で、ストーリーの詳しい話とか、邪推やら、解釈やらをどうのこうのっていう のは、もう他のページでもやっているし、具体的な話については雑誌でもいろ いろ扱われているので、ここでは、思ったことをつらつらと書くことにします。
たとえば、子供のころ、怪獣ごっこやったり、風呂敷をマントの代わりに首に くっつけて、木の棒をもって、ヒーローになった気分で近所を駆け回っていた りしたとき、あるいは、銀玉鉄砲で撃ち合いしたりしたとき、、、大人から見 れば、そういうのは、子供の遊びでしかないのだし、子供たち自身も、遊びだ ということは十分承知の上なんだけれど、そういうとき、自分は本当のヒーロー になったような錯覚に陥って、その現実と夢と妄想の間で、ドリフトしている ようなそんな楽しみ、感触を味わっていたことがあったんじゃあないか。「少 女革命ウテナ」では、非現実的ともいえる決闘や、非現実的な事件がつぎつぎ に描かれているけれど、それは、まさに、半分妄想で半分現実の中での漂流、 そんなようなものを、象徴的に描いているんじゃあないかと思えるわけです。
本当に好きな人。本当の憧れ。失恋。恋敵。妄想の中で、自分は恋敵と命をか けた決闘をしているとか、恋の炎で燃やし尽くされるとか、そういうものを象 徴的にしかも、誇張して描くと、「少女革命ウテナ」みたいな作品になるんじゃ ないかと思うんですよ。
そう、つまり、理性によって「見えない風景」、理性によって「みえないこと にしておくべき風景」をとことん描き込むと、ごく普通の学校生活があのよう な刺激的な世界を構成していることに気がつくというところが作品の面白さだ と思います。
ウテナのいる鳳学園では、特権階級としての生徒会メンバーがいて、それが正 体不明の「世界の果て」の指示により動いている。一般生徒は、彼ら生徒会の 支配のもとで、日常を過ごしている。まさにそれは、フランス革命前夜でのア ンシャンレジームを表しているわけです。生徒会メンバーが学園の中の特権貴 族であることは、その衣服からも、そして、たとえば七実の言葉使いからして も明らか。彼らの頽廃的な雰囲気もまた、アンシャンレジームを思わせる要素 になっているわけです。
そして、生徒会に所属しないヒーローであるウテナがいる。ウテナは革命家で あり、伝統を壊し、言葉も男性的であって、七実のそれとは対称的なものです。
実際、学校とはそういうところです。先生たちに好かれる勉強や運動ができて、 クラブ活動や教室においてつねに活躍する優等生たちがいて、多くの一般生徒 がそういう人に憧れたりする。人間は平等というのは嘘で、そういう特権的な 人間だけが、享受できる贅沢というものがあって、まさに社会の縮図のように 学校のなかに社会がある。
そのようなものを打ち破り、別の勢力として登場するウテナは、たしかに、優 等生ではないが、その美貌とスポーツ万能という魅力をもって、革命勢力のリー ダーになる。しかし一方で、アンシャンレジームとも革命勢力とも関係なく地 味に毎日を過ごす、一般生徒が存在する。そういう一般生徒の象徴として、若 葉や詩織、そして、七実親衛隊の茎子たちがいる。
だれだって、人生のうち一度くらいは、光輝いているときがあるものです。子 供のときに、とっても可愛いとか、そういう理由でちやほやされることもある し、一方で、老齢になって、とつぜん有名になる人もいるかもしれない。でも、 アンシャンレジームのメンバーである人やウテナたちは、いつもずっと輝いて いるのです。そうでない、一生のうち一度だけしか輝けない人たちが、黒薔薇 の力で、黒く輝く。そのときだけは、特権階級である人と互格に争うことがで きる。詩織は、ジュリに憧れていたが、そのジュリ自身が詩織を思い続けてい たことをしり、「私は勝った」という気持ちになって、ウテナに挑戦する。 若葉もまた、西園寺とひとときの幸せを掴み、そしてウテナに挑戦する。
でも、一度しか輝かない彼女たちは、結局、一度しか輝かないし、それは長く は続かないのでした。不条理というか、なんというか。でもそういうの、学校 でもあることだし、大人になった社会でもあること。
まあ、黒薔薇編は、放送延長のために挿入されたものであるとされていますか ら、本編と直接関わるわけではないのかもしれませんが、あれが入ったことで、 よりいっそう、革命とか、人間の人生とかそういう部分で考えさせられる部分 があったと思います。
どうにもならないことを、受け入れる方法として、完全な理性による支配って いうのがあるのかもしれない。実際、フランス革命というものは、中世の因習 をひきずったアンシャンレジームを、理性と合理主義で叩き壊し、合理的な社 会を作ろうとしたことだったとしたら、ウテナの最終回は、それがどんな形で あったにせよ、それまで鳳学園で続いていた、理性的にみて「どうにもならな い不条理」を合理主義によって、叩き壊すことかもしれないのですよね。
不条理の象徴がアンシーであり、完全に無意志な彼女の存在が、他の意志をもっ て活動している人たちの対極にある。一方で、彼女は意志がないゆえに、完全 な自由であるなんていう結論にもなるのかもしれません。
とまあ、こんなところで、エヴァンゲリオンの「おめでとうエンディング」に 通じる部分があるんですが、あっちは、「ぼくはここにいてもイイ」で終った のに対して、「ボクはここにいてはいけない」で終ったのがウテナですね。役 者が役者でなくなったら、舞台を降りなければならないということでしょう。 そして、アンシーも役者であることをやめて、最後に「ウテナ」とつぶやいて、 自分自身を取り戻した、とまあそんなところですね。
同僚がいっていたんですが、「あのCDとかのコマーシャルで幾原監督出てくる でしょ。あの人の服装とか態度、いかにも暁生なんですよね。あれって意識し てると思う」ということで、つまり、暁生って、監督本人。アニメを演出して、 作っていく本人。それを描いているという気がします。