻書として、 切韻が成立した。 当時の中国のあちらこちらの方言などを考慮した上で、 発音の同じ漢字を同じ場所に配列し、 さらに、 発音を体系的に理解しようとしたものである。 声母、 介母音、 主母音、 韻尾の分類などもこの時代にさかのぼる。 方言の違いも考慮しているから、 ある方言では同じ発音の漢字であっても、 別の方言で異なる発音を持つ場合は、 異なる発音をもつものとして配列するなど、 かなりきめ細かいものである。 切韻そのものは、 完本としては伝わらないが、 この内容を多少拡張した広韻が、 現在まで完全な形で伝わっている。 唐代の初期までは、 漢字の発音の定番として、 切韻の体系が使われていたので、 唐代の多くの字典(たとえば、 徐兄弟による設文解字など)などでも、 切韻にある音韻体系はそのまま引き継がれ、 これらを総称して、 唐韻という場合がある。 しかし、 一方で、 唐代に入ると、 唐の長安では非常に特殊な方言が普及し、 声母の清濁の区別がなくなったり、 声母の一部が鼻音化するなどの現象があり、 さらに韻母の主母音のいくつかの区別が失われるなど、 大きな変化があった。 当時は、 科挙が行われていた時代であり、 科挙においては漢詩を作る必要もあったので、 当時の中国人たちは漢詩を作るためにも唐の長安における発音を勉強する必要に迫られたが、 その場合に切韻の体系は、 唐の長安の音韻体系にはすでに合わなくなっていたため、 これを簡略化したり、 さまざまな努力が行われた。 結果として、 唐代における漢字音の変化は比較的よくわかっている。 さらに、 唐のあとの変化についても、 標準語についてはかなり詳しく解明されている。

日本の漢字音は、 5世紀から6世紀、 7世紀初頭までに朝鮮半島を通じるなどして伝わった呉音とよばれる南方系の音と、 遣唐使の派遣により唐代の長安の発音が伝わった漢音(7世紀末から8世紀)、 そして、 14,5世紀ごろ室町時代ごろ、 江南、 河南などの地域にいった禅宗の僧侶たちが持ち帰った唐宋音と呼ばれるものがある。 このうち、 呉音は、 ほぼ切韻などの唐韻の体系に近いものである。 また漢音は、 唐代長安の方言に近いものとされている。 そして、 唐宋音は、 現代の北京語とも近い関係にある近世的なものである。

一般的に、 中国の漢字音の変遷については、 まず、 切韻の体系に基づくものを中古音という。 ただし、 唐代の特殊な方言の体系は、 中古音の長安方言型とでもいうべきもので、 ここでは、 中古音新、 と呼ぶことにする。 唐の崩壊後、 周辺の民族が、 中国に入り込むなどして、 大きく乱れ、 また民族構成なども変化したこともあって、 音韻体系もかなり変わった。 現代中国語に近いものは、 およそ、 元代から明代にさかのぼる。 そこで、 明代以降の標準語で現代の北京語につらなるものを近世音とでも呼ぶことにする。 つまり、 日本語の呉音は、 中古音に、 漢音は、 中古音新に、 唐宋音は、 近世音に近い。 中国の方言を見てみると、 福建語などの保守的なものも、 おおむね中古音に対応するものであり、 広東語も中古音がひどく変形したものと見てよい。 韓国語の漢字音も、 中古音をベースにしている。

中国で韻書が成立したのが、 7世紀初頭のことであるから、 中国人の多くの学者にとって、 それ以前の漢字音は全く不明であり、 原則として切韻の体系が太古においても使われていたと考えていた。 しかし、 古代中国、 漢や、 先秦代(春秋戦国時代や周代)の韻文などを研究すると、 韻文であり押韻されているはずの韻が合わないことがしられていた。 近世になって、 清代の学者たちは、 この謎に取り組み、 結果として、 中古音以前の音韻体系の存在を知ることになる。 これを上古音という。 上古音も細かくわければ、 かなり時代によって異なると思われるが、 とくに、 韻母の体系自身は、 周代から、 漢代、 至っても本質的な変化はなく、 千年以上にわたって、 かなり安定した音韻体系であったことあったことがわかる。

さて、 邪馬台国論争において必要になるのは、 三国時代の魏における漢字の音韻体系である。 これは、 はたして中古音なのか、 それとも上古音なのか、 あるいは過渡的なものなのが問題となる。 そこで、 上古音、 中古音について、 ざっと見た上で、 三国時代における漢字音について考えてみることにする。

中古音の体系は大変難しい。 声母については、 かなりわかりやすく、 およそ37の声母(音節頭の子音)があったと思われる。 たとえば、 唇音に属するものは、 ローマ字で表すと p,b,m などであるが、 現代中国語における有気と無気の対応もあり、 p,p',b,m の4種類になる。 唇音は比較的簡単であるが、 舌音や歯音と呼ばれる系統になると、 中古音における複雑な介母音の影響でさまざまな変化をしており、 体系としてとらえるのが難しい。 さらにこの介母音が、 韻母の主母音にも影響を与えていて、 話をさらにややっこしくする。 また、 韻尾についても、 母音韻尾のもの、 入声の -p,-t,-k で終わるもの、 陽類の -m,-n,-ng で終わるものなどがある。 おそらく、 安定した体系と呼べるものが存在しない、 非常に混乱した状態であったといえる。 したがって、 中古音は、 切韻の体系が、 5、 6世紀ごろに成立したものの、 唐代のかなり初期の段階ですぐに崩れはじめ、 唐の長安では特殊な方言が生まれた(中古音新)。 しかし、 これは中国の政権の存在する中央の方言であるから、 科挙などでも標準語として扱われ、 この唐代長安の音韻は、 現代中国語の諸方言においても、 文言音として、 多少の変容をしつつ残っている。 日本語の漢音も、 唐代の長安の音韻を日本国内で変容させたものである。

以上の理由により、 ここで中古音の体系を明瞭な形で示すことはできない。 参考文献としては、 下に示す藤堂・相原共著「新訂 中国語概論」大修館書店がある。 あるいはこれの要約されたものが、 学研大漢和字典に書かれている。 それらを参考にされたい。

さて、 上古音の説明に移ろう。 中古音の体系と、 自分たちの時代の音韻しかしらなかった清代の学者たちの間では、 漢代以前の漢詩における押韻が、 非常に奇異であった。 去声と入声は、 かなり違う韻であるのに、 漢代以前の韻文ではよく押韻している。 この傾向は、 魏代の韻文にも広く見受けられる。 このことから、 中古音の体系では、 母音韻尾で終わる去声の漢字も、 かつては、 なんらかの子音韻尾をもっていたのではないかという可能性が示唆された。 入声の韻尾は、 p,t,k などの破裂性の無声子音である。 そこで、 去声の韻尾を推定として、 b,d,g などの濁音韻尾として考えることになった。 その後、 形声文字において、 同じ音符をもつ諧声系列の研究などからもおおむねこの濁音韻尾の可能性が示唆され、 さらに、 中古音の平声、 上声などで、 陽類と呼ばれる鼻韻韻尾の音韻との関係も確かめられた。 その結果からすると、 だいたい以下のようになる。

調音点 入声韻尾去声韻尾陽類 陰類
唇音韻尾 -p (-b) -m -
舌音韻尾 -t -d -n -r
喉音韻尾 -k -g -ng -

このうち、 去声の唇音に対応する、 -b については、 ほとんど痕跡も認められないことから、 早期の段階(周代以前)で、 -d に変化したのであろうと推測されている。 ちなみに、 多くの音韻に関する解説書では、 舌音韻尾の -t, -d をともに入声に分類することがある。 この二つがかなり似た音韻として認識されていたため、 漢代以前はほとんど同じ発音のように扱われていたが故であるが、 ここではわかりやすくするために、 分けた。 また、 舌音に限っては、 -d よりも弱い半母音的韻尾を考える必要があり、 これを仮に -r としておく。

さて、 この濁音韻尾による去声がわかってくると、 漢代以前の押韻の仕組みも大変わかりやすくなり、 また、 日本語の漢字音における両読y文字(二つの系統の異なる音韻があるもの)が理解できる。 たとえば、 「度」という文字は、 漢和辞典で調べると、 「ド」というなじみのある読み方以外に、 「たく」という発音が知られている。 「たく」という以上は、 入声であり、 仮に tak という音であったとすると、 「ド」という読み方は、 去声であるから、 ここに、 dag という音を考えることができる。 dag → daw → do と変化した。 そして、 漢代以前においては、 意味もそして、 発音もそっくりな tak, dag という語彙に対して、 一つの漢字「度」を使うようになったが、 この二つが、 後に発音を大きく変化させて、 do と tak というかなり異なる二つの音を持つようになったと考えることができるのである。 こうして韻尾が整理されたあと、 今度は、 韻母の主母音が重要になる。 押韻や諧声系列から、 主母音は、 a,O,e,o,u,A の6個くらいが推定できる。 こうして、 古代の韻母は、 上の韻尾の分類と併せて、 以下のようにまとめられる。 各韻を代表する文字を一つ選んでおいた(藤堂の分類と王力の分類を整合させて合わせたもの)。

部\韻尾  入声韻尾 去声韻尾 陽類 陰類
談・葉部 -ap 葉 - -am 談 -
侵・緝部 -Op 緝 - -Om 侵 -
歌・祭月・元部 -at 月 -ad 祭 -an 元 -ar 歌
微・隊術・文部 -Ot 術 -Od 隊 -On 文 -Or 微
脂・至質・真部 -et 質 -ed 至 -en 真 -er 脂
魚・陽部 -ak 鐸 -ag 魚 -ang 陽 -
之・蒸部 -Ok 職 -Og 哈 -Ong 蒸 -
支・耕部 -ek 錫 -eg 支 -eng 耕 -
幽・中部 -ok 薬 -og 幽 -ong 冬 -
侯・東部 -uk 屋 -ug 侯 -ung 東 -
宵部 -Ak 薬 -Ag 宵 - -

この表のうち、 歌・祭月・元部、 微・隊術・文部、 そして脂・至質・真部において、 祭月、 隊術、 至質の区別は、 漢代以前においてはきわめて曖昧で、 おそらく一つの韻であったとされる。 そこで、 上に示した確認できる33部の韻類に対して、 祭月、 隊術、 至質のそれぞれを一つにまとめて、 30種類の韻部があったとするのが、 上古音30韻部である。 このうち、 喉音韻尾をもつものには、 韻母の主母音が6種類全部登場するが、 この音価については、 諸説あって、 一定していない。 おそらく、 上古の中国語においては、 舌音韻尾で現れる、 三つの基本母音 a,O,e と、 もう一つくらいあって、 多少の音色の違いが、 喉音韻尾の多様な主母音を作り出したのではないかと思われる。 実際、 陽類については、 周代の詩文をあつめた、 詩経においては、 冬部と東部が分離していない様相を呈する。 その直後に編纂された楚辞においては、 これらが明確に分かれるともいわれている。 すなわち、 幽・中部と侯・東部はあまり明確な区別がないようである。

次に、 上古音における、 声母を考えてみる。 声母については、 韻文の押韻を使うわけにはいかないので、 主に形声文字の音符の諧声系列から求めるしかない。 数々の研究によって、 大方、 以下のように表せるだろう。

調音点全清(無気音)次清(有気音)全濁(濁音)次濁(鼻音)その他
唇音 p 幇 p' 滂 b 並 m 明  
舌音 t 端 t' 透 d 定 n 泥 l 来
歯音 ts 精 ts' 清 dz 従   s 心
牙音 k 見 k' 鶏 g 群 ng 疑  
喉音 H 影 h 暁 gh 于    

中古音には、 主に、 歯音に属する部分で、 さまざまな声母があるが、 これらの多くは、 介母音によって影響されたものと思われる。 ここで示したものは、 おそらく、 漢代ごろの声母である。 さらにさかのぼると、 「風」と「嵐」のように、 声母 p と声母 l のものが同じ音符で表されていることをなどから、 周代ごろには、 pl などの複合子音の声母も有った可能性がある。 これらで、 可能なのは、 タイ語などとの関係も考えて、 どうやら、 pl, tl, kl などと、 場合によっては有声の bl, dl, gl などである。 また、 「毎」と「海」の例では、 唇音と喉音が同じ音符であったりする。 これについては、 無声鼻音 mh を考えることによって、 対応がある程度解明できる。 いずれにせよこれらは、 先秦代のことであって、 現在注目している三国志の時代よりも先年以上昔のことである。

最後に介母音について考える。 原則として、 中古音における複雑な介母音の系統から、 上古の姿を探ろうとするものである。 現代中国語には、 前述のように開口(介母音無し)、 斉歯(介母音がi)、 合口(介母音がu)、 撮口(介母音がi とuの両方)の四種類がある。 中古音については、 1等、 2等、 3等、 4等、 仮4等の5種類程度に分かれるとする。 1等は開口と合口に対応し、 2等は、 反り舌的要素、 3等、 4等には、 おおむね介母音のi を含むものが対応するが、 どうやら、 i には、 3等に現れるIと、 4等に現れるiの2種類があったらしい。 この2種類の介母音については、 奈良時代の日本語におけるイ談の甲乙によく対応している。 また、 仮4等は、 唐代の後半になって現れた直音の強い介母音i であり、 介母音としては、 4唐と同じであるが、 声母に影響を与えない。 こうすると、 撮口も考慮して、 介母音としては、 開口の場合は、 介母音なし、 2等、 3等などでは、 反り舌要素が加わるもので、 3等では、 介母音はIであり、 4等では、 介母音がi となる他、 それぞれに撮口が考慮できる。

日本語の語彙は、 いかにして漢字音で表されるか

日本語の音節は奈良時代において8母音があったにせよ、 比較的簡単なものであった。 子音の数も少なく、 また母音も一部を除いて単純な母音であった。 しかし、 音節構造が日本語と中国語では本質的に異なっていたため、 漢字を用いて日本語の語彙を表すのはかなり難しかったものと思われる。 それでも、 古事記や日本書紀では苦労して日本語に漢字音を当てて日本語を表現しようとしている。 古事記や日本書紀は基本的に日本人が書いたことになっている(もちろん、 実際には、 そうではない可能性が指摘されており、 そのほうが説得力のあるものであるが、 ここでは立場としてそういう認識で考えることにする)。 したがって、 日本語を日常において使っている日本人が、 中国語を勉強しつつ、 多少なまった形の漢字音を修得し、 それで日本語の音節に漢字を当てはめたことになる。 一方で、 魏志倭人伝では、 書いたのは中国人であり、 倭の地名や人名・官吏名などを表すときには、 漢字として読んだ場合に、 きちんともとの倭人の語彙・固有名詞が復元できるようにする必要があった。 両者はほとんど同じように聞こえるが、 実際はかなり違う。

たとえば、 英語の文字をよく「アルファベット」と呼ぶが、 これは、 ギリシア文字のαとβという意味で、 最初に現れる文字から、 文字セットのことを「アルファベータ」と呼び、 これが「アルファベット」になったわけである。 ギリシア文字には一つ一つ名前がある「αアルファ」「βベータ」というわけである。 しかし、 綴りとして「αβ」ときたら、 これは、 「あぶ」というような発音で読まれることになる。 ここでの原則は、 「アクロフォーニー」と呼ばれていて、 文字の名前の一番最初の発音を使って読むということである。 ラテン人がギリシア文字を、 エトルリア人を経由して学んだときは、 しかし、 アクロフォーニーではなかった。 a は「あー」であり、 i は「イー」であり、 母音はそのままで、 子音については、 中立的な母音である e をつけて、 b は「べー」という形で発音した。 この段階で文字の名前は消滅し、 文字の発音がそのまま文字の名前となったのである(あくまでも原則として)。

日本人が日本語の音節に、 漢字を当てはめて表現するときも、 その多くは、 アクロフォーニーの原則を使っている。 「遠」という文字は、 「をん」という呉音をもつが、 これを「を」という発音を表すために使い、 韻尾子音を無視している。 このような例は日本書紀や古事記にはたくさんある。 しかし、 これは、 そういうルールを知っていて、 しかも日本語の音韻がどのようなものであるかを知っている場合に限って有効であって、 中国人が日本人の語彙をできるだけ正確に漢字音で表現しようとするならば、 韻尾の切り捨てなどはしないはずである。 ギリシア人がアクロフォーニーの原則を用いたのも、 そもそも中近東のセム人自身がそのような伝統を持っていたこともあると同時に、 ギリシア人がギリシア語を表現するために中近東の文字を用いたからである。 それでも、 同じように、 中近東の文字を用いたインド・ヨーロッパ系のヒッタイト人は、 アクロフォーニーの原則を使わず、 多数の文字を組み合わせて、 非常に特殊な方法で綴っている。 魏志倭人伝においては、 おそらく、 漢字の発音をふつうに行えば、 それがあたかも倭人の言語の語彙として聞こえるような形で綴ったはずである。 したがって、 日本書紀や古事記で使われている日本語発音表記における漢字綴りと魏志倭人伝におけるそれとはかなり違ったものであることになる。

では、 日本語の音韻を表記する場合の漢字綴りの実際を見ていくことにする。 まず、 日本語の音韻構造は、 比較的単純な子音に比較的単純な母音がついたものである。 子音の部分は、 漢字音の声母で類似したものをもってくれば良いことになる。 「か」という発音ならば、 声母に k をもつ漢字を用いることになる。 日本語の子音の数は、 奈良時代のものでもそれほど多くないし、 また、 語源解釈などでさかのぼっても、 3世紀代の日本語にそれほど多くの子音があったとは思えないので、 この部分は、 ひとまずそれほど難しくないと考えておくことができる。 では、 日本語の音節の母音の部分はどうであろうか。 中古漢字音には大量の母音があったので、 これらを有効に使えば母音は問題がなかったかのように見える。 しかし、 そうでもない。 韻母の主母音の数は、 中古音でも非常に多いのであるが、 一方で、 日本語のイ段に対応する主母音はなかった。 そこで、 これらを表すためには、 韻母の主母音ではなく、 介母音をもってくることになった。 しかし、 介母音そのものは、 案外不安定で、 中古音においては、 声母と連続して、 声母の子音を変化させた上で消滅するようなこともあったため、 比較的面倒である。 したがって、 仮に「き」という音を表そうと思ったら、 声母に k を持ち、 介母音に i を持ち、 韻母主母音は、 i に近い e を持ち、 そして、 韻尾の子音があまり目立たないような漢字を使うことになる。 しかし、 中古音では、 声母 k は、 介母音 i の前では、 口蓋化を引き起こし、 tS というような声母に変化したりする場合があったから、 案外「き」という音節にふさわしい漢字を見つけるのは難しいことになる。 さらに、 介母音で母音を表してしまったら、 今度は、 比較的目立たない主母音をもち、 韻尾もあまり明瞭でないものを選ぶことになる。 主母音としてイ段の母音に近そうなのは、 e であろう。 さらに、 中古音であれば、 韻尾が i で終わる文字があるから、 これらを組み合わせて「き」に対して、 kiei というような発音の文字を使うのがふさわしいことになる。 しかし、 日本語の音節すべてについて、 いつもこのようにして適切な漢字音が見つかるとは限らないし、 また、 kiei という発音の漢字があったとして、 これが、 「き」という音節と本当に似ているのか、 も難しい。 おそらく母音の長短の問題なども絡んでくるだろう。 日本語の音節は、 単純であると同時に、 発音が非常に短い。 それに対して、 中国語の音節は、 複雑な子音の声母と、 介母音、 主母音、 韻尾からなる韻母を含み、 非常に長い。 さてこのような理由により、 奈良時代の日本人が漢字音を学んで、 それで日本語を音韻で綴ろうとしたときも非常に苦労したし、 また、 魏志倭人伝において、 倭に赴いた魏の役人たちが、 倭人の言語の語彙を漢字音で綴ろうとしたときも、 非常に苦労したことだろう。

ここでは、 日本語の漢字音表記(万葉仮名や魏志倭人伝における倭の地名・人名・官吏名の漢字表記)を考慮する上で注目すべき点を述べる。 これらは、 魏志倭人伝を読む上で、 漢字音に現代日本語の漢音や呉音を結びつけることによって誤読する可能性があるからである。

まず、 日本語の音節の子音と、 中国語の声母との関係については、 大方似た発音があった可能性が高いので、 以下に注意点のみ述べる。

声母で面倒なのが、 声母の n である。 これを持つ漢字は、 たとえば、 「泥」や、 「奴」などであるが、 漢音でよむと「でい」「ど」となり、 あたかも、 声母が d のように思われる。 しかし、 これは、 唐代長安の特殊なものであり、 鼻韻が、 陽類以外では、 一斉に有声破裂音的要素を伴ったためである。 同じことは、 声母の m でも起こっている。 つまり、 陽類(韻尾が鼻音で終わるもの)以外では、 m → mb そして、 n → nd と変化したのである。 この現象は、 唐代の長安でのものであったらしいが、 一部現代の福建語にも残っている。 しかし北京語には残っていない。 日本語では漢音で顕著なものである。 ちなみに、 陽類のものについては、 これが起こらなかった。 したがって「年」は、 「でん」という漢音を持たないし、 また、 「明」は、 「べい」という漢音を持たない。 この現象は、 唐代長安の特殊な方言であるから、 さかのぼったとしても、 7世紀初頭ごろの随の統一のころまでで、 魏志倭人伝を解釈する上では、 これらを、 破裂性濁音を伴わない鼻音声母として読むべきである。

次にこれは現代の北京語にも当てはまるが、 同じく、 唐代ごろから、 声母 n のものが、 介母音 i I の前にあるときに、 摩擦音になって、 r のような発音を生み出した。 現代の北京語のピンインではこれを r で表す。 日本語においては、 「女」、 「日」などがこれにあたる。 これらは、 呉音で読むと、 「にょ」「にち」であるが、 漢音で読むと「じょ」「じつ」である。 どちらもイ段や拗音であることで、 介母音 i の存在がわかる。 唐代において発生したこの ni → ri という変化は、 日本語では、 摩擦性から、 「じ」という音として受け入れた。 しかし、 この変化を受ける前の六朝時代の南方音をベースにした呉音ではこれらは変化する前であったので、 n のまま受け入れたことになる。 よって、 この変化も魏志倭人伝を読む際には注意する必要がある。

もう一つ問題となるのは、 中国語の声母 h の問題であろう。 日本語には、 すくなくとも奈良時代においては、 h 音がなかったと思われる。 したがって、 これらを子音がないものとして扱うか、 あるいは、 カ行音として受け入れている。 「海」は、 「上海」を「しゃんはい」と読むことからして、 h 音であるが、 日本では「かい」と読む。 これらの中で、 一部、 合口の介母音 u を含むものについては、 ワ行音に対応させていることもある。 「和」が、 「わ」と読まれるのもそういう理由である。 このように、 日本語の半母音的な子音、 ワ行やヤ行については、 介母音を用いて、 子音を表している可能性があるのでこの点は注意すべきである。

中古音と上古音の問題は非常に複雑であるが、 声母で特に問題になるのは、 介母音の効果によって、 上古音と中古音が著しく異なる音韻になった場合であろう。 たとえば、 魏志倭人伝にも登場する「支」という文字である。 これは、 現代の日本語の漢字音はで「し」となるため、 魏志倭人伝に登場する「一支国」は「いっしこく」と読まれてしまう。 しかし、 上古音では、 kieg という発音であったことから、 「き」と読める。 このような発音は、 5,6世紀ごろにおいて、 韓国で残されており、 古韓音と呼ばれている。 埼玉県稲荷山古墳(5世紀末の古墳とされる)から、 鉄剣が発見された。 ここには、 銘文が施されていたが、 ここに「獲加多支鹵大王」が登場する。 現在では、 「ワカタケル大王」と読まれていて、 雄略天皇(オホハツセのワカタケ天皇)を表し、 同時に宋書に現れる倭王武であろうということで大方見解が一致している。 ここで、 「支」を「け」と読ませている。 しかし、 5世紀ごろの中国語においては、 この文字は tSie というような発音であって、 「き」とも「け」とも読まれない。 これを「け」と読むことができるのは、 朝鮮半島において、 古い発音が残っていたからである。 注:「獲加多支鹵大王」を「ワカタケル大王」と読む読むことについて、 筆者はあまり賛成できない。 日本書紀などでも「ワカタケ(若武)」とあって、「ワカタケル」ではない。 筆者自身の見解としては、「鹵」を、 助詞の「る」ないし「ろ」(現代語で「の」を表すもの)と考え、 「ワカタキる大王」と読むべきではないかと考える。 もっとも、「支」を「き」ないし「け」と読むことについては、賛成である。

日本語の母音の表現については、 注意すべき点は、 母音が介母音を用いているか、 韻母の主母音を用いているかの判断である。 イ段については、中国語の漢字音で、韻母の主母音が i になることがないことから、 おおむね介母音を用いていると見てよい。 また、 中古音において残った i, I の2種類のイに近い介母音は、 奈良時代においては、 イ段の甲乙の違いに用いられている。 この区別は、 唐代になくなったが、 そのころから、 日本の文献でも、 イ段の甲乙の違いをかき分けなくなっていった。 この日本と中国で同時に進行した区別の消失は密接に関係しているのかもしれない。 日本語の音韻構造の変化なのか、中国語のほうで、発音の変化が無くなったのかは、 簡単には判断できない。

ア段については、 韻母の主母音を用いて表現されていると見てよいだろう。 このような場合で、 介母音を含むとしたら、 合口の u である。 唇音である、 ハ行、 バ行、 マ行音では、 介母音 u で唇が丸くなっていることを表していることがある。 ウ段も、 韻母の主母音の u を用いているとみてよい。 オ段の甲類と乙類については、 ちょっと調べてみてもかなり面倒である。 奈良時代の文献における書き方で見てみると、 一般的には、 上古音で、 主母音が O であるようなもので、 オ段の乙類を表し、 o であるようなもので、 甲類を表している(このページでの母音のローマ字綴りはこのような理由で行っている)。 しかし、 一部介母音のi,I を含み、 中古音で主母音が o になるようなものでオ段の乙類を表している例がある。 たいがいは、 上古音の魚部に属するもので、 介母音を含むから iag(上古音) → io (中古音)となる。 主母音は、 o である。 乙類のオ段の母音 O は、 おそらく、 唇を丸めず、 中舌的な音韻であったため、 中古音で、 介母音 i を含む音が、 後ろの o に影響して、 乙類のオ段に近い音色を与えたのだろうか。 この関係が、 上古音において成り立つかどうかはわからない。 魏志倭人伝において、 卑弥呼亡きあと女王になった台与の「与」が、 まさにこの魚部の文字であり、 上古音では、 iag 中古音では、 io となる。 主母音は O ではないから、 甲類のヨであると考えられる一方で、 上古音から考えて「や」を表していたかもしれないし、 そして、 奈良時代文献での書き方から考えて、 「ヨ」の乙類を表していたのかもしれない。 謎である。 上古音の韻母の魚部については、 奈良時代文献では、 オ段の甲乙の他、 上古音では ag という韻であったから、 ア段を表すこともある。 「馬」なども、 mag という発音であり、 これはア段である。 かなり複雑な問題がある。 最後に、 エ段についてである。 中国語の中古音でも、 上古音で主母音 e はあるので、 これはそれほど問題ではないように思われるが、 介母音で i を含む場合は、 イ段との区別が面倒である。 奈良時代文献で見ても、 イ段の甲類と、 エ段の甲類の間では、 はっきりとしたかき分けが行われていないように見える。 これは、 日本語において区別がなかったものなのか、 それとも漢字音において、 区別をするのが難しかったのかが、 不明である。 エ段の乙類については、 中古音の韻母で、 ai というものが使われていることが多いから、 おそらく、 二重母音的な響きが残っていたのだろうと思われる。

魏志倭人伝の地名を解釈する

これまで、 漢字音でどのように日本語が表記されうるかについての概略を説明した。 ここで、 魏志倭人伝中の倭人の言語の語彙について触れる。 魏志倭人伝が書かれた3世紀末において、 中国の音韻が上古音の体系なのか、 中古音の体系なのかは、 大変難しい問題である。 上古音は、 千年以上にわたって安定した体系であり、 声母については、 周代から漢代に至るまでの間に大きな変化があったと考えられるが、 韻母については、 ほとんど大きな変化はなかったと考えられている。 この傾向は、 後漢末ごろまで続いたと見えるが、 その後の三国時代(3世紀)から六朝南北朝時代(4世紀から6世紀)が過渡期になる。 そして、 6世紀ごろには、 日本語の呉音からして、 中古音の体系であるから、 大方中古音の体系が完成していたと考えられる。 つまり、 3世紀から5世紀までの比較的短い間に大幅な体系の変化があったことになる。 千年以上安定していたものが、 200年か300年の間にこれほど大きく変化したのはなぜだろうか。 歴史的にみれば、 後漢帝国の崩壊で、 中国全体が政治経済の基盤を崩壊させ、 人口の急激な減少があったとも言われている。 そして、 西晋代も4世紀になると、 北方民族の流入が相次ぎ、 結局、 南部に遷都することになって、 ここに北方民族系の北朝と、もともとの漢民族系の南朝が対峙する構図ができあがる。 従って、 上古音から、 中古音への変化は、 主に、 北方民族の大量流入によってなされたと考えることができよう。 しかし、 北方民族が大量流入したのは、 おもに北方であり、 南方は、 従来からの漢民族の南朝が栄えた。 日本に伝わる呉音は、 この南朝から取り入れたが故に呉音というが、 これが5世紀から6世紀のことになろう。 にも関わらず、 呉音は、 ほぼ完全に中古音の体系である。 単に北方民族の流入が上古音から中古音への変化を促しただけではないらしい。 なにはともあれ、 後漢帝国の崩壊から、 六朝南北朝時代の前半ごろに、 上古音から中古音の変遷があったわけだから、 後漢崩壊から百年はたっていない3世紀末ごろまでの漢字音は、 完全な上古音とは呼べず、 かといって、 中古音の成立までにはまだ200年近くある状態ということになろう。 日本人にとっては、 魏志倭人伝の内容を探ることは、 邪馬台国の位置を考えたり、 卑弥呼がだれであるかを考えたりするものであるが、 中国人にとっては、 魏志倭人伝における漢字音が、 上古音なのか中古音なのかは、 漢字音の変遷史を知る上で、 注目すべきことなのである。

魏の時代の洛陽では、 韻文が大変栄えたため、 かなり現代までに残っているものがある。 それら韻文における押韻の仕方をみると、 おおむね上古音の体系に従っているという。 特に上古音で特徴的な去声と入声が韻を踏んでいる場合が多く、 その意味では、 去声の濁音韻尾も生き残っていたと考えることができる。 去声の濁音韻尾については、 7世紀初頭の切韻が書かれたころも、 一部の方言では残っていたらしく、 切韻にもそのようなことが書かれている。 すなわち「ある方言では、 去声を入声で読む」とある。 上古音から中古音への大幅な変化として、 韻母の主母音の変化がある。 これが引き起こされたきっかけは、 去声の濁音韻尾が消滅ないし一部は母音的なものに変化したことによる。 喉音韻尾の -g は -w のようなものに変化したり、 一部は -y のような形に変化した。 これによって、 主母音と二重母音を形成し、 母音の音色を大幅に変化させた。 例としては、 度 dag → daw → do があげられよう。 舌音韻尾の -d も、 その多くは -y のような子音に変わったため主母音を変化させた。 とすると、 魏の洛陽において、 大方、 上古音の体系で押韻する韻文が作られていたとすると、 魏志倭人伝の中の記述も韻母については、 上古音の体系でよいのではないか、 と思われる。 ただし、 常に中古音も考慮する必要はあろう。

声母については、 魏志倭人伝の最初のほうに登場する「一支国」が一つの根拠になろうと思う。 これが、 壱岐に対応するなら、 「支」は、 kie(g) と発音されていた可能性が高く、 中古音におけるような口蓋化によってtSieiとなるような過程を経ていない。 よって、声母も中古音よりは上古音に近かった可能性が高い。 しかし、声母については推定される上古音では、形声文字の諧声系列から求めたものであり、 これは、春秋時代ごろのことと思われるので、かなり中古音的な声母になっていた可能性もある。 そこで、おおむねここでは韻母については上古音の体系を中心に考え、声母については、 口蓋化を受けてないと仮定した上で、中古音に近いものを考えることにする。

まず、 国名として現れる地名である。 「対馬」は、 現在でも「対馬」という綴りを使っている。 上古音では、 tuOd mag という発音であり、 中古音では、 tuOi ma である。 現在の「つしま」という発音を奈良時代にさかのぼらせると、 tu tSi ma という発音になるだろう。 あるいは、 日本語に特徴的な連濁を考慮して、 tu d3i ma くらいになるだろうか。 上古音、 中古音ともに「対」については、 合口で、 主母音が O であるから、 奈良時代の日本語で考えるならば、 介母音の u をとって、 ウ段で「つ tu」 を表すとするか、 主母音の O をとって、 オ段乙類の「と tO」と見るかが難しい。 つぎに「つしま」の「し」であるが、 これが、 濁音であって「じ d3i 」であったとすると、 「対」の濁音韻尾である -d が、 これを表してると見ることもできる。 上古音では、 隊術部であり、 韻の上では、 -t ともあまり違いはなかった。 去声ではあるが、 かなり強く発音された濁音韻尾であったのかもしれない。 もし、 -d が、 「し」ないし「じ」を表しているとすると、 漢字としては、 上古音の隊術部 Od,Ot か祭月部 ad, at 、 至質部 ed, etを使うしかない。 そうすると、 主母音で、 u を表すことはできない。 そこで、 「つ」の部分を、 合口の介母音でウ段を表し、 韻尾で、 「し」ないし「じ」を表すことになったと考える。 次に「馬」は、 mag である。 -d の濁音韻尾に比べると、 消滅が早かった可能性があるので、 この時代、 ma(gh) 程度に発音されていた可能性があり、 「つしま」の「ま」を表していたと見てよいだろう。 表記としては、 「対馬国」であるから、 この「国」という字が k の声母をもつことを考えると、 mag-k-とつながるので、 喉(牙)音同士であまり -g を強く感じさせない。 ちなみに、 「対馬」を、 単純に上古音や中古音の主母音で解釈すると tO ma という発音が想定できるが、 これについては、 母音調和的に無理があると考えられる。 魏志倭人伝の記述からも「対馬国」は「対馬」と考えて良かろう。

次に「一支」である。 「一」は、 iet であり、 ほぼ「イ(甲類)」を表していると見てよい。 また、 「支」は、 kieg であるから、 これも、 「キ(甲類)」と考えて良い。 よって、 これが「壱岐」を表していると考えて間違いない。 しかし、 一つだけ気になるのは、 なぜ入声の「一」をつかったのか、 という点である。 後述する「伊都国」における「伊」を使えば、 入声韻尾の -t ほど強く発音されない。 それとも、 当時は、 「いき」ではなくて、 「いつき」というような発音に近かったのだろうか。 多少謎は残る。

さて、 次は「末廬」である。 上古音では、 muat lag である。 末が、 合口で、 介母音のu を含んでいる点は多少注意すべきかもしれない。 これが、 「まつら」を表現しているとすれば、 「末」の入声韻尾の -t が「つ」を表していることになる。 「廬」は、 lag であり、 「ら」を表していたと見ることができる。 ただし、 中古音では、 lo となる。 おおむね「まつら」という音を表していたと見て問題はなさそうである。

「伊都」については、 多少問題がある。 これは、 「い(甲)と(甲)」であると言われている。 ito である。 「伊」については、 ier であるから、 介母音の i を用いて、 「い」を表していると見てよい。 韻尾の -r はかなり弱い発音であるから無視できるし、 また、 次にくる「都」が、 舌音の系統であるから、 これとの相性もよく、 それほど目立たない。 問題は、 「都」である。 上古音での発音は、 tag であり、 この考えると、 「た」としか読めない。 一方で、 中古音は、 to となり、 「と(甲)」と読める。 末廬の廬(lag)を、 「ら」と読んだ以上、 ここでも、 「た」であるとしたほうが一貫性がある。 日本語において、 3世紀から6世紀ごろの間に、 「と」と読むように変化したのであろうか。 奈良時代文献では、 「怡土」とあるが、 「土」もまた、 上古音では dag である。 しかし奈良時代文献は中古音ベースであるから、 この場合は、 「ど」と読める。

次に、 奴国である。 これは、 教科書などでも「なこく」と読ませている。 上古音で、 nag で、 中古音で no である。 ここまでの一貫した読み方からすれば、 魚部の -ag は、 ア段と考えるべきだろう。 さて、 この「奴国」は、 後漢書にも登場し、 後漢皇帝から「漢委奴国王」の金印をもらった国であろうといわれている。 ここで、 「委奴」を、 日本語の漢音で読んで「いど」と読み「伊都国」であると考える人が、 専門家の中にもいる。 大きな間違いである。 「委」と「倭」は、 藤堂によれば、 上古音では、 歌部で、 (I)uar という発音であったとされる。 「委」は、 撮口であり、 「倭」は、 撮口と合口の両方の読み方があった。 一説には、 微部で、 (I)uOr であったとも言われている。 撮口でない場合は、 中古音から考えても、 日本語のイ段に対応する可能性はないし、 また撮口でイ段に対応させるのもかなり難しい。 よって、 「委奴」ないし「倭奴」における「委、 倭」が、 イ(甲類)を表していた可能性はほぼ皆無と見てよい。 また、 「奴」は、 上古音 nag、 中古音 no であり、 魚部である。 唐の長安の特殊な方言では、 濁音化して、 ndo という発音になり、 それが日本の漢音として平安時代までに入ってきたため、 「ど」という漢音があるが、 金印は、 後漢初期のものであり、 この時代は、 上古音が正式に通用していた時代である。 よって、 それが800年近く後のしかも洛陽から離れた唐の長安の音韻を使って発音を表した可能性は皆無である。 よって、 「倭奴」を「いど」と読み「伊都国」とするのは、 全くナンセンスである。 現代の日本語における漢音から推定された、 全く根拠のない説であるといえよう。

この項目、まだまだ続く。


考古学からみた邪馬台国論争

これまでの話の中でも、 記紀の記述の信憑性や神話伝承の史実との関係を考えるために考古学の成果を考えてきたが、 ここからは、 邪馬台国そのものについて考古学的の立場からみていく。

といいつつ、まだ、暇がないので、全部おわっていない。


Last modified: Mon Aug 30 02:42:03 JST 2004