朗読会「あなたのこころに」vol.2  (2014.07.05)

近江楽堂のこと
 今回かかった作品はふたつ。当初発表されていた「高野聖」(泉鏡花)から変更されて、「走れメロス」(太宰治)と「奉教人の死」(芥川龍之介)です。ちょっと意外なセレクションじゃありませんか? まぁ、「赤いろうそくと人魚」は意外じゃないのか、と言われると困りますが(笑)やはり会場となった近江楽堂の雰囲気に合わせて、とのことでした。近江楽堂はクラシック、特に古楽器系のコンサートが多い印象のこじんまりとしたコンサートホールです。小さなホールですが、天井が高いのと構造を工夫してあるのか残響がずいぶん長いです。朗読にはちょっと残響が大きいかなぁと思いましたが(清水さんも最初の挨拶でそんなことをおっしゃっていました)清水さんの素敵な声が響く至福の空間になりました。

「走れメロス」のこと
 日本人ならおそらく誰でも知っていると思われる「走れメロス」。太宰について何も先入観をもたない人が何の説明も受けずにこの作品を読むと「仲良きことは美しきかな」的なお説教くさい話に見えるだけではないかと思うのですが、どうでしょうか(中学生にもなって太宰治について何の知識も持たない日本人ってどうなのよ、という突っ込みはさておき)。私は太宰の作品を読んでいたし、複数回の心中事件のことも知っていたのでそういう人間がどういう心持ちでこんな作品を書いたんだろう、と不思議に思い、少なくとも授業でこの作品を扱っている何日間かはそのことについて考えていました。結局、何もわかりませんでしたけれどもね(笑)私が「ああ、そうなの」となんとなく漠然とわかったような気になったのは、長じて、太宰と檀一雄の熱海事件のことを知ってからです。以下、熱海事件を簡単に説明。執筆のために逗留していた熱海の宿で手元のお金を使い果たしてしまった太宰、奥さんが心配して檀一雄にお金を預けて熱海まで持っていってもらいます。「おー、お金が来た来た」というわけで安心して遊興を続ける太宰(こいつ、本当にダメ人間だなぁ…)、なお檀一雄も一緒になって遊んでいた模様。さて、檀がもってきたお金も底を尽き、太宰がどうしたか?檀をこの宿に人質に置いていくから東京に金策に行かせてくれ、と宿の主人を説得して東京へ帰りました。が、なかなか熱海に戻ってこない。セリヌンティウスよろしく熱海で待つ檀一雄。「五日待ったか、十日待ったか、もう忘れた。」(檀一雄『太宰と安吾』)といいますから2,3日のことではありません。檀は宿の主人に頼み込んで東京に太宰を探しに戻りますが、太宰は井伏鱒二と将棋を指していたのだそうです。「私は多分太宰を怒鳴ったろう。そうするよりほかに恰好がつかなかった。」(同上)、そこで太宰がなんと言ったかというと「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」だそうです。……うわぁ(笑)
 さて、ひとつ面白いと思ったことを。今回、朗読会にあたってこの作品の元になったというシラーの詩「人質(Die Buergschaft)」を読みました。シラーはこの詩の中で「走る」という言葉を使ってはいないのです。もちろん訳者の小栗もその言葉は使っていません。少し前に中学生の自由研究の「復路の終わりぐらいに最後のスパートとして走ったけれども、それはただの速歩きだったということがわかりました」「今回調べてみて、メロスはまったく全力で走っていないことが分かった」という考察が話題になりましたが、この突っ込み(?)は実に的を射ていたということがわかりますね!(笑)
 メロスを走らせたのは太宰なのです。シラーの叙事詩の英雄的なメロスに人間的な弱さと自己陶酔と饒舌さを与え、「二度、三度、口から血が噴き出」るまで走らせた太宰の心情を思うと、そして熱海事件のことを考えると、私は少し微笑ましい気分になります。
 作品論はこのくらいにしておきます。私のメロスのイメージは「正義感の強い熱血漢だが根は呑気なうっかりさん、単細胞でたぶん6時間以上先のことを考えたことがない」、こんな感じです(笑)なんですけど、清水さんのメロスは時々すごくかっこいいんですよ。それですごく意外だなぁと思いました。「走れメロス」は限りなく一人称視点に近い三人称視点の物語だと思います。後半になると地の文だか、メロスの独白だかよくわからない文章が延々と続き、メロスのモノローグに溺れて死んでしまいそうな気がします(笑)音で聴くとメロスが饒舌に過ぎるような印象は受けましたね、多少。それで、この後半、特に「走れ、メロス!」の後のたたみ掛けがすごくて「清水さんの勢いに流されたなぁ…」と思いました。朗読が終わってから(笑)色々と意外性があって、面白い朗読でした。

「奉教人の死」のこと
 事前に「奉教人の死」を読んだ時「困ったなぁ」と思いました。テーマがよくわからないからです。「ろおれんぞ」を不幸に突き落とした秘密その秘密を頑なに守る必然性が物語の中で全く語られていないので、肝心かなめの落ちの部分で「は?」となってしまう。元ネタというか、原典とされる『聖人伝』の某書では、この秘密の理由はきちんと説明されているのですが。
 そもそも、信仰の篤い、清らかな人間が周囲の人間全てを欺いて生きていくというのが何だか…。作中で「ろおれんぞ」は「しめおん」に「私はお主にさえ、嘘をつきそうな人間に見えるそうな」と言うが、実際「ろおれんぞ」は「しめおん」は勿論、周囲の人間全てに嘘をついているのに、この台詞がしれっと出てくるというのは何なんだろう、と。まぁ、深読みするとこのセリフと前後のシーンが「ろおれんぞ」の「秘密」の種明かしになっているのかもしれませんが。「ろおれんぞ」はなんのために嘘をつくのか。教会を追放されてなおそれを続けるのか。物語の一番大切な部分に説得力が全くないので、いくら悲しい美しい話でも「ただそれだけ」にしか見えません。
 非実在の「れげんだ・おうれあ」を原典とわざわざ書き記した二重構造も、天草本平家物語を元にして書いたという凝った地の文も、芥川特有の衒学趣味というだけではないと思います。この作品を平易な言葉でおとぎ話風に書けば、それこそ「走れメロス」になってしまう。シラーの冷静な叙事詩をもとにしながら、平易な言葉で感情移入と自己憐憫をむき出しにして「走れメロス」を書ける太宰と、偽の出典と擬古文調の語りで粉飾というか韜晦しないと「奉教人の死」を書けない芥川、というのは対照的だと思います。ただ、ここまでデコレーションをほどこしてまで、芥川が何を描きたかったのかが私にはよくわからなくて、それがちょっとつらいですな(笑)
 と、ここまでは作品論。表現論としてはすごくよかったです。文字で読むよりも語り手の存在感がぐっと強調された朗読でした。役者さんの表現力について考えさせられました。朗読でしたが、まるでドラマを見ているようでした。それも昔の大河ドラマのような重厚な感じの。私は原作を読んで臨んだのですらっと頭に入りましたが、初見の人が音だけで聞いて理解するのは少し難しい作品かもしれないですね。というか、せっかく朗読会を聞くなら原作予習ぐらいするだろうという私の感覚はずれているでしょうか。…うーん、どうだろう。舞台の話になりますが、私もシラーの「メアリ・スチュアート」は読んだけど、「アンナ・カレーニナ」は読みませんでしたからね。だって前に読んで嫌いなの知ってるんだもん(笑)
 ともかく、作品論とは別に、私はこの作品を清水さんの朗読で聴けて本当によかったと思います。率直にいうと内容と無関係に感動しました。表現として。こういう朗読を聴くとやはりファンとしては嬉しくなります。